ヒューマニスト50
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>



<田中正造>

 

田中正造没後100年、功績伝える秋 群馬・館林(2013年9月5日朝日新聞)
日本の公害問題の原点といわれる足尾鉱毒事件と闘い、直訴事件などで知られる明治時代の政治家・田中正造(1841〜1913)。4日は没後100年の命日だった。この節目に合わせ、鉱毒の被害を受け、正造の活動拠点にもなった館林市で今秋、様々な行事が予定されている。館林市史は「栃木県足尾町(現日光市)の足尾銅山から廃棄される鉱毒(おもに硫酸銅)が足尾山地を水源とする渡良瀬川を汚染し、下流の沿岸の耕地を荒廃させ、これに抗議する農民らが損害賠償や鉱業停止を要求する大衆運動を起こした」と鉱毒事件を説明。被害は1890(明治23)年の渡良瀬川の大洪水で表面化した。1900年には被害民約3千人が「大押し出し」を行い、明和町で警官隊に阻止され68人が検挙された川俣事件も起きた。この問題の解決に一生を捧げた正造は栃木県佐野市出身で、栃木県の選挙区から衆院議員に選ばれたが、館林市にある雲龍寺を活動拠点の一つにしていた。こうした経緯から、館林では今も鉱毒事件の研究や伝承に取り組む市民が多い。没後100年に際し、官民から『何かやろう』と声が上がり、昨年秋ごろから検討。今年5月、NPOや市民団体、市役所などで没後100年記念シンポジウム実行委員会が設立され、企画を練ってきた。

10月20日午後1時半〜5時には、市役所近くの三の丸芸術ホールで、シンポジウム「水と共に生きてきた歴史と暮らし」を開く。歴史や環境問題に詳しい専門家らが正造の功績を振り返り、水をテーマにディスカッションする。その前の第一部では、館林が猛暑で知られるため、気象予報士の木原実さんが温暖化など環境をテーマに講演する。9月28日〜11月10日(午前9時〜午後5時)には、市教委主催で、市役所近くの市第一資料館で特別展「足尾鉱毒事件と館林の人びと」も開かれる。渡良瀬川や利根川の流域で暮らす館林邑楽地域の住民と水の関わりを振り返り、正造の着物やげたも栃木県栃木市に借りて紹介する。佐野市が所蔵する明治時代に描かれた鉱毒被害地の略図(縦約112センチ、横約78センチ)も展示予定だ。入場無料。11月4日には、NPO法人運営の「足尾鉱毒事件田中正造記念館」の移転セレモニーも予定されている。元保育園の建物を利用し、老朽化して手狭な現在の事務所から、市街地の市有地に移転する。正造の功績を伝える活動がさらに充実すると期待されている。市教委は「没後100年を環境への意識を高める機会としたい」と意欲を見せる。問い合わせは市教委文化振興課(0276・74・4111)へ。(木村浩之)
http://digital.asahi.com/area/gunma/articles/TKY201309040546.html?ref=comkiji_redirect


 

田中正造:101回忌 偉大な足跡に新たな光、語り継ぐ足尾鉱毒事件 身の回りの品など貴重な資料展示−−館林/群馬(毎日新聞 2013年10月05日 地方版)

足尾鉱毒事件に取り組んだ田中正造の没後100年を記念した特別展が館林市第1資料館で開かれている。同市が鉱毒事件をテーマにした展示を行うのは29年ぶり。市内にあるNPO法人田中正造記念館が鉱毒事件を常設展示しており、今回の特別展では異なる面から紹介した。渡良瀬川と利根川にはさまれ洪水と利水の歴史として語られる館林地域の出来事のひとコマとして、鉱毒事件と正造を位置付けたという。同市が所有する関連資料は少なく、市内にある正造ゆかりの旧家や栃木県内の博物館などから借りた約100点で構成した。鉱毒事件の運動拠点になった雲龍寺に残る足尾銅山の操業停止を求めた請願書や、正造が描いた河川図、身につけた着物やげたなどが展示された。11月10日まで、入場無料。【金沢衛】
http://mainichi.jp/feature/news/20131005ddlk10040212000c.html


記者の目:田中正造没後100年=足立旬子(科学環境部)(毎日新聞 2013年09月12日 東京朝刊)

◇生き方や思想、再評価

「公害の原点」と呼ばれる栃木県・足尾銅山の鉱毒事件で、被害者救済に半生をささげた政治家、田中正造(1841〜1913年)が亡くなって今年でちょうど100年。

 「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」

 「デンキ開けて世間暗夜(あんや)となれり」

経済成長優先の近代文明を鋭く批判した言葉は、100年たっても色あせない。それどころか、東京電力福島第1原発事故後、正造の生き方や思想が再評価されている。足尾銅山では、明治政府の富国強兵政策の下、外貨獲得の柱として銅の大増産が古河財閥によって進められた。山の木々は燃料用に伐採されたうえ、製錬時に出る有毒ガスのため枯れて、大雨のたび、鉱毒を含んだ土砂が下流の渡良瀬川沿岸に流れ出た。稲は立ち枯れ、魚は死滅、人々は健康被害に苦しんだ。沿岸住民は「押し出し」と呼ばれる請願運動を繰り返し、国会議員の正造は、国会で国に銅山の操業停止や対策を迫った。しかし、日露戦争に突き進む国は銅生産を優先したため、天皇に直訴を試みた。盛り上がる世論を鎮めるため、国は鉱毒を沈殿させる名目で最下流域の旧谷中村(栃木県)に遊水地建設を計画した。正造は谷中村に移り住み、最期まで住民とともに反対運動を展開したが、村は強制的に破壊され、遠くは北海道へ移住を余儀なくされた。鉱毒の被害地では、田畑の土の上と下を入れ替える「天地返し」や、汚染された表土を削り取って積み上げる「毒塚」が作られた。命を育む大地が汚染され、何の罪もない人々が故郷を追われた。弱い立場の人たちにしわ寄せがくる構図は原発事故も同じだ。

◇「自然を征服」は人間のおごり

正造が批判したのは、何でもカネに換算する価値観だ。科学技術の力で自然を征服できると考えるのは人間のおごりだと主張した。また「少しでも人の命に害があるものを、少しぐらいは良いと言うなよ」と、人命の尊重が何にも勝ると訴えた。軍備を全廃し、浮いた費用で世界中に若者を派遣し、外交による平和を構築することも唱えた。正造の思想に詳しい小松裕熊本大教授(日本近代史)は「ガンジーよりも早く、非暴力、不服従を実践した」と評価する。だが、軍国主義の時代に戦争に反対し、経済成長ではなく、人命を優先せよとの正造の訴えを支持する人は一部だった。運動の資金調達に奔走している最中、渡良瀬川沿岸で倒れ、支援者の家で亡くなった。終焉(しゅうえん)の地の8畳間を代々保存する庭田隆次さん(79)は「今はたくさんの人が見学に来るが、見向きもされない時代も長かった」と話す。

正造の警句は生かされず、約50年後、今度は水俣病が発生した。化学工場のチッソ水俣工場(熊本県水俣市)で、廃液に含まれていた水銀が不知火海を汚染し、汚染された魚を多く食べた人たちが中枢神経を侵された。しかしチッソも国も生産を優先して対策を怠り、被害が拡大した。2020年五輪は東京で開催されることが決まった。だが、福島第1原発の汚染水漏れについて「状況はコントロールされている」と説明した安倍晋三首相に、福島の漁業者や避難生活を送る人々から厳しい目が向けられていることも忘れてはならない。 

◇国民にも向かう厳しいまなざし

私財を運動に投じた正造の全財産は、信玄袋に入った大日本帝国憲法と聖書、日記帳、石ころなどわずかだった。死の間際に「見舞客が大勢来ているようだが、うれしくも何ともない。正造に同情してくれるか知らないが、正造の事業に同情して来ている者は一人もない」と言い残したという。また「俺の書いたものを見るな。俺がやってきた行為を見よ」とも言っていた。正造と鉱毒事件を研究する「渡良瀬川研究会」の赤上剛副代表(72)は「正造の事業とは鉱毒事件解決だけではない。憲法に基づき、国家が国民の生命と生活をきちんと守るよう、政治も含め社会の仕組みを変えようとした」と話す。厳しいまなざしは、国民にも向けられた。採石のため山容が変わるほど削られた霊山「岩船山」(栃木県)を引き合いに「今の政治に今の国民を見る」と嘆いた。

 今月4日の正造の命日に、出身地の栃木県佐野市で法要が営まれた。始まってすぐに雨が激しくなり、雷が何度も鳴り響いた。100年たって日本は経済大国になったが、山や川が荒らされ、人の命が軽んじられている。政治家は、国民は、何をやっているのかと、正造が叱咤(しった)しているように感じた。一人一人が何ができるかを考え、行動を起こせ−−。雷鳴が胸に刺さった。
http://mainichi.jp/select/news/20130912ddm005070004000c.html


田中正造:没後100年「未来への大行進」に800人(毎日新聞 2013年10月13日)
 栃木県・足尾鉱毒事件の被害者救済に半生をささげた政治家、田中正造(1841〜1913)の没後100年を記念し、当時の葬列を再現した「未来への大行進」が13日、生誕地の同県佐野市で行われ、市民ら約800人が参加した。正造は活動資金集めの途上、胃がんに倒れた。市内の惣宗寺(そうしゅうじ)で営まれた本葬では、数万人が見送ったとされる。催しは人命や人権、環境を優先した正造の思想を次世代につなぐ狙いで「記念事業を進める会」が主催。当時のように同寺を出発、市中心部を約1時間練り歩いた。正造に扮(ふん)した白ひげ姿で明治天皇への「直訴状」を掲げる人や「真の文明は山を荒らさず」などの名言を書いた垂れ幕を持って歩く人もいた。正造に扮して孫と参加した同市の無職、岩月秀樹さん(68)は「教訓は生かされず、水俣病や福島第1原発事故などの悲劇が繰り返された。今起きている問題を孫の世代に先送りせず、自分たちの手で解決しなければならない」と話していた。【足立旬子】
http://mainichi.jp/select/news/20131014k0000m040036000c.html



田中正造/Wikipedia
田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)は、日本の政治家。日本初の公害事件と言われる足尾銅山鉱毒事件を告発した政治家として有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名、兼三郎。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。

足尾鉱毒事件
衆議院議員
1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選する。田中は帝国議会でも当初は立憲改進党に属していた。この年渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。1891年(明治24年)、鉱毒の害を視察し、第2回衆議院議会で鉱毒問題に関する質問を行った。1896年(明治29年)にも質問を行い、群馬県邑楽郡渡瀬村(現・群馬県館林市)の雲龍寺で演説を行った。1897年(明治30年)になると、農民の鉱毒反対運動が激化。東京へ陳情団が押しかけた。当時このような運動には名前がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。田中は鉱毒について国会質問を行ったほか、東京で演説を行った。農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約、脱硫装置など実際に着工されるが、効果は薄かった。1900年(明治33年)2月13日、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。この事件の2日後と4日後、田中は国会で事件に関する質問を行った。これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説であった。2日後の演説の途中で当時所属していた憲政本党を離党した。当時の総理大臣・山縣有朋は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。この年の川俣事件公判の傍聴中、田中があくびをしたところ、態度が悪いとして官吏侮辱罪に問われ、裁判にかけられた。なお、川俣事件は仙台控訴審での差し戻し審で、起訴状に担当検事の署名がないという理由で1902年(明治35年)に公訴不受理(一審で無罪だった者については控訴棄却)という判決が下り、全員が釈放された。

1901年(明治34年)10月、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動はやめず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行った。

12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行う。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の言及による)、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っているが、カツ本人は離縁されてはいないと主張している。

その後の活動
1902年(明治35年)、渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画が浮上。建設予定地となっていた埼玉県川辺村・利島村の反対運動に参加。計画は白紙になった。1903年(明治36年)には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。田中は1904年(明治37年)7月から実質的に谷中村に住むようにしている。同年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事がはじめられた。
1906年(明治39年)、谷中村議会は藤岡町への合併案を否決するが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表。谷中村は強制廃村となるが、田中はその後も谷中村に住み続けた。1907年(明治40年)、政府は土地収用法の適用を発表。「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出たが、田中は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。結局この土地が正造の終の棲家となる。1908年(明治41年)、政府は谷中村全域を河川地域に指定。1911年(明治44年)、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された。

正造の最期
土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。下野新聞によれば、死因は胃ガンなど。財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。雲龍寺で、9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は数万人ともいわれる。


 

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