ヒューマニスト37
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>


<石牟礼道子>

石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年3月11日 - )は、日本の作家。
熊本県天草郡河浦町(現・天草市)出身。水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て1958年谷川雁の「サークル村」に参加、詩歌を中心に文学活動を開始。1956年短歌研究五十首詠(後の短歌研究新人賞)に入選。
代表作『苦海浄土 わが水俣病』は、文明の病としての水俣病を鎮魂の文学として描き出した作品として絶賛された。同作で第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、受賞を辞退。
http://ja.wikipedia.org/wiki/石牟礼道子

 

原発事故、水俣病と重ねて 石牟礼道子さんの映画上映へ(2013/11/23朝日新聞)

【北野隆一】水俣病患者に寄り添ってきた熊本市在住の作家・石牟礼道子さん(86)のインタビューと自作の朗読で構成する映画「花の億土へ」(1時間49分)の完成披露上映会が25日、新宿区立新宿文化センター(新宿区新宿6丁目)で開かれる。監督は映像作家で音楽家の金大偉さん。石牟礼さんの作品世界を描く映画は3作目で、今回は「ラストメッセージ」と銘打っている。「石牟礼道子全集 不知火」を刊行してきた藤原書店(新宿区早稲田鶴巻町)が制作した。金さんは2009年から石牟礼さんのインタビューや朗読を計18時間撮り、文明批評や世界観が表れた場面を編集。石牟礼作品に登場する水俣や天草の海や空、山間部のダム湖などを撮影した。東日本大震災の発生後、原発事故により放射能という「毒」がまき散らされた現状についても語ってもらったという。

上映会は25日午後3時半と午後7時の2回で、入場料1500円。夜の部のほうが席に余裕があるという。問い合わせは藤原書店(03・5272・0301)へ。

     ◇

映画は2009年に石牟礼さんが倒れ、2〜3カ月記憶を失った時期の回想から始まる。「魂が抜け出していった。2カ月か3カ月ぐらいのあいだに目が覚めたんですけれど、何とも美しい音楽が聞こえるんです。幻楽四重奏団の」

幼い日の思い出。「海霊(うなだま)の宮という魚やネコ、キツネ、タヌキと交わるところがあるに違いないと思いまして。キツネになりたいと。真剣にコンコンと鳴いていれば背中にしっぽが生えてこないかと思って」

石牟礼さんは水俣病の苦しみの極致に「許し」に達したという患者の言葉をひく。「『私たちは助からない病人で、意地悪や差別、さんざん辱められてきた。それを許しますと考えれば、苦しみが少しでも取れるんじゃないか』とおっしゃいましてね」

思索は「祈り」にも向く。「近代になるほど祈りを捨ててきた気がします。水俣病が起きたときはみな祈りましたよ。それで語りきれない苦しみや悲しみを抱いて、思いを残して死んでいかれる」

福島の原発事故を語る言葉も、水俣病への思いとどこか重なる。「汚染された水を捨てるところがないでしょう。原発の炉の底が溶けて毒素が出て、そういう毒物を吸収しているわけですよね。実験にさらされている、いま日本人は」

http://digital.asahi.com/articles/TKY201311230019.html?iref=comkiji_redirect

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「水俣の苦しみ今も」石牟礼さん、皇后さまに手紙(2013/10/25朝日新聞)
【北野隆一】天皇、皇后両陛下が27日に熊本県水俣市を初めて訪れ、水俣病患者と懇談することについて、7月に初めて皇后さまと会った熊本市在住の作家・石牟礼道子さん(86)は「水俣にはまだまだ問題が残っています。患者の苦しみに思いを致していただく機会になればと思います」と願う。7月末、東京のホテルで開かれた社会学者の故・鶴見和子さんをしのぶ「山百合忌」の会。石牟礼さんは皇后さまの隣に座り、2時間あまりを過ごした。石牟礼さんが鶴見さんの思い出話をすると、皇后さまは「今度、水俣に行きますからね」と答え、パーキンソン病を患う石牟礼さんの皿に料理を取り分けたという。

石牟礼さんは後日、「今も認定されない潜在患者の方々は苦しんでいます。50歳を超えてもあどけない顔の胎児性患者たちに会ってやって下さいませ」と手紙を書いたという。石牟礼さんは4歳だった1931年、昭和天皇が日本窒素肥料(後のチッソ)水俣工場を訪れたことを覚えている。精神に障害がある祖母について警察官から「陛下の目に触れないよう島に連れて行け」と命じられた父が逆上し、「親の首に縄をつけて引っ張れない。陛下の赤子(せきし)として腹切って死にます」と警察官のサーベルに手をかける騒ぎになったという。石牟礼さんは田んぼに敷かれたござに正座し、水俣駅から工場の門に入る車列を見守った。「一斉に頭を下げたが、子どもの私はきょろんと見ておりました。みんなは『生きとるうちに陛下様に会えてよかった』と言いましたが、私には車の窓しか見えませんでした」71年に東京のチッソ本社前で患者らと座り込みをした際は、大した成果もなく「帰ろうか」となったとき、患者の一人が「そうじゃ、二重橋に行こう」と言った。皇居前広場に行き、「天皇さんに聞こえるごつ(ように)声出さんば」と手を挙げて、「天皇陛下万歳」と3回叫んだという。

 「叫ぶ仲間たちを見ていて涙がこぼれた。その患者もみんな亡くなりました」

今回の両陛下の熊本訪問は「豊かな海づくり大会」に出席するためだと聞き、石牟礼さんはつぶやいた。「豊かな海って……。(チッソが廃液を流した)不知火海をどうしてくれるのか」
http://digital.asahi.com/articles/TKY201310250153.html?iref=comkiji_redirect

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(書評)『蘇生した魂をのせて』『石牟礼道子 魂の言葉、いのちの海』(2013/07/14朝日新聞)

◇「公」とは何か、水俣から学ぶ
藤原書店から出ている全集も大詰めを迎えつつある石牟礼道子。行動をともなったその思索、そして言葉に関する本が幾つか出てきている。『蘇生した魂をのせて』は講演や対談をまとめたもの。そして『魂の言葉、いのちの海』は様々な書き手による石牟礼道子論と、全集未収録エッセーが掲載された本である。御存知(ごぞんじ)のように石牟礼は故郷熊本で水俣病患者に寄り添い、『苦海浄土』という貴重な記録文学を成した。そこには何よりも方言が踊り、震え、出来事に耐えている。体の中に水銀を貯(た)めざるを得なかった患者の苦しみはいまだ終わっておらず、そもそも近代化にともなう技術の一方的な“進歩”が、世界をどう不均衡にしてしまうかは、私たちの抱える原発事故問題に一直線につながっている。公害とはなんであるか。一体その「公」とは何か。本当にそれは公であるか。日本という国のために毒を排出し、誰かがそれを受け入れる、ということがあってよいのか。原発事故は公害である。その簡潔な視点に立てば、過去の公害をめぐる論議は私たちの礎になる。それを後退させてはならない、答えに窮して黙り込んではならない、と石牟礼の言葉を前に思う。特に何度も繰り返して考えたいのは、抗議運動を続けて来た患者たちの「自分たちの絶対的な加害者のために祈る」(『蘇生した魂をのせて』)という到達点だ。それはどれほどの苦難からしぼり出された深く重い言葉だろうか。また、『魂の言葉、いのちの海』で池澤夏樹は言っている。「水俣病の苦痛というのは世界中の人間にとって大事な財産なんですね」(2010年4月)。そして今、世界どころか、まさに日本の私たち自身が水俣から学び直さねばならない。学ばなければ、公害はとどめようもなく続く。「公」とはつまり、私たちを含む「絶対的な加害者」ではないか。評・いとうせいこう(作家・クリエーター)『蘇生した〜』河出書房新社・1890円▽『魂の言葉〜』KAWADE道の手帖・1680円
http://digital.asahi.com/articles/TKY201307130489.html?ref=comkiji_redirect

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水俣病「まだ何も解決しない」 石牟礼さんが講演(2013/04/22朝日新聞)
【溝越賢】水俣病問題の現代社会での意味を考え、次代に伝える水俣病記念講演会(朝日新聞社など後援)が21日、福岡市博多区のJR九州ホールで開かれ、「苦海浄土 わが水俣病」の著者、石牟礼道子さんらが話した。約700人が集まった。石牟礼さんは車いすで登壇。家族に多くの患者を抱えながら「地域社会に遠慮をして、一軒の家から、1人(認定申請を)名乗り出るのも心苦しい」と語る人々のことを話し、事情を顧みない行政を批判した。「水俣病を抱えた一家がどのように苦しい思いをしてきたことか、行政の長は1分でも1秒でも考えてみたら分かると思うんですけどね」。1956年に水俣病が公式確認される前後の状況にも言及した。病院で、患者が苦悶(くもん)して壁に残した爪痕や、人に見られないよう雑誌で顔を隠すのを見たことがあったという。また、現在も苦しむ患者のことに触れ、「まだ何も解決いたしません」と述べた。 最後に、人との絆を断ち切られ、自ら語ることができない患者たちのことを語ってきた石牟礼さんに、多くの人が応えてくれたことに謝辞を述べ、「天の魚 続・苦海浄土」に収められた自作の詩「生死(しょうじ)のあわいにあれば」を朗読した。作家の池澤夏樹さんは、水俣病の原因企業チッソや東京電力を例に、人間を数としてしか考えない官僚、企業の発想が、大規模な不幸を引き起こすと指摘。さらに、水俣病の背景には、経済成長を享受した国民の存在があり、私たち一人ひとりがその罪を背負うべきだと話した。水俣病をめぐる環境相の私的懇談会のメンバーや福島第一原発の事故調査・検証委員会で委員長代理を務めたノンフィクション作家の柳田邦男さんは「企業、行政、そして専門家のあり方、思想は、福島の原発事故でも水俣の時の構造と変わらない」とし、「(被害の)数字だけではリアリティーがない。私が取材で現場を歩くのは一人ひとりに会い、その実存を確かめたいから」と個別の被害に注目すべきだと強調した。講演会を主催した認定NPO法人水俣フォーラムは5月15〜27日、同じ会場で水俣病の歴史的資料や患者の遺影などを展示する「水俣・福岡展」を開く。入場料1千円(大学生以下600円)。問い合わせは同フォーラム福岡事務所(092・282・5846)。
http://digital.asahi.com/articles/SEB201304210014.html

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水俣から福島はどう見える 石牟礼道子さんに聞く 福島(2012年10月19日朝日新聞)
水俣から福島はどう見えるのか。水俣病患者に寄り添い、言論活動を続けてきた作家の石牟礼道子さんに話を聞くため、入院先の熊本市内の病院を訪ねた。


――原発事故の影響で福島県沖では漁業ができない状態が続いています。
水俣の海でも、有機水銀の汚染で漁師が苦しんでいます。「とても軽視してきましたよね、第1次産業を。水俣と福島、構図は全く同じだと思います」「不知火海では今、どんな化学変化が起きているのかまったく分からないですよ。放射能はこれまた未解明でしょ。人類にとってどういうものであるか」

――水俣市内で「チッソと水俣は運命共同体」という看板を見かけ、双葉郡を思い浮かべました。こうした状況を石牟礼さんは「切ないような一方的な片思い」と表現しています。

「『順序』なんですよね。チッソに義理があると思いこんでしまう。チッソのおかげで水俣が村から町になり、町から市になった。それが発展だと思っておられる。原子力もそうでしょう。『恩義』を感じておられる」

――水俣を経験しても、日本は変わらなかったのでしょうか?
「変わらなかったと思いますね。都市化はいいものだと思って、近代というのはやってきました。田舎の人は都市に憧れて、都市に行ったら、なんといいますか、田舎を侮蔑(ぶべつ)する。そういう人格になっていきましたよね」「人情なんて言葉はもう古くなりましたね。人類愛というのを考えていけば、ひとりの人間に行き着きます。そのひとりの人間から情愛が薄れたまま、集団になり、町になり、都市になり、国家というものになるわけでしょ。人情を失った国家。個人の自由を追求し、人のことには口出ししないかわりに、情けもかけない」 

――かつて石牟礼さんはチッソ本社前での座り込みに参加されていました。今の官邸前のデモをどう見ていますか?
「デモは必然的に起こる。ひとりで長い間考えていれば、漏らす相手がほしいですよね。誰かに話したいですよね。そういう人たちが集まると、必然的にデモになります。止めようとしても止められない。止める理由もない」

――とりわけ子どもを持つお母さんたちが、社会を変えようと動いています。

 「社会に変化をもたらしそうな、『希望』ですね。そらあ、子どもの未来を考えるとたまらんですよ。じっとしていられないですよ。表現できる人はどんな形でも、表現した方がいいと思います」

――16万人もの福島県民が避難している中で政府は原発を再稼働させました。「2030年代に原発稼働ゼロ」という政府方針には、経済界から反発がおきました。
「どういう神経でしょうかね。手を働かせる、足を働かせる、体を動かすというのは、頭の働きをよくすると思うんですよ。手で触って手で裁縫して。何でも手でやっていましたよ。押せば何でも出てくる時代になって、今ごろの人はしなくなった。いろんな器官を使って人間は今のような形になったと思うんですけど、心の発達も含め、退化していくばかりではないでしょうか」(笠井哲也)

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いしむれ・みちこ 作家・詩人。1927年、熊本県の天草に生まれ、水俣で育った。水俣病患者と行動を共にし、原因企業であるチッソ本社前で患者たちと座り込みもした。水俣病患者の心の叫びをつづった69年の「苦海浄土(くがいじょうど)――わが水俣病」で第1回大宅壮一ノンフィクション賞(受賞辞退)。93年に「十六夜(いざよい)橋」で紫式部文学賞、2001年度に朝日賞を受賞。「苦海浄土」3部作は04年に完結した。近著に藤原新也さんとの対話集「なみだふるはな」がある。

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原田正純さんを悼む 水俣病患者支え続けた笑顔(2012/06/19朝日新聞)
石牟礼道子(作家)
 熊本の天草にいる友人が、原田正純先生の訃報(ふほう)を知って、深いため息とともにつぶやいたという。
 「……草も木も、みんな泣きよる……」
私も泣きたくなる。これから先どうして生きてゆこう。人見知りの強い私が、水俣のことをご相談するのは、限られた患者さんたちと、人の生くべき道を身をもって示して下さった原田正純先生だった。なによりもあの笑顔。今や50代半ばになった胎児性患者たちが幼児の頃、村の公民館で熊本大の先生方による検診を度々受けていた。村々では井戸が消毒され、猫が海に飛び込んで全滅するなど異常が続き、検診会場にも困惑した気配がただよっていた。その中で、子供たちが一人の青年医師の白衣にすがりついて甘えているのをしばしば見かけた。この方が後に、胎児性患者の存在を立証された原田先生だった。母親の胎内というものは、侵すべからざる神聖なところで、外界からの毒物は侵入しないというのが当時の医学的定説であった。二人の小児患者を持つ母親から「おこられて」、胎児性がありうると考えはじめた、と先生はおっしゃっていた。


奥さまとの楽しげであった最晩年を思い出す。奥さま手作りの味噌(みそ)豆腐や栗の渋皮煮などを小びんに入れて、いかにも嬉(うれ)しげに来宅されたのは、3カ月くらい前だったか。なぜか晩年、度々大病を患われ、講演中にぶっ倒れられたこともある。その度に奇跡かと思うほどよくなられ、よくなられたと喜んでいると、もう水俣の患者さんのところへ出かけられている。私は大腿(だいたい)骨と腰を骨折して以来、外へ出かけられなくなっている。原田先生のお噂(うわさ)をうかがって、水俣の様子を知りたい、と思っていると、先生からお電話があったり、お見えになってくださったりした。「いやあ、この前は抗がん剤をのまされましてね、頭がつるっぱげになっとりましたですよ。幸い生えてきたもんですから、お見舞いにうかがいました」などと冗談をおっしゃりながら、この仕事場にも何度か来ていただいた。 最近はこんなこともよくおっしゃっていた。


「この症状はただの病気じゃなかですもんね。殺人ですよ。公害のなんのちゅう名前つけて、原因ははっきりしとります。チッソを公の機関と思ってる人たちがいるんでしょうか。いるんでしょうね。これはれっきとした犯罪です。これを取り締まらずして他の個人犯罪ばかりを追っかけるのは腑(ふ)に落ちんですよ。水俣の被害者は、こんな世間に、どれだけ遠慮していると思いますか、そうでしょ。家に訪ねて行っただけでそれは喜びなはりますよ。あの人たちは、人のなさけに飢えとりますよね。声かけただけで大恩を受けたと思いなはる。なんというか、じつに純な心をお持ちの方が多かですよ。みんな貧乏でねえ」貧乏というや涙ぐみ、ふいに声を落とされた。あの牧歌的な先生の胸の底に、直接ふれることはもう出来なくなった。
     ◇
 いしむれ・みちこ 1927年熊本県天草生まれ、水俣育ち。『苦海浄土(くがいじょうど)――わが水俣病』で水俣病の現実を描いた。朝日賞受賞。近著に写真家・作家藤原新也さんとの対話集『なみだふるはな』。
http://digital.asahi.com/articles/TKY201206180417.html

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