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英国/グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国/United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland

ヨーロッパ

■地理
イギリスはグレートブリテン島のイングランド、ウェールズ、スコットランド、およびアイルランド島北東部の北アイルランドで構成されている。この2つの大きな島と、その周囲大小の島々をブリテン諸島と呼ぶ。グレートブリテン島は中部から南部を占めるイングランド、北部のスコットランド、西部のウェールズに大別される。アイルランド島から北アイルランドを除いた地域はアイルランド共和国がある。


グレートブリテン島
Great Britain、は、北大西洋に位置する島で、アイルランド島、マン島などとともにブリテン諸島を構成する。ヨーロッパ大陸からみるとドーバー海峡を挟んで北西の方向にあたり、ヨーロッパ地域の一部である。面積は、219,850km2で、世界で9番目に大きい島である。イギリスの国土の中心的な島で、同国の首都ロンドンをはじめとする多くの大都市を有する。グレートを訳して大ブリテン島と呼んだり、取り去ってブリテン島と呼ぶ場合もある。

アイルランド島
Island of Irelandは、ヨーロッパで3番目に大きな島である。ヨーロッパ大陸の北西沖に位置し、アイリッシュ海を挟んで東にグレートブリテン島に接し、面積は8万4412km2。南北450km、東西260kmで、中央部の低地を丘陵地帯が取り囲む地形である。政治的には、ダブリンを首都とする南西部大半のアイルランド共和国と、ベルファストを首都とする北部の北アイルランド(アルスターの一部)に分かれ、北アイルランドはグレートブリテン島のイングランド・スコットランド・ウェールズとともにグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国(イギリス)を構成する。

アイリッシュ海
Irish Seaはアイルランド島とグレートブリテン島を隔てている海である。アイルランド海とも。大西洋とはアイルランドとウェールズ間のセントジョージ海峡で南側、アイルランドとスコットランド間のノース海峡を通して北側で繋がっている。 また、アイリッシュ海の真中にはマン島が存在する。

マン島
Mannは、グレートブリテン島とアイルランドに囲まれたアイリッシュ海の中央に位置する島。広さは淡路島(592km2)に近い。主都はダグラス (Douglas) 。人口は約8万2000人。法的にはグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国の一部でもなく、イギリス連邦 (commonwealth) の加盟国でもなく、自治権を持ったイギリスの王室属領 (Crown dependency)である。

フォース湾
Firth of Forth, スコットランドゲール語 Linne Foirthe)は、スコットランド東岸の湾。北海へ向かって開け、周囲の行政区画にはファイフ、ウェスト・ロージアン、エディンバラ、イースト・ロージアン。フォース川が注ぐ。湾の最も奥はキンカーディン橋とされている。


エディンバラ城
(Edinburgh Castle )は、スコットランド・エディンバラにある城。キャッスル・ロックという岩山の上に建つ古代からの要塞で、エディンバラのシンボルである。スコットランドでは、グラスゴーのケルヴィングローヴ・アート・ギャラリー・アンド・ミュージアムに次いで多くの観光客が訪れている。人間の定住は紀元前9世紀前後からといわれている。城内で最も古い12世紀初期の建築物であるセント・マーガレット教会堂を除くと、城の建築物のいくつかは16世紀以前のものである。



アングロ・サクソン人
Anglo-Saxons)は、5世紀頃、現在のドイツ北岸、南部よりグレートブリテン島に侵入してきたアングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称である。この中でサクソン人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いた。409年にローマ帝国がブリタンニアを放棄した後、現在のデンマーク、北部ドイツ周辺にいたゲルマン人が、グレートブリテン島に渡ってきた。彼らは先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐した。これが英国における最初のアングロ・サクソン人である。彼らの言葉が英語の基礎となった。


ピクト人
(Picts)は、フォース川の北、ローマ帝国支配下の頃にカレドニアと呼ばれていたスコットランド地方に居住していたコーカソイド種族。多くの歴史学者によると、7つのピクト王国が存在していたとされる。それぞれの推測された領域は次の通りである。考古学者の手により、ピクト人のものによるとされる建造物や宝石類が発見され、複雑な社会を構成していたことが推測されるが、文字の記録はほとんど発見されていない。小さな王国が連合していたと思われ、まれに戦争があったと思われる。


<歴史>
■1066年
ウィリアム征服王 (William the Conqueror) がイングランドを制圧し、大陸の進んだ封建制を導入して、王国の体制を整えていった。人口、経済力に勝るイングランドがウェールズ、スコットランドを圧倒していった。

■1282年
ウェールズ地方にもイングランドの州制度がしかれ、1536年には正式に併合した。

■1603年
イングランドとスコットランドが同君連合を形成、1707年、スコットランド合併法(1707年連合法)により、イングランドとスコットランドは合併しグレートブリテン王国となった。

■1801年
アイルランド合併法(1800年連合法)によりグレートブリテン王国はアイルランド王国と連合し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国となった。

■19世紀
ナポレオン戦争後は七つの海の覇権を握って世界中に進出し、カナダからオーストラリア、インドや香港に広がる広大な植民地を経営し、奴隷貿易が代表するような交易を繰り広げイギリス帝国を建設した。中国国内でのアヘン販売を武力で認めさせるため、中国に対して阿片戦争を仕掛けた 。

■第二次世界大戦直後
労働党のクレメント・アトリー政権が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにいち早く福祉国家を作り上げたが、階級社会の伝統が根強いこともあって経済の停滞を招き、1960年代以降は「英国病」とまで呼ばれる不景気に苦しんだ。

■1980年代
マーガレット・サッチャー首相が経済再建のために急進的な構造改革(民営化・行政改革・規制緩和)を実施し、大量の失業者を出した。地方経済は不振を極めたが、ロンドンを中心に金融産業などが成長した。

■1990年代
政権は保守党から労働党のトニー・ブレアに交代し、イギリスは市場化一辺倒の政策を修正した第三の道への路線に進むことになった。このころからイギリスは久しぶりの好況に沸き、「老大国」のイメージを払拭すべくクール・ブリタニアと言われるイメージ戦略、文化政策に力が入れられるようになった。

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グレートブリテン王国
Kingdom of Great Britainは、イングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国の合同により成立した王国。グレートブリテン島全体を支配した初めての国家。

薔薇戦争
による内乱。1455年5月にヨーク公リチャードがヘンリー6世に対して反乱を起こしてから、1485年にテューダー朝が成立するまで(1487年6月のストーク・フィールドの戦いまでとする見方もある)、プランタジネット家傍流のランカスター家とヨーク家の間で戦われた権力闘争である。

アイルランド王国
Kingdom of Irelandは、アイルランド島にあった王国(1541年 - 1649年・1660年 - 1800年)。終始イングランド王国(のちグレートブリテン王国)との同君連合の下にあったが、事実的にはイングランド王による自称であった。しかし1694年以降は実効支配下に置かれた従属国となった。1541年、イングランド王ヘンリー8世が、形式的にはアイルランド議会の決議に基づき、それまでの称号であったアイルランド卿(Lord of Ireland)に代えてアイルランド王(King of Ireland)を自称したのが始まりとされている。

アイルランド自由国
Irish Free Stateは、1922年にアイルランド島32州のうちの南部26州がイギリスより分離して成立した立憲君主制国家である。19世紀後半より、アイルランドではイギリスからの独立・自治を求める運動が激しくなった。一方、アルスター地方を中心としてイギリスとの連合を維持しようとする勢力もあり、両者の衝突が続いた。

グレートブリテン及びアイルランド連合王国
United Kingdom of Great Britain and Irelandは、1801年にグレートブリテン王国とアイルランド王国が合同して成立した王国である。1541年にテューダー朝のイングランド王ヘンリー8世がアイルランド王の称号の使用を宣言して、アイルランド王国が成立したとされる。この時は一方的な宣言であったが、以後イングランドによるアイルランドの支配強化が始まる。歴代のイングランド王(1707年以降はグレートブリテン王)はアイルランド王を兼ねたが、実態はイングランドによるアイルランドの征服と植民地化の過程であった。

イギリス帝国
British Empireは、イギリスとその植民地・海外領土などの総称である。大英帝国(だいえいていこく)ともいう。また大英帝国はその全盛期は世界歴史上最大の帝国であり、1945年より前まではアメリカ合衆国に並ぶ超大国であったと定義され、のちに各植民地が独立し、イギリス連邦が発足した。冷戦ではアメリカ合衆国とともにソビエト連邦が超大国になった。


北アイルランド問題
The Troubles, とは、北アイルランドにおける紛争問題の総称である。長年におけるイギリスの最大の政治問題と言われている。なお、アイルランドの統一を支持するものは、「北アイルランド」との呼称を嫌い、「6県(6 Counties)」とよぶ場合が多い。統一支持者によればアイルランド全土は32県であり、そのうち6県が「北アイルランド」とされている。


<世界遺産>
■ジャイアンツ・コーズウェーとコーズウェー海岸

ダラム城と大聖堂
城の原型は、11世紀にイングランド王国北部においてノルマン朝の勢力を投影させるために建てられた。

アイアンブリッジ峡谷
周辺の敷地を含む屋外博物館アイアンブリッジ渓谷博物館はヨーロッパ産業遺産の道のアンカーポイントの一つとなっている。

ファウンティンズ修道院遺跡を含むスタッドリー王立公園
イングランドのノースヨークシャー州にある公園で、シトー会のファウンテンズ修道院の廃墟を含んでいる。

ストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群
ストーンヘンジと関連する記念建造物群(Stonehenge and Associated Monuments, ID 373-001)は、ソールズベリーの南ウィルトシャーに位置している先史時代の巨石建造物群である。登録面積は約 26 km2 で、ストーンヘンジを中心としている。

グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁
13世紀に建てられた4つの城の総称である。これらの城は、ウェールズ公国を征服したイングランド王エドワード1世によって建てられた。1283年から1290年代にかけ建設を始めた城ばかりである。

ローマ帝国の国境線
ローマ帝国の繁栄と衰退を残す文化的景観が評価されて、1987年にイギリスのハドリアヌスの長城が単独で登録された。その後、2005年にドイツのリーメスを拡大登録した際に現在の名称となり、2008年にはイギリスのアントニヌスの長城も含まれることが決定した。


ブレナム宮殿
Blenheim Palace)は、イギリスのオックスフォードの北部にある宮殿。マールバラ公ジョン・チャーチルが、スペイン継承戦争中のブレンハイム(ブレナム)の戦いで立てた戦功によって当時のアン女王から贈られた大邸宅。

バース市街
バースは、ロンドンの西140kmにあり、行政区分としては、単一自治体のバース・アンド・ノース・イースト・サマセットの地区となる。人口は9万人程度。紀元前からの温泉場として有名。一説には、ケルト人が発見したと言われている。

ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター大寺院と聖マーガレット教会
ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)は、英国ロンドンの中心部テムズ川河畔に存在する宮殿。現在英国議会が議事堂として使用している。併設されている時計塔(ビッグ・ベン)と共にロンドンを代表する景色として挙げられる。

ロンドン塔
Tower of Londonは、イギリスの首都のロンドンを流れるテムズ川の岸辺、イースト・エンドに築かれた中世の城塞である。ロンドン塔には、世界最大級の大きさであるワタリガラス(Raven)が一定数飼育されている。チャールズ2世が駆除を考えていた所、占い師に「カラスがいなくなるとロンドン塔が崩れ、ロンドン塔を失った英国が滅びる」と予言され、それ以来、ロンドン塔では、一定数のワタリガラスを飼育する風習が始まったとされる。またイギリス人に人気のあるアーサー王伝説において、アーサー王が魔法でワタリガラスに姿を変えられてしまったという伝説もあり、ワタリガラスを殺す事は、アーサー王への反逆行為とも言われ、古くから不吉な事が起こるとされている。

河港都市グリニッジ
グリニッジは大ロンドン南東部の町で、グリニッジ・ロンドン特別区のテムズ川南岸に位置している。グリニッジ標準時の基準となる都市として、また「マリタイム・グリニッジ」(海事都市グリニッジ、河港都市グリニッジ)の名でユネスコの世界遺産に登録されている由緒ある港町として、よく知られている。

オークニー諸島の新石器時代遺跡中心地
グレートブリテン島の北東沖合い、北海と大西洋の境界に位置する。2007年の人口は19,900人。オークニー諸島は野生動物の宝庫である。特にハイイロアザラシ、ゼニガタアザラシ、パフィンやミツユビカモメ、ハジロウミバト、オオトウゾクカモメといった海鳥である。クジラ、イルカ、ユーラシアカワウソも沿岸部周辺で見られる。

ブレナボン産業用地
Blaenafonは、ウェールズ南東部にある町で、その産業景観は世界遺産にも登録されている。ポンティプールの北にある Afon Llwyd 川の源流に当たる丘の中腹に位置し、人口は6349人(調査時点不明)である。

ニュー・ラナーク
スコットランド・サウス・ラナークシャーの都市ラナークから約 2.2 km のところに位置するクライド川沿いの村である。1786年にデヴィッド・デイル(David Dale)が綿紡績工場や工場労働者用の住宅を建設したことを起源とする。デイルがその場所に工場を建てたのは、川の水力をうまく活用するためだった。

ダーウェント峡谷の工場群
イギリスのダービーシャー州ダーウェント川 (River Derwent) 沿いにある世界遺産である。ミル (Mill) ともいう近代的な工場は、リチャード・アークライトが発展させた綿紡績のための新技術に適応すべきものとして、この地で生まれたのである。

キュー王立植物園
(Royal Botanic Gardens, Kew)はイギリスの首都ロンドン南西部のキューにある王立植物園。キュー植物園などとも呼ばれる。1759年に宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を有している。

海港商業都市リヴァプール
Liverpool - Maritime Mercantile City)は、イングランドの港町リヴァプールの街区を対象とするユネスコの世界遺産リスト登録物件である。

コーンウォールとウエスト・デヴォン鉱山の景観
イギリス南西部のコーンウォール州からデヴォン州西部にかけてのいくつかの鉱山景観を対象とするユネスコの世界遺産の一つである。

セント・キルダ
ボーレー島(Boreray)、ヒルタ島(Hirta)、ソアイ島(Soay)、ダン島(Dun)の4島が主な島である。全島が無人島で、ナショナル・トラストから派遣された監視員数人が交代で駐留する程度である。また、群島全域が世界遺産であるため、年間上陸者数も限定されている。


ロンドン交響楽団
London Symphony Orchestra、略称LSOは、イギリスのプロのオーケストラのひとつ。ロンドンのオーケストラの中でも中心的存在。本拠地は、1982年よりロンドンのバービカンセンター。また「女王陛下のオーケストラ」としても知られ、名誉総裁(ペイトロン)にはエリザベス2世が就いている。

バーミンガム市交響楽団
City of Birmingham Symphony Orchestra, 略称CBSOはイギリスのバーミンガムを拠点とするオーケストラ。1920年にバーミンガム市管弦楽団(City of Birmingham Orchestra)として発足、同年9月に行なわれた最初の演奏会は、エルガーを指揮者に迎えて行われ、オーケストラ設立を強力に後押ししたグランヴィル・バントックの演奏会序曲《サウル》がプログラムにとり上げられた。1948年に現在のように改名された。

ハレ管弦楽団
The Halle) はイギリスのマンチェスターに本拠を置く、イギリスで最も伝統あるオーケストラである。古い資料ではハルレ管弦楽団という表記になっている場合もある。1857年5月、マンチェスター美術展(同年10月まで開催)で演奏するためにドイツ人ピアニスト・指揮者のカール・ハレ(イギリスに帰化後はサー・チャールズ・ハレ)により設立された管弦楽団が源流。

BBCフィルハーモニック
(BBC Philharmonic)は、マンチェスターを本拠地とする英国放送協会(BBC)傘下のオーケストラであり、イギリスの主要オーケストラの1つである。


ビートルズ
ザ・ビートルズ(The Beatles)は、イギリス・リヴァプール出身のロックバンドである。1962年10月にレコードデビュー、1970年4月に事実上解散(詳細はこちら)。「BEATLES」という名称は、ジョンとスチュアート・サトクリフが考えた造語である。ジョン・レノン(John Lennon)(1940年10月9日 - 1980年12月8日)(リズムギター)ポール・マッカートニー(Paul McCartney)(1942年6月18日 -)(ベース)ジョージ・ハリスン(George Harrison)(1943年2月25日[注釈 12] - 2001年11月29日)(リードギター)リンゴ・スター(Ringo Starr)(1940年7月7日 -)(ドラムス)


レッド・ツェッペリン
レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin, 1968年 - 1980年)はイギリスのロックバンド。名実共に1970年代を代表する世界的なロックバンドである。略称は、ZepもしくはLed Zep。1968年にデビュー以来、今も全世界的な人気を誇るロックバンドである。彼らの楽曲にはアコースティックナンバーも多く、ブリティッシュ・トラッド、フォークから中近東音楽に渡る幅広い音楽性を持ち、1960年代のザ・ビートルズとはまた違った方法論でロックの限界を押し広げた。ジミー・ペイジ Jimmy Page(ギター、テルミン、ダルシマー)ロバート・プラント Robert Plant (ボーカル、ハーモニカ)ジョン・ポール・ジョーンズ John Paul Jones (ベース、キーボード、シンセサイザー、ピアノ、バンジョー、マンドリン)ジョン・ボーナム John Bonham (ドラム)各メンバーの担当パートにおける、実力に裏打ちされたオーソリティーとしての感性や音楽性、特にドラムスの独特のタイム感覚(グルーブ感)、そして、当初ペイジが中心になり、後にプラント、ジョーンズそしてボンゾも参加しだした楽曲の完成度は、「ブリテッシュハードロックの聖域」といわれるほど独自なものであった。


エレクトリック・ライト・オーケストラ
(Electric Light Orchestra)は、イギリスのバーミンガム出身のロックバンド。ザ・ムーブからの発展という形で1970年に活動を開始、1971年にレコードデビュー。1970年代から1980年代にかけて世界的な人気を博した。「ビートルズよりもビートルズらしい曲を持ったバンド」とも言われた。略称ELO(イー・エル・オー)。「ロックとクラシックの融合」を目ざし、全盛期には「世界、最小で最高のオーケストラ」と言う称号を得た。

オアシス
(Oasis)は、イギリスのロックバンド。1991年結成。2009年解散。ブリットポップ・ムーブメントの代表格であり、近年のイギリスの国民的ロックバンド。ビートルズ、ローリング・ストーンズなどから続く正統派イングリッシュ・ロックで世界的にも人気があり、 全世界でのCDトータルセールスは7000万枚を超える(2009年時点)。


トーマス・エドワード・ロレンス
Thomas Edward Lawrence、1888年8月16日 - 1935年5月19日は、イギリスの軍人、考古学者。オスマン帝国に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援した人物で、映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる。1907年、オックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学。1907年と1908年の夏には長期に渡ってフランスを自転車で旅し、中世の城を見て回った。1909年の夏にはレバノンを訪れ、1600キロもの距離を徒歩で移動しながら、十字軍の遺跡調査をしている。

ヴァージニア・ウルフ
irginia (Adeline) Woolf (nee Stephen)、1882年1月25日 - 1941年3月28日はイギリスの女性小説家、評論家、書籍の出版元であり、20世紀モダニズム文学 の主要な作家の一人である。ウルフはケンジントンのハイドパークゲート22番地の家で、文学に造詣が深く、豊かな人脈を知己に持つ両親のもとで育った。

ダニエル・デフォー
Daniel Defoe, 1660年 - 1731年4月21日は、イギリスの作家、ジャーナリスト。『ロビンソン・クルーソー』を書いたことで有名。著作活動に入る前に様々な商業活動に従事した。時には巨富を築き、時には破産し、実生活でもロビンソン・クルーソーのように浮き沈みが激しかった。

ジョナサン・スウィフト
Jonathan Swift、1667年11月30日 - 1745年10月19日は、イングランド系アイルランド人の諷刺作家、随筆家、政治パンフレット作者、詩人、および司祭。よく知られた作品に『ガリヴァー旅行記』・『穏健なる提案』・『ステラへの消息』・『ドレイピア書簡』・『書物合戦』・『桶物語』などがある。

チャールズ・ディケンズ
Charles John Huffam Dickens, 1812年2月7日 - 1870年6月9日は、イギリスのヴィクトリア朝を代表する小説家。ポーツマスの郊外に生まれた。年少時より働きに出され、新聞記者を勤めるかたわらに、作品集『ボズのスケッチ集(Sketches by Boz)』で登場。主に下層階級を主人公とし、弱者の視点で社会を諷刺した作品群を発表した。


アーサー・コナン・ドイル
Sir Arthur Conan Doyle、本名:Arthur Ignatius Conan Doyle、1859年5月22日 - 1930年7月7日はイギリス・スコットランドのエディンバラ生まれの小説家で、推理小説・歴史小説・SFを多く著した。1859年、スコットランドの首都・エディンバラで、イングランド生まれの役人の父とアイルランド人の母の間に生まれた。父方の祖父・ジョン(John Doyle)はダブリンで生まれロンドンに出て"H.B."の筆名で著名な風刺画家となり、伯父のリチャード・ドイル(Richard Doyle)はイラストレーターで、ドイル家はアイルランド系で芸術の職につくものが多かった。


モンティ・パイソン
Monty Pythonは、イギリスの代表的なコメディ集団。1969年から始まったBBCテレビ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』で人気を博した。アメリカのコメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』等あらゆるジャンルのポップ・カルチャーに大きな影響を与え、「コメディ界におけるビートルズ」と表現された。

ヘンリー・モーガン
Henry Morgan, 1635年 - 1688年8月25日は、17世紀にカリブ海で活躍したイギリス出身の海賊である。彼は、海賊を引退した後、ジャマイカ島代理総督などの、国家の役職につき、海賊を取り締まる立場になった。ウェールズのモンマスシャー州のルランムニー生まれ。モーガンの家は代々裕福な卿士(ヨーマン)の家系。1650年に西インド諸島のバルバドス島に渡るが、そこで5年間の農園での年季奉公を強いられる。しかし、モーガンは生まれつき体が大きく、厳しい労働に耐えることができたので、20歳前にもかかわらず、奴隷や奉公人を監督する立場になった。農園主もモーガンのことを気に入り、モーガンに自由に読書をすることを許した。1655年にモーガンは、バルバドス島からジャマイカ島に渡り、海賊船員を募集していた海賊船に入るが、その後は謎に包まれている。どうやら、仲間を集めて海賊稼業で金を貯めていたらしい。そのころのモーガンは仲間に慕われ、船長にまでなったようである。

ジョン・ハニング・スピーク
John Hanning Speke, 1827年5月4日 - 1864年9月15日)は、イギリスの探検家。ヴィクトリア湖とリポン滝の命名とハム仮説の提唱で知られている。1856年バートンとスピークはヨーロッパ人には確認されていなかったナイル川源流の「発見」を信じて東アフリカからアフリカ大湖沼地域へ探検した。スピークは耳に入った虫をナイフで掻き出してその耳が一時的に難聴になった。またある時は一時的に目が見えなくなった。2人はヨーロッパ人で初めてタンガニーカ湖に達し、ウケレウェ湖と呼ばれる別の湖についても聞いたが、バートンの病のためにスピークが一人で冒険し、ヴィクトリア湖と命名した。観測機器が故障したため詳細な地理的データは採取できなかった。

リチャード・フランシス・バートン
Sir Richard Francis Burton, 1821年3月19日 - 1890年10月20日)は、イギリスの探検家、人類学者、作家、言語学者、翻訳家、軍人、外交官。当時は超有名人であり、死後は『アラビアン・ナイト』(千夜一夜物語)の翻訳で知られている。19世紀の大英帝国を代表する冒険家である。1821年、デヴォン州トーキーで生まれる。3歳から父が気管支喘息だったために和らげる乾燥地を求めて、フランス、イタリアの各地を一家で移りながら育つ。1840年にオックスフォード大学に入学するが、飲酒や決闘といった問題行動を繰り返し2年で退学になる。父親の勧めでインド駐屯軍の将校になり6月に出発、10月にボンベイに到着した。各地に赴任し、そこで植民地支配に対するインド人の不満をみてイギリス当局に警告したが相手にされなかった。1857年、東アフリカのナイル川の源流を探す旅を友人の探検家ジョン・ハニング・スピークとともに加わり苦難の末、1858年にタンガニーカ湖を「発見」した。

ジェームズ・クラーク・マクスウェル
(James Clerk Maxwell、1831年6月13日 - 1879年11月5日)はイギリス(スコットランド)の理論物理学者である。姓はマックスウェルと表記されることもある。マイケル・ファラデーによる電磁場理論をもとに、1864年にマクスウェルの方程式を導いて古典電磁気学を確立した。さらに電磁波の存在を理論的に予想しその伝播速度が光の速度と同じであること、および横波であることを示した。1841年11月に10歳でエディンバラ中等学校に入学し、当初は訛りをからかわれたもののやがて早熟な才能を示した。14歳の時には書いた詩が『エディンバラ通信』に掲載され、その半年後には複数の焦点を用いた卵形線の定義とこれに基づいたピンと糸による描法を考え出している。

チャールズ・レニー・マッキントッシュ
(Charles Rennie Mackintosh, 1868年6月7日 - 1928年12月10日)は、スコットランドの建築家、デザイナー、画家。アーツ・アンド・クラフツ運動の推進者であり、スコットランドにおけるアール・ヌーヴォーの提唱者の一人でもある。幼少の頃より足と目に障害を持っていたが、スコットランドの風土に触れる機会には恵まれ、多くのスケッチを描いた。[要出典]16歳の時(1889年)に、グラスゴーの建築家ジョン・ハッチソンの下に弟子入りし、同時にグラスゴー美術学校の夜間部にデザインとアートの勉強をのため入学。在学中には多くの学校賞を受賞。

ベイリー・スコット
(Mackay Hugh Baillie Scott、1865年10月23日 - 1945年2月10日)は、イギリスの建築家。インテリアデザイナー。都市計画家。スタンレー・アシュビーらとアーツ・アンド・クラフツ運動に、またレイモンド・アンウィンらのガーデンシティ建設に参加した。作品で実現されたもののいくつかは、ヘルマン・ムテジウスの手で作品集が出版されている。

ウィリアム・モリス
(William Morris, 1834年3月24日 - 1896年10月3日)は、19世紀イギリスの詩人、デザイナー、マルクス主義者。多方面で精力的に活動し、それぞれの分野で大きな業績を挙げた。「モダンデザインの父」と呼ばれる。ファンタジーの創始者ともされており、トルーキンに大きな影響を与えた。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
Joseph Mallord William Turner、1775年4月23日 - 1851年12月19日は18世紀末〜19世紀のイギリスのロマン主義の画家である。イギリスを代表する国民的画家であるとともに、西洋絵画史における最初の本格的な風景画家の1人である。1775年、ロンドンのコヴェント・ガーデンに理髪師の子として生まれる。母親は精神疾患をもち、息子の世話を十分にすることができなかった。ターナーは学校教育もほとんど受けず、特異な環境で少年時代を過ごしたようである。13歳の時、風景画家トーマス・マートンに弟子入りし絵画の基礎を学んだ。

ウィリアム・ウェッブ・エリス
(William Webb Ellis, 1806年11月24日 − 1872年1月24日)は、ラグビーの発明者として扱われている人物である。「1823年、イングランドの有名なパブリックスクールのラグビー校でフットボールの試合中、ウィリアム・ウェッブ・エリスがボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出した」という証言が残っておりこれがラグビーの起源とされている。

デーヴィッド・キャメロン
(David William Donald Cameron、1966年10月9日 ‐ )は、イギリスの政治家。イギリス首相(第75代)、保守党党首(第26代)、庶民院議員(3期)。1966年、ロンドンに生まれる。イートン校を経てオックスフォード大学で、哲学、政治学、経済学を学び、一級優等学位(first class honours)を得て卒業。

ショーン・コネリー
(Sir Thomas Sean Connery, 1930年8月25日 - )は、スコットランド出身の映画俳優。『007』シリーズの初代ジェームズ・ボンド役で一躍有名となり、その他のアメリカ映画にも多数出演している。スコットランド・エディンバラでアイルランド系の家庭に生まれる。先祖の地はアイルランド東部ウェックスフォード州。最初に得た仕事は牛乳配達であった。その後イギリス海軍に従軍するも、健康上の理由で除隊し、トラック運転手、労働者、美術モデルやライフガードなど種々の仕事を経験。

クレメント・アトリー
(Clement Richard Attlee, 1883年1月3日 - 1967年10月8日)は、イギリスの政治家。首相(在任:1945年 - 1951年)。 労働党党首(1935年 - 1955年)。ラムゼイ・マクドナルド以来2人目の労働党出身の首相で、同党出身の首相として初めて4年の任期をまっとうできただけでなく、任期中に議会で過半数の議席を得ることができた首相でもある。労働党の公約であった基幹産業の国有化と「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障制度の確立を行い、社会主義政策を矢継ぎ早に実現していった。しかし、戦後復興のためにアメリカ合衆国が示したマーシャル・プランを受け入れるなど、国際経済における主導権は失われた。

マーガレット・サッチャー
(英語: Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC、旧姓:ロバーツ(Roberts)、1925年10月13日 - )は、イギリスの政治家。イギリス史上初の、女性保守党党首、英国首相(在任:1979年 - 1990年)。1992年からは貴族院議員。保守的かつ強硬なその性格から 鉄の女(the Iron Lady)あるいはアッティラ(Attila the Hun)の異名を取った。1925年、リンカンシャー州グランサムの食糧雑貨商の家に生まれる。父・アルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。サッチャーの生家は代々メソジストの敬虔な信徒であり、生家の家訓であった「質素倹約」「自己責任・自助努力」の精神はサッチャーにも色濃く受け継がれた。

アイザック・ニュートン
Sir Isaac Newton, ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日、グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日)はイングランドの自然哲学者、数学者。神学者。生まれた時父親はすでに他界していた。未熟児として生まれたといい産婆はこの子は長生きすまい、と言ったという。実母はアイザックが3歳の時に近隣の牧師のバーナバス・スミスと再婚してアイザックの元を離れ、アイザックは祖母に養育されることになった。1661年に叔父であるウィリアム・アスキューが学んでいたケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。入学当初は「サブサイザー」として仮に、1ヶ月後に「サイザー sizar」として正式に受け入れられた。これは講師の小間使いとして食事を運んだり使い走りをするかわりに授業料や食費を免除される、というものであった。大学での講義のカリキュラム編成は、スコラ哲学に基づいて行われており、つまり主としてアリストテレスの学説に基づいていたが、ニュートンは当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好み、デカルトやガリレオ、コペルニクス、ケプラーといった自然哲学者の著書を好んで学んだ。

ジョン・ラスキン
(John Ruskin, 1819年2月8日 - 1900年1月20日)は、19世紀イギリスの評論家・美術評論家である。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、『近代画家論』を著した。また、中世のゴシック美術を賛美する『建築の七燈』『ヴェニスの石』などを執筆した。富裕な葡萄酒商人の子としてロンドンに生まれ育った。オックスフォード大学のクライストチャーチ校で教育を受け、詩作も行って詩の賞を受賞している。

ルイス・キャロル
本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン。(Lewis Carroll、1832年1月27日 - 1898年1月14日)は イングランド北西部チェシャー州ダーズベリ出身のイギリスの数学者、論理学者、写真家、作家、詩人である。作家としてのルイス・キャロルは、『不思議の国のアリス』の作者として非常に良く知られている。1854年にクライスト・チャーチを最優秀の成績で卒業した後、チャールズは同校の数学講師となった。以降26年間にわたり彼はその仕事を続けた。

エリック・ホブズボーム
Eric John Ernest Hobsbawm, 1917年6月9日 - は、イギリスの歴史家。元イギリス共産党員。ポーランド系ユダヤ人を父に、エジプト・アレキサンドリアに生まれる。オーストリアおよびドイツで幼年期を過ごし、1933年に渡英。ケンブリッジ大学より博士号取得後、ロンドン大学バークベック・カレッジで教鞭をとる。『革命の時代』(邦訳は『市民革命と産業革命』)、『資本の時代』、『帝国の時代』という「長い19世紀」(1789年〜1914年)の三部作のあと、1914年から1991年までを「短い20世紀」として、『両極端の時代:短い20世紀』Age of Extremes: The Short Twentieth Centuryを著わした。

アレステア・レナルズ
(Alastair Preston Reynolds、1966年3月13日 - )はウェールズのSF作家。特にハードSFとスペースオペラを得意とする。。幼少期はコーンウォールで過ごし、大学入学前にウェールズに戻った。ニューカッスル大学で物理学と天文学を学んだ。レナルズは1990年、最初のSF短篇を発表した。それ以降、2007年までに12本以上の短篇と6本の長篇を発表している。作風はハードSF的考証に裏打ちされたスペースオペラであり、物理学や天文学の知識を駆使している。

ウィリアム・ウォレス
(William Wallace, 1843年5月11日 - 1897年2月18日)は、イギリス・スコットランドの哲学者。イギリスにおけるヘーゲル主義者(観念論)として知られ、イギリス哲学の伝統といえる経験論に対向していった。ウォレスはスコットランドのファイフシャーで、大工の長男として生まれた。16歳から22歳までセント・アンドルーズ大学で学び、その後オックスフォード大学ベィヤルカレッジにで、MAを取得。マートンカレッジの大学講師と司書になる。トーマス・ヒル・グリーンの後を受けて、道徳哲学教授となった。講義熱心で知られ、学生からも尊敬されていた。1898年に、不注意から自転車事故で死去。

リーアム・ニーソン
(Liam Neeson, 本名: ウィリアム・ジョン・ニーソン、William John Neeson OBE, 1952年6月7日 - )は、北アイルランド出身の俳優。身長は190cmを超えるほど大柄でありながら、優しいまなざしが特徴。北アイルランド・アントリム州出身。父親のバーナード・ニーソンはカトリック系の小学校の管理人、母親のキャサリン(旧姓ブラウン)は調理師。ニューカッスル大学で学んでいたが、演劇に興味を持ち中退。ビール工場や助建築家、アマチュアのボクサーを経て、2年間ベルファストの劇団で演技を学ぶ。

シェイマス・ヒーニー
(Seamus Heaney, 1939年4月13日 - )は北アイルランド出身の詩人・作家。ヒーニーは北アイルランドの農家に、9人兄弟の長男として生まれた。奨学金を得てカトリック系のSt. Columb's Collegeで学び、クイーンズ大学でも学んだ。その後、教師になる訓練を受けて教職に付く。1966年に初めての詩集「ナチュラリストの死」を出版した。

ランディ・ターピン
Randy Turpin、本名:ランドルフ・アドルファス・ターピン、1928年6月7日 - 1966年5月17日)は、1940年代から1950年代のイングランドのプロボクサー。元世界ミドル級チャンピオン。天才シュガー・レイ・ロビンソンを破り、世界ミドル級王座を獲得しながら晩年は没落、自らの命を断った悲劇のボクサー。

レノックス・ルイス
(Lennox Claudius Lewis、男性、1965年9月2日 - )は、イギリスの元プロボクサー。カナダで育ちカナダ代表としてオリンピックに出場したがプロ転向後、イギリスに帰化。196cmの大きな身体と強力な右が武器。スピード・パワー・テクニックを持ち合わせ、実力はあるが試合ごとのムラが大きい。だが、1990年代を通して最強のヘビー級ボクサーの一人との呼び声が高い。

ジョー・カルザゲ
(Joe Calzaghe、男性、1972年3月23日 - )は、イギリス(ウェールズ)のプロボクサー。元WBA・WBC・IBF・WBO世界スーパーミドル級王者。最大の武器は速射砲のような猛スピードの回転連打であり、手打ち気味でパワーには欠けるものの、その驚異的な手数で対戦相手を圧倒する。10年間以上にわたりスーパーミドル級の世界王者に君臨。2009年2月、プロ46戦全勝32KOのパーフェクトレコードを残し現役を引退した。

ジョン・レノン
(John Winston Ono Lennon, MBE、1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、イギリスのミュージシャン。第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリバプールで誕生。出生時、父親のアルフレッドは商船の乗組員として航海中で不在、母親のジュリアも他の男性と同棲していたため、母親の姉・メアリー(ミミ伯母)夫婦のもとで育てられた。

リンゴ・スター
(Ringo Starr、MBE、1940年7月7日 - )は、イギリスのミュージシャン。本名はリチャード・スターキー(Richard Starkey)。3歳の時に両親は離婚し母子家庭という環境で育ち「父との思い出と呼ばれるものは何もない」とリンゴは言う。 13歳のとき、母エルシーがハリー・グレイブスと再婚。他のメンバー同様に不良少年だったといわれているが、病弱であったために長い期間に渡って入院生活を送っていたという。

ポール・マッカートニー
(Sir James Paul McCartney Jr., MBE、1942年6月18日 - )は、イギリスのミュージシャン。シンガーソングライターであり、世界屈指のマルチプレイヤーでもある。ソロアルバム『マッカートニー』や『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』に至ってはすべての楽器を一人で演奏(マルチレコーディング)出来る世界屈指の「バンド編成におけるパート(楽器)をほぼ全て巧みに扱えるマルチプレーヤー」として絶大な音楽能力を誇る。 「ビートルズのベース」というよりも「ジャズもクラシックも堪能でかつバンドにおいて全てのパート(楽器)担当になれて作詞作曲も熟す超越した音楽家」と認識している人の方が多い(本国イギリス論)。

ジョージ・ハリスン
(George Harrison, MBE[1]、1943年2月25日[2] - 2001年11月29日) は、イギリスのミュージシャン。ビートルズのメンバー。父・ハロルドはウェールズ系で、バス運転手だった。母は敬虔なカトリック教徒だった。ロックンロールに熱中していたジョージが、スキッフルバンドを結成しようと考えて、初めて手にした楽器はギターではなく洗濯板だった。2001年、ジョージは自身の代表作である『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤を発表。そのプロモーション活動の中で、「新作についても完成が近い」ことを明かした。この間に、かつてのビートルズのメンバーのピート・ベストと再会している。ジョージ曰く「僕はビートルズ時代にピートになにもしてあげられなかった。せめて、再び彼と会ってピートに当時のことを謝りたかったんだ」と長年の間ずっと、ピートのことを気懸かりに思っていたという。

アンソニー・シェーファー
Anthony Joshua Shaffer, 1926年5月15日 - 2001年11月6日は、イギリスの劇作家、作家、推理作家である。推理劇『探偵スルース』が特に有名で、『ナイル殺人事件』など数々の映画脚本を執筆した。『アマデウス』等の作品で知られるピーター・シェーファーは双子の弟にあたる。

デイヴィッド・ホックニー
(David Hockney、1937年7月9日 - )は、20世紀〜21世紀のイギリスの画家で、現在はアメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルスを拠点として活動する芸術家。1960年代よりポップ・アート運動にも参加し大きな影響を与え、イギリスの20世紀の現代芸術を代表する1人である。

ヘンリー・ムーア
(Henry Spencer Moore、1898年7月30日〜1986年8月31日)は20世紀のイギリスを代表する高名な芸術家・彫刻家であった。 炭鉱夫の息子としてヨークシャーのキャッスルフォードで生まれ、大理石やブロンズを使った大きな抽象彫刻で知られる。イギリスの美術界から大いに援助を受けてきた彼は、イギリスにモダニズム美術を紹介するのに大きな役割を果たし、イギリス美術を国際的なものにすることに大きく貢献した。

コリーヌ・ベイリー・レイ
(Corinne Bailey Rae、1979年2月26日 - )は、イギリスのシンガーソングライター。1979年、カリブ海の小国セントクリストファー・ネイビス出身の父と、イギリス人の母との間に三人姉妹の長女として、イギリスのリーズに生まれる。10代の時にガールズバンド「Helen」を結成し活動していたが、レコード会社と契約する時になってメンバーの妊娠が原因で解散、やむなくソロで地道に活動していた。

ポール・ハンター
(Paul Alan Hunter、1978年10月14日 - 2006年10月9日)は、イギリスのプロビリヤード選手。イングランド・リーズ出身。スヌーカーのプロとして活躍し、そのルックスから「スヌーカー界のデビッド・ベッカム」として人気を博した。幼い頃からスヌーカーの世界で有名なアマチュア選手で、1995年に16歳でプロに転向。プロ転向後わずか4ヶ月で初出場したUKチャンピオンシップで、当時世界ランキング第6位だったアラン・マクマナスを1回戦で下したことで話題を呼び、さらに同年のリーガル・ウェルシュ・オープンでは17歳3ヶ月の若さでベスト4に進出。

マルコム・マクダウェル
(Malcolm McDowell, 本名: Malcolm John Taylor, 1943年6月13日 - )は、イギリスの俳優。1967年にケン・ローチの『夜空に星のあるように』で映画デビュー。1971年、スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』に主役のアレックスとして出演、強烈な印象を残した。

トム・ウィルキンソン
(Tom Wilkinson, OBE, 1948年12月12日 - )は、イギリスの俳優。1997年公開の『フル・モンティ』で英国アカデミー賞 主演男優賞を受賞。2001年公開の『イン・ザ・ベッドルーム』と2007年公開の『フィクサー』でアカデミー賞にノミネートされた。

ジョー・コッカー
(OBE, John Robert 'Joe' Cocker 1944年5月20日-)はイギリス・イングランドサウス・ヨークシャー州シェフィールド出身の歌手。公務員の息子として育ち、学校を辞めガスの配管工として働きながら15歳頃からパブで音楽活動を始める。当初はヴァンス・アーノルドという芸名で活動していた。ビートルズの「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」のカバーが全英チャート1位の大ヒット、そしてイングランドのみならずFM放送局を通じてアメリカ、オランダ、ヴェネズエラなどの国で脚光を浴びる。

エミリー・ワトソン
(Emily Anita Watson, 1967年1月14日 - )は、イギリスの女優。ロンドンにて生まれる。父親は建築家、母親は教師[1]。ブリストル大学で英文学を学び、卒業後は事務員やウェイトレスなどで働きながら、Drama Studio Londonで演劇を学んだ。

マイケル・ウィンターボトム
(Michael Winterbottom, 1961年3月29日 - )は、イギリス出身の映画監督・脚本家である。オックスフォード大学で英文学を学んだ後、ブリストル大学で映画制作を学ぶ。トマス・ハーディ原作の 『日蔭のふたり』、ボスニア紛争を描いた 『ウェルカム・トゥ・サラエボ』、小粒なドラマ 『ひかりのまち』、音楽映画 『24アワー・パーティ・ピープル』、SF映画 『CODE46』 とジャンルの全く違う作品を次々に手がけ、高い評価を得ている。

デイビッド・アッテンボロー
(Sir David Attenborough OM, CH, CVO, CBE, FRS、1926年5月8日 - )は、イギリスの動物学者、植物学者、プロデューサー、作家、ナレーター。デイヴィッド・アッテンバラの表記もある。ロンドン出身。父が学長を務めていたレスター大学のカレッジハウスで、3人兄弟(兄:リチャード(映画監督)、弟:ジョン(アルファ・ロメオ幹部))の2番目として育つ。第二次世界大戦中、両親はユダヤ難民の少女をヨーロッパから養子として受け入れる。

ジョン・ロード
(Jon Lord 、1941年6月9日 - 2012年7月16日)はイギリス出身のハモンドオルガニスト、ピアニスト、作曲家。本名ジョン・ダグラス・ロード。レスターで生まれる。父親はサクソフォーン奏者で、音楽的な環境に恵まれていた彼は9歳の頃からピアノのレッスンを受け始める。最初はクラシック・ピアニストを目指していたが、演劇にも興味を持っていた彼は演劇学校にも通っていた。

ウィリアム・ピット
(William Pitt、1759年5月28日 - 1806年1月23日)は、イギリスの政治家、首相(在任:1783年 - 1801年、1804年 - 1806年)。1760年代に首相を務めたチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)とヘスター・グレンヴィルの次男。幼いころから病弱であったが、ラテン語やギリシア語に通じるなど才能に恵まれていたため、1773年、14歳でケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに入学した。それ以後、この最年少入学記録を破った者はいない(2010年に同じ14歳でケンブリッジ大学に入学するものが現れるまでの237年間、ピットの記録に並ぶものすらいなかった)。

フィル・テイラー
(Philip Douglas "Phil" Taylor, 1960年8月13日 - )は、2011年現在、史上最強と言われるダーツ・プレイヤーである。 イングランド西部ストーク・オン・トレント出身、右投げ、ニックネームは、”THE POWER”、入場曲はSnap!のThe Powerである。 プロフェッショナル・ダーツ・コーポレイション (PDC) の設立メンバーであり、当時よりPDCの第一人者として活躍している。

アーノルド・ベネット
(Enoch Arnold Bennett、1867年5月27日 − 1931年5月27日) は英国の小説家、劇作家、評論家である。『二人の女の物語』やクレイハンガー三部作をはじめとする「5つの町」シリーズやフランス的な自然主義的作風で知られている。これらの作品によって20世紀初頭の英国で名声を博したが、後年その作風や創作態度は議論を呼ぶことになる。

アラン・シリトー
(Alan Sillitoe、1928年3月4日 - 2010年4月25日)は、イギリスのノッティンガム出身の作家。シリトーの文壇への登場は、『怒りをこめてふりかえれ』のジョン・オズボーン、『ラッキー・ジム』のキングスレー・エイミス、『急いで駆け降りよ』のジョン・ウェインなど、「怒れる若者たち」(Angry Young Men)と呼ばれる一派と時を同じくしていたため、そのメンバーの一人と見なされることが多い。

ミック・ロンソン
(Mick Ronson、1946年5月26日 - 1993年4月29日)は、イギリスのロック・ギタリスト、音楽プロデューサー。デヴィッド・ボウイ、イアン・ハンター等との活動で有名。1967年頃、地元ハルで活動していたザ・ラッツに加入。ロンソンの粗削りだが鋭角的で非凡な演奏が話題になり、バンド演奏もロンソンのギターをフィーチャーする形でR&B調からヘビーメタルなものへと変化し、地元で人気を博す。やがて1969年にはラッツを辞め、ハル私営公園課の庭師になり、ミュージシャン時代に抱えた多額の借金の返済をしながら生活する日々を送る。

メアリ・リード
(Mary Read、1685年頃? - 1721年4月)は、18世紀にカリブ海で活動した海賊。ジョン・ラカムの手下の1人。同じくラカムの手下であったアン・ボニーとともに、伝説的な女海賊として知られる。13歳のときフランス人女性へ下男奉公に出されたメアリはそこを逃亡、男装したまま海軍に入るがまたも脱走し、陸軍歩兵となるが、知り合った兵士と結婚、除隊する。夫婦はオランダのブレダ城近郊で暮らしていたが、ほどなく夫が亡くなった。メアリ・リードはカットラスの遣い手であったと伝えられている。

グランビル・シャープ
(Granville Sharp, 1753年11月10日 - 1813年7月6日)は、学者及び博愛主義の奴隷制度廃止運動の指導者である。1735年11月10日に副司教のジョン・シャープ(ヨーク大司教トーマス・シャープの息子)の息子として、イギリスのダラムで生まれた。シャープは14人兄弟の1人である。中等学校で教育を受けていたが1753年に15歳でロンドン服地商の徒弟になった。

イギリス United Kingdom
イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドから構成される立憲君主制国家であり、英連邦王国の一国である。ヨーロッパ北西部の島国であるが、北アイルランドでアイルランドと国境を接している。

大航海時代を経て、世界屈指の海洋国家として成長。西欧列強のひとつとして世界に植民地を拡大し、超大国として栄えた時代を大英帝国と呼んだ。19世紀には世界の過半を影響下におき、パックスブリタニカ(イギリスによる平和)と呼ばれる比較的平和な時代をもたらしたが、第二次世界大戦を機に植民地の大部分を失い衰退し、現在に至る。

ロンドン
Londonは、イギリスおよびイングランドの首都である。「シティ・オブ・ロンドン」あるいは単に「シティ」と呼ばれる地域を発祥に発展したロンドンは、ヨーロッパにおいても有数の歴史ある都市であり、中世および近世に建設された建造物が数多く残されている。

ロンドンの起源はローマ帝国によるブリタニア支配にまで遡る。ローマ人は後のイングランドにあたるブリテン島南東部を征服し、43年にはテムズ川北岸、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)にあたる場所にロンディニウムを建設してこれをブリタニアの首都とした。街を建設したのはローマ人だが、それ以前にこの地域周辺にはケルト人が居住しており、ローマによる初期の植民の跡が残されている。

ロンドンは、北海に注ぐ三角江の河口から約64km内陸のテムズ川の下流南北両岸にまたがる。地質的には北西をチルターン、南をノース・ダウンズという二つのチョーク層丘陵に囲まれた向斜構造のロンドン盆地底部にあり、地表はロンドン粘土層と呼ばれる重粘土質土壌で覆われる。

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リッツ・ロンドン
The Ritz Londonは、イギリス・ロンドンのピカデリー通りに建つホテルである。ロンドンを代表する高級ホテルのひとつであり、イギリス王室によるロイヤル・ワラントのひとつであることでも知られる。シャルル・ミューズとアーサー・デイヴィスの建築により、ロンドン市内中心部のピカデリー通り沿い、グリーン・パーク脇に建てられ、1906年5月24日に開業した。


パクス・ブリタニカ
Pax Britannica (パークス・ブリタンニカ))とは、イギリス帝国の最盛期である19世紀半ばごろから20世紀初頭までの期間を表した言葉。特に「世界の工場」と呼ばれた1850年頃から1870年頃までを指すことも多い。イギリスはこの時期、産業革命による卓抜した経済力と軍事力を背景に、自由貿易や植民地化を情勢に応じて使い分け覇権国家として栄えた。

クール・ブリタニア
(Cool Britannia)は、イギリス文化の盛んな様、格好よい様を描写する際にメディアが使った用語である。1990年代半ばに造られ、1990年代末に一世を風靡した言葉であり、トニー・ブレア首相の労働党政権(第三の道を取り、「ニュー・レイバー」を標榜する)やその政策と密接な関係を持っていた。


外務省:英国
在英国日本国大使館


バーミンガム国際空港
Birmingham International Airportは、イギリス、イングランド、ウェスト・ミッドランズ州バーミンガムにある空港。

エディンバラ空港
Edinburgh Airportは、スコットランドのエディンバラにある空港である。イギリス国内では8番目、スコットランドではグラスゴー国際空港に次ぐ2番目に大きい空港である。

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リバプール・ジョン・レノン空港
(Liverpool John Lennon Airport) は、イギリスのリバプールにある空港である。空港内にはジョン・レノンの銅像が建つ。また空港のロゴには、彼の曲である「イマジン」の歌詞の一節“above us only sky”が使われており、この歌詞は空港の屋根にも書かれている。

グラスゴー国際空港
Glasgow International Airport, 以前の名称をGlasgow Abbotsinch Airport)は、スコットランド南西部、レンフルーシャイア、レンフルーとペイズリーの間にある国際空港である。

マン島空港
Isle of Man Airportは、グレートブリテン島とアイリッシュ海に囲まれたマン島にある空港。

ベルファスト国際空港
Belfast International Airportは、イギリスの北アイルランド、ベルファストにある国際空港。


グラスゴー
Glasgow, はイギリスのスコットランド南西部に位置するスコットランド最大の都市である。人口は580,690人(2006年)で、ロンドン、バーミンガム、リーズに次いでイギリス第4位。イギリス国内ではロンドンとエディンバラについで3番目に観光客が多く、年間300万人ほどがこの街を訪れる。15世紀創立の名門グラスゴー大学を擁し、産業都市であるとともに、文化・芸術・若者の街として知られている。

バーミンガム
Birmingham、はイングランド、ウェスト・ミッドランズ(West Midlands)に属す工業都市である。人口は100万人ほどで、近郊を含む都市的地域の人口は229万人であり、同国第2位である。18世紀まで特徴のない小さな村バーミンガムは、産業革命の進展にともない運河と鉄道の交叉点になったこともあり、工業都市として発展した。

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カーディフ
Cardiffは、ウェールズの首都。人口は305,340人(2001年)で、ウェールズで最大の都市である。ウェールズの南東部に位置し、ロンドンからは約250kmの距離にある。ウェールズ議会が設置されている。カーディフはBBCのテレビ・ドラマ「秘密情報部トーチウッド」の舞台になっており、市内の各所がドラマの中に登場し、それぞれが観光名所となっている。訪れるファンが多い。

ベルファスト
Belfast, は、北アイルランドの首府。人口は276,459人(2001年)で、北アイルランドで最大の都市である。ここには世界最大のドライ・ドックがあり、ハーランド・アンド・ウルフの造船所にある巨大なクレーンを遠くから眺めることができる。ちなみにオリンピック号、タイタニック号、ブリタニック号の姉妹船はハーランド・アンド・ウルフによりここで造られた。

リヴァプール
(Liverpool) は、イギリス、イングランド北西部マージーサイド州の中心都市。ザ・ビートルズ誕生の地として名高い。アイリッシュ海に面し、マージー川の河口に位置する。18世紀より貿易港として発展した。リヴァプールにはリヴァプール大学、リヴァプール・ホープ大学、リヴァプール・ジョン・ムーア大学、エッジヒル大学などの教育機関があり、多くの学生が学んでいる。


ケンブリッジ大学
(University of Cambridge)は、イギリスのケンブリッジに所在する総合大学である。13世紀初頭に、町の人々と対立してオックスフォードから逃れてきた学者たちが、この町に住み着き、研究・教育活動を始めたのを起源とする大学である(大学としての公式な創立年度は1209年)。彼らの活動はやがて、イングランド国王の保護なども受けて発展をはじめ、現存する最古のカレッジ、Peterhouse(ピーターハウス)は1284年の創立。

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オックスフォード大学
(University of Oxford)は、イギリスのオックスフォードに所在する総合大学である。英語圏では最古の大学であり、ケンブリッジ大学と並び各種の世界大学ランキングで常にトップレベルの優秀な大学として評価される世界有数の名門大学である。オックスフォード大学の創立時期はよく解明されていない。全てが一気に構成されたのではなく、徐々に形成されたものと考えられている。少なくとも1096年には講義が行われていたという証拠がある。

マンチェスター大学
(University of Manchester) は、イギリス、マンチェスターにある国立大学。イングランドで最初の都市大学の一つ。20世紀の発明に数多く貢献し、現在までに25人もの卒業生、研究者、教授らがノーベル賞を受賞している。世界初のコンピュータは、1948年にマンチェスター大学で生まれた。マンチェスター・ビクトリア大学は、1851年オーウェンカレッジとしてマンチェスターの繊維商ジョン・オーウェンの資金により設立された。

ダラム大学
(Durham University)は、イギリス、ダラム州、ダラム市及びストックトン・オン・ティーズ市に所在する大学である。ダラム大学はイングランドで3番目に古い大学であり、オックスフォード大学やケンブリッジ大学(両校をあわせてオックスブリッジと呼ぶ)と同じカレッジ制大学であることから、これら3大学をまとめてドオックスブリッジ と呼ぶ事もある。

セント・アンドルーズ大学
(University of St Andrews)はイギリス・スコットランドの東海岸セント・アンドルーズ市に所在する大学。1413年創立。スコットランド最初の大学であり、英語圏全体でも3番目に設立年代が古い。その長い歴史からアンシャン・ユニヴァシティーの一校に数えられる。

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カーディフ大学
Cardiff Universityは、カーディフ,ウェールズに本部を置くイギリスの国立大学である。1883年に設置された。 ウェールズ語名Prifysgol Caerdydd。イギリスの大学グループ、ラッセル・グループに所属。

シェフィールド大学
(The University of Sheffield)は英国の中部地方に位置するサウス・ヨークシャー州シェフィールド市を拠点とする国立大学である。 大学の前身であるシェフィールド医学校(Sheffield School of Medicine 1828年設置)より今日まで180年余の歴史を有する。

クイーンズ大学ベルファスト
(The Queen's University Belfast、QUB)は北アイルランドのベルファストにある大学である。プロテスタント系のトリニティ・カレッジに対してカトリック系のアイルランド大学の一部であった。歯学、工学、人文学、法学、医学などの学部がある。

リーズ音楽大学
(Leeds College of Music)は、イギリスのウェスト・ヨークシャーリーズに位置するイギリス最大の音楽大学である。 約1000人の学位・資格の取得を目指す学生と約2000人の成人向け夜間コースで学ぶ学生が在籍している。またリーズは音楽活動の盛んな街で、年間を通してたくさんのコンサートやイベントが催されている。またリーズは、本学のピアノ演奏家専攻科の指導者であるファニー・ウォーターマンによって創設されたリーズ国際ピアノ・コンクールの開催地として、世界中にその名が知られている。

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リーズ大学
(University of Leeds) は英国ウェスト・ヨークシャー州リーズ市にある国立大学。トールキン(作家・言語学者)が教鞭をとっていたことがある。33,000人を超す学生が在籍しており、英国でも有数の規模を誇る大学である。

グラスゴー大学
University of Glasgowは、イギリス(スコットランド)グラスゴー市に本部を置くイギリスの国立大学である。1451年に設置された。500年以上の歴史を有する英語圏最古の大学の一つであり、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学と並ぶアンシャン・ユニヴァシティーに属する名門大学。

ブリストル大学
University of Bristol)は、ブリストル市に本部を置くイギリスの公立大学である。1909年に設置された。 以来、ラッセル・グループの一員として、またコインブラ・グループの一員として発展してきた。今までに関係者から9人のノーベル賞受賞者[1]を輩出している。

レスター大学
(University of Leicester) は英国イングランド中部、レスター市に位置する国立大学。比較的小さな規模にかかわらず、研究、特に教育水準が高く, 英国では最も優れた大学の一つとして、The Sunday Times(タイムズ紙)に認知されている。

ブラッドフォード大学
University of Bradford)は英国ウェスト・ヨークシャー州ブラッドフォードに位置する1832年創立の歴史ある国立総合大学である。大学のモットーは、ウィリアム・シェイクスピアのソネット38番から引用された "Give Invention Light"。

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ラグビー校
(Rugby School)は、ウォリックシャー、ラグビー の町にあるイングランドで最も古いパブリックスクールの1つで男女共学のボーディングスクールである。ラグビーが生まれた地としても有名である。


イングランド
イングランド (England) は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する四つの「国」(country) の一つである。連合王国の中で最もヨーロッパ大陸に近く、対岸のフランスまで約 33 km である。

スコットランド
スコットランド(Scotland)は北西ヨーロッパに位置するグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する「国」(country)のひとつである。首都のエディンバラは人口でスコットランド第二の都市であり、ヨーロッパ最大の金融センターの一つである。最大の都市であるグラスゴーは大グラスゴーの中心であり、スコットランドの人口の40%が集中する。

ウェールズ
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する「国」(country)のひとつである。ウェールズは、13世紀に公国(Principality)を形成した。が、ウェールズ公国は、同じ世紀の末にイングランドに併合された。

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北アイルランド
Northern Irelandは、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する「国」(country)の一つである。1920年に成立したアイルランド統治法によってアイルランドは南北に分割され、それぞれに自治権が付与された。その後に発生したアイルランド独立戦争の講和条約である英愛条約に基づいて、南部26州によりアイルランド自由国が建国され、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国より分離した際は北アイルランドも自由国の管轄内に含まれていた。しかしアイルランド自由国で内戦が始まったため、英愛条約の条項に基づいて北アイルランド議会は自由国からの離脱を表明して連合王国にとどまることになった。


インヴァネス
Invernessはイギリスのスコットランドの都市である。ハイランズの唯一の市で、「ハイランズの首都」と呼ばれることがある。これに対し、ローランズの首都はエディンバラである。スコットランド北西部のマリー湾最奥に流れ込むネス川の河口に位置している。これはこの町の由来になっている。

リーズ
(Leeds) はイングランドの都市。ウェスト・ヨークシャー地方に位置する。人口は約71万5千人(中心部の人口は約43万人)。ロンドンから鉄道利用で2時間半の場所に位置している。

シェフィールド
(Sheffield) は英国のイングランド中部の工業都市である。人口は520,700人(2005年)で、首都ロンドン、バーミンガム、リーズ、グラスゴーに次いで第5位。都市圏人口は約180万人にのぼる。

ブリストル
Bristolは、イギリス西部の港湾都市。サウス・ウェスト・イングランドの典礼カウンティにあるユニタリーであり、ロンドンの西169キロで、カーディフの東71キロの位置である。

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バース
(Bath)は、イングランド西部、サマセットにある単一自治体(unitary authority)のバース・アンド・ノース・イースト・サマセット(Bath and North East Somerset)内の都市である。バースについての最古の記録はローマ支配時代の温泉に関する記述である。しかし言語学上の類推から、それ以前から温泉が利用されていたことが推測される。


マンチェスター
(Manchester, は、イングランドの北西部、グレーター・マンチェスターに位置する都市。北部イングランドを代表する都市であり、ロンドンに次ぐイギリス第二の都市である。マンチェスターは1960年代以来、ポップス・ロック・テクノなどの分野の著名なミュージシャンやバンドを多く輩出している。英国を代表するロックバンドのニュー・オーダーやザ・スミス、ザ・ストーン・ローゼズ、オアシスが結成された地である。


レスター
(Leicester)は、イングランド・レスターシャー州の単一自治体 (Unitary Authority) 。古代ローマ時代に建てられた、イングランドでも歴史のある都市である。「ブリテン列王記」(アーサー王物語)を著したジェフリー・オブ・モンマスによると、Kaerleir(レスター)は伝説上の王、リア王によって建てられたとなっている。

コヴェントリー
(Coventry)はイギリス・イングランドのウェスト・ミッドランズ州(West Midlands)にある都市。イングランドで8番目に大きな都市。コヴェントリーは自動車産業と大聖堂、ゴダイヴァ夫人(ゴディバ夫人とも表記される)の伝説で有名である。

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ブラッドフォード
(Bradford)は、イングランド北部・ウェスト・ヨークシャー州にある都市。人口は約29万人。アジア系住民(特にパキスタン出身者)が多いが、これは繊維産業に従事するため第二次世界大戦後に移住してきたものである。

ストーク・オン・トレント
(Stoke-on-Trent)は、イングランド・スタッフォードシャーにある単一自治体 (Unitary Authority) 。ストーク・オン・トレントはイギリスの陶器産業の里とみなされ、ポッタリーズ(The Potteries)という通称で呼ばれる。

ノッティンガム
(Nottingham)はイングランドの中心部ノッティンガムシャーにある単一自治体 ( Unitary Authority ) 。町の中心をレーン川が流れ、南の境界線にはトレント川が流れている。人口はおよそ275,100人とイングランドでは27位、郊外には700,000人以上が住んでいると言われている。学生が多く、人口の約10%は学生である。

プリマス
(Plymouth)はイングランド南西部のデヴォン州にある港湾都市。行政は1998年より、単一自治体 ( Unitary Authority ) である。17世紀、ピューリタン(清教徒)を含んだピルグリム・ファーザーズの一団、102名はこの港からメイフラワー号に乗船し、新大陸に向かった。その到着地点となった海岸部が、現在のアメリカ東部マサチューセッツ州の都市プリマスに当たる。

サウサンプトン
Southampton、は、イギリス南部の都市。近年は医療と学術が盛んな都市であるが、沿岸部の再開発により商業の発展にも力を入れており、港湾施設は縮小されたが、イギリス有数のコンテナターミナルが所在する。

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■国名
正式名称は、United Kingdom of Great Britain and Northern Irelandである。United Kingdom、UKとも略される。「イギリス」の語源については、ポルトガル語の Inglez に由来すると言われる。江戸時代には「エゲレス」とも呼ばれていた(前掲ポルトガル語、またはオランダ語 Engelsch が訛ったもの)。当て字である「英吉利」という表記は、もともと先行する中国語に由来する。


1.面積:24.3万平方キロメートル(日本の約3分の2)
2.人口:6,180万人(2010年)
3.首都:ロンドン(人口約758万人、2010年)
4.言語:英語(ウェールズ語、ゲール語等使用地域あり)
5.宗教:英国国教等

1066年 ノルマンディ公ウィリアム、イングランドを征服
1707年 スコットランド王国及びイングランド王国合併、グレートブリテン連合王国成立
1801年 グレートブリテン及びアイルランド連合王国成立
1858年 日英修好通商条約締結
1902年〜1921年 日英同盟
1922年 グレートブリテン及び北アイルランド連合王国へ改称(南アイルランドの分離)
1952年 エリザベス二世女王即位
1973年 拡大EC加盟
1979年5月 サッチャー保守党内閣成立
1990年11月 メイジャー保守党内閣成立
1997年5月 ブレア労働党内閣成立
2007年6月 ブラウン労働党内閣成立
2010年5月 キャメロン保守党・自由民主党連立内閣成立

■主要産業:航空機、電気機器、エレクトロニクス、化学、金属、石油、ガス、金融
■主要貿易品目(1)輸出 原油・石油製品、医薬品、道路走行車両(=自動車)、原動機(2)輸入 道路走行車両(=自動車)、原油・石油製品、通信機器、録音・音声再生装置

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スターリング・ポンド
(pound sterling)は、イギリスの通貨。通貨単位としてのポンドはかつてイギリス連邦諸国で用いられ、エジプトなどでは現在も用いられているが、単にポンドというと通常イギリスのポンドのことを示す。通貨記号は ?、国際通貨コード (ISO 4217) は、GBPであるが、STGとも略記する。呼称としてはポンド、スターリングの他に quid が用いられることがある。


ゆりかごから墓場まで
第二次世界大戦後の英国における社会福祉政策のスローガン。原語では”from the cradle to the grave”。社会保障制度の充実を形容する言葉で、第二次世界大戦後にイギリス労働党の掲げたスローガンであり、これが日本を含めた各国の社会福祉政策の指針となった。

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立憲君主制
Constitutional monarchy)とは、憲法によって規定された君主制である。世界の立憲君主制国家の分布は左図の通り。代表的な立憲君主制国家にはイギリスやタイなどがある。また、制限君主制と混同されやすいが、憲法の有無と君主権の強弱は関係ない。憲法が存在しても、その憲法で君主に絶対的な権力を付与する定めになっていれば絶対君主制である。


イギリスの政治
Politics of the United Kingdomは単一国家と立憲君主制を基本としている。ウエストミンスター・システムとも呼ばれるこの統治形態は、カナダ・インド・オーストラリア・ニュージーランド・シンガポール・ジャマイカなどでも取り入れられている。 憲法は1つの成典にはなっておらず、制定法と判例法及び慣習法など様々な要素を合わせて憲法とみなされている。

保守党
Conservative and Unionist Party"、"Conservative Party"は、イギリスの政党。国際民主同盟加盟。党の俗称として"Tory"。イギリスの二大政党の一つである。前身は「トーリー党」である。これを1830年代から40年代に掛けて「保守党」として近代化したのがロバート・ピールである。

労働党
Labour Partyは、イギリスの中道左派政党。イギリスにおいて保守党と二大政党を形成している。社会主義インターナショナル加盟。1906年の結党以来、社会民主主義政党として労働者の生活の向上を唱え、失業保険の充実、社会保障制度の整備などに努めてきた。労働党が行った福祉政策の方向性を指して、「ゆりかごから墓場まで」という言葉が作られた。

自由民主党
Liberal Democrats (Lib Dems)は、イギリスの政党。リベラリズム、中道左派政党であるとされている。「自民党」と略して呼ばれるのが一般的である。現在の党首はニック・クレッグ副首相。

スコットランド国民党
Scottish National Party (SNP), は、グレートブリテン島北部と周囲の島々で構成されるスコットランドの地域政党。スコットランド民族党とも訳される。政治的には社会主義(社会民主主義)を基調としており、同時にスコットランド人の民族主義を重んじる地方主義政党でもある。

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エディンバラ
エディンバラEdinburghは、スコットランドの首都であり、ロージアン州の州都。古くは6世紀、元々天然の要害である急峻な地形を利用して築かれたケルト人の砦を起源とする。

エディンバラ・フェスティバル
(Edinburgh Festival)は、スコットランドの首都エディンバラで毎年8月の同時期に開催される複数の芸術と文化の祭典の総称である。エディンバラ城の構内では、連夜、軍楽隊によるバグパイプ演奏やハイランドダンスが披露されるミリタリー・タトゥーが上演され、市内の各所で数多くの大道芸人がパフォーマンスを繰り広げる。

スコットランド人
Scottish peopleは、スコットランド国民、またはスコットランドを父祖の土地とする民族のこと。単にスコッツ(Scots)ともいう。現代的な用法では、スコットランド人またはスコッツは、言語、文化、家族の先祖または遺伝的起源がスコットランド内にある者を指すため使われる。


シャーロック・ホームズ
シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) は、小説家アーサー・コナン・ドイルが19世紀から20世紀にかけて発表した推理小説『シャーロック・ホームズシリーズ』の主人公で架空の探偵である。天才的な観察眼と推理力を持つ私立・諮問探偵である。ロンドンのベーカー街221Bにあるハドスン夫人所有のアパートで、相棒のジョン・H・ワトスン医師と共同生活をしていた。

エディンバラ大学
エディンバラ大学(University of Edinburgh)は1582年に設立された英国で6番目に長い歴史を有する大学である(「Ancient University」の1つ)。

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ジョー・カルザゲ
ジョー・カルザゲ(Joe Calzaghe、男性、1972年3月23日 - )は、イギリス(ウェールズ)のプロボクサー。元WBA・WBC・IBF・WBO世界スーパーミドル級王者。最大の武器は速射砲のような猛スピードの回転連打であり、手打ち気味でパワーには欠けるものの、その驚異的な手数で対戦相手を圧倒する。そのスタイルは、WOWOWの『エキサイトマッチ』で解説を務めるジョー小泉いわく「現代ボクシングに適したスタイル」(ホプキンス戦の解説にて)。10年間以上にわたりスーパーミドル級の世界王者に君臨。2009年2月、プロ46戦全勝32KOのパーフェクトレコードを残し現役を引退した。


■文学
アーサー・コナン・ドイル、ジェーン・オースティン、ブロンテ姉妹、チャールズ・ディケンズ、トーマス・ハーディ、ウィリアム・ブレイク、ウィリアム・ワーズワース


■音楽
ウィリアム・バード、ヘンリー・パーセル、エドワード・エルガー、アーサー・サリヴァン、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ、ベンジャミン・ブリテン

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■ポピュラー音楽
(特にロックミュージック)において、イギリスは先鋭文化の発信地として世界的に有名である。1960、70年代になるとロックが誕生し、中でもザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズといったロックンロールの影響色濃いバンドが、その表現の先駆者として活躍した。やがてキング・クリムゾンやピンク・フロイドなどのプログレッシブ・ロックやクイーン、クリーム、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ブラック・サバスなどのR&Bやハードロックがロックの更新に貢献。


ロバート・ルイス・スティーヴンソン
Robert Louis Balfour Stevenson、1850年11月13日 - 1894年12月3日は、イギリスのスコットランド、エディンバラ生まれの小説家、冒険小説作家、詩人、エッセイストである。父トーマス、祖父ロバートは共に灯台建設を専門とする建築技術者だった。母がマーガレット・バルフォア。彼もエディンバラ大学の土木工学科に入学するが、のち法科に転科、弁護士になる。18歳の時、名前の間に入っていたバルフォアを外し、セカンドネームの「Lewis」を「Louis」に変更。以後、名前を略称するときはRLSと名乗る。生まれつき病弱で、各地を転地療養しながら作品を創作した。1883年『宝島』を出版、1885年『プリンス・オットー』を出版、1886年『誘拐されて』を出版、同年にはまた代表作の一つである『ジキル博士とハイド氏』を出版した。

グスターヴ・ホルスト
Gustav Holst/Gustavus Theodore von Holst, 1874年9月21日 - 1934年5月25日は、イギリスを代表する作曲家の一人である。最も知られた作品は、管弦楽のために書かれた『惑星』(The Planets)であるが、全般的に合唱のための曲を多く遺している。

ベンジャミン・ブリテン
Edward Benjamin Britten OM, CH, 1913年11月22日 サフォーク州ローストフト - 1976年12月4日 サフォーク州オールドバラ)は、イギリスの作曲家・指揮者・ピアニスト。ブリテンは猛烈な反戦主義者であり、イギリスが第二次世界大戦にのめりこむ事に悲観し、兵役拒否の意味合いで一時アメリカに移住したこともあった。帰国後、「良心的兵役拒否」として公的に認められている。

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ナイジェル・ケネディ
Nigel Kennedy, 1956年12月28日 - はイギリスのヴァイオリニスト、ヴィオラ奏者。ブライトンで母と祖母がピアノ教師という音楽一家に生まれる。はじめにピアノ、さらにヴァイオリンを習い、7歳の時からメニューインが主宰する音楽学校で学ぶようになる。10歳の時、学校にジャズ・ヴァイオリンの巨匠ステファン・グラッペリが来訪し、当時の担任の推薦で、グラッペリと個別指導、共演する機会を得ている。

ローランド・ジョフィ
Roland Joffe、1945年11月17日 - はイギリスの映画監督。ロンドン出身のフランス系ユダヤ人。マンチェスター大学で英語と演劇を学び、卒業後は演劇に携わる。後にテレビの世界に移り、BBCでドラマなどを手がけるようになった。『ミッション』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。

アダム・スミス
(Adam Smith、1723年6月5日(洗礼日) - 1790年7月17日)は、スコットランド生まれのイギリス(グレートブリテン王国)の経済学者・哲学者である。主著は『国富論』(または『諸国民の富』とも。原題『諸国民の富の性質と原因の研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)。「経済学の父」と呼ばれる。スミスは4歳の時にスリに仕立て上げることを目的とした誘拐に遭うものの、誘拐犯からスリには向かないという烙印を押され、解放されてしまうほど内向的性格を持ち、吃りがあった。

マイケル・アティヤ
(Michael F. Atiyah、1929年4月22日 - は、アティヤ=シンガーの指数定理、ゲージ理論の研究などで知られるイギリスの数学者。現代最高の数学者の一人とみなされている。サイモン・ドナルドソン、ナイジェル・ヒッチン、ピーター・クロンハイマー、フランシス・カーワン、ルース・ローレンスなど優れた弟子を育て、また、エドワード・ウィッテンを見出したことでも知られる。

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ジェイムズ・デュワー
Sir James Dewar, 1842年9月20日 - 1923年3月27日は、イギリスの化学者・物理学者。液体酸素が磁性を持つことの発見、水素の液化と固化の成功など低温物理学の分野で先駆的な研究を行った。また魔法瓶(デュワー瓶)や、コルダイト火薬(無煙火薬の一種)を発明した。地元の学校に通っていたが、1852年にリューマチ熱にかかり、長期間の療養生活を余儀なくされた。15歳になるまでに両親とは死別。兄弟と暮らしていたが、1859年にエディンバラ大学に入学した。大学ではプレイフェア卿のもとで学び、卒業後も彼の助手としてとどまった。

ウィリアム・ランキン
(William John Macquorn Rankine, 1820年7月5日 - 1872年12月24日)は19世紀イギリス(スコットランド)の物理学者、工学者、技術者。エディンバラ生まれ。1855年から終生、グラスゴー大学の欽定教授の任にあった。グラスゴーで没。父親も技術者であった。物理学者としては熱力学の分野で業績を残した。長らく主流であった熱素説を否定し、「エネルギー」の用語と概念を導入した。ほぼ同時期のトムソン(ケルヴィン卿)、クラウジウスと並んで、熱力学の基礎を作った人物だと評価されている。

デイヴィッド・リヴィングストン
(David Livingstone、1813年3月19日 - 1873年5月1日)は、スコットランドの探検家、宣教師、医師。ヨーロッパ人で初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した。また、現地の状況を詳細に報告し、アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した人物でもある。生家は貧しく、10歳の頃から近所の紡績工場で働くことを余儀なくされるが、聖書、ラテン語等の学問への意欲は旺盛であった。彼は日中の工場での仕事中に本を読む工夫をしつつ、仕事が終わってからは夜間学校で熱心に勉強をした。

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ジョスリン・ベル・バーネル
(Susan Jocelyn Bell Burnell、結婚前はSusan Jocelyn Bell、1943年7月15日 - )はイギリスの女性天文学者である。アントニー・ヒューイッシュのもとで、最初のパルサーを発見した。北アイルランドのベルファストで建築家の娘として生まれた。グラスゴー大学、ケンブリッジ大学で学んだ(1969年に博士号を取得)。1967年ケンブリッジ大学の大学院生時代にヒューイッシュらとクエーサーの観測するための電波望遠鏡の観測データのなかに非常に早く規則的に変化する電波信号を見つけた。天文学的には異常に短い電波の宇宙人からの通信ではないかとも思われた電波源には「緑の小人 (Little Green Man)」を意味する LGM-1 の名が与えられが、後に高速で回転する中性子星が電波源であることがわかった。

ナイジェル・マンセル
(Nigel Ernest James Mansell CBE, 1953年8月8日 - )は、イギリスのレーシングドライバー。2008年現在、F1とCARTのチャンピオンを2年続けて獲得した唯一のドライバー。イギリス中部の地方都市の労働者階級の家に生まれ、持ち家を売り借金を重ねながら妻ロザンヌとともに苦労して頂点まで上り詰めた、苦労人タイプのドライバーである。豪快かつ大胆なドライビングスタイルと、喜怒哀楽に富む人柄が人気を博し、「大英帝国の愛すべき息子」(Great Britain's lovely son)と呼ばれた。

キャサリン・ジェンキンス
(Katherine Jenkins, 1980年6月29日 - )は、英国ウェールズ南部のウェストグラモーガン州(West Glamorgan)ニース(Neath)出身のメゾソプラノ歌手。モデルや、パブリック・スクール音楽教師の経歴を持ち、2004年に23歳で発表したデビュー・アルバム Premiere (日本版『プルミエール』)がクラシック・チャートで初登場第1位、8週連続1位。デビュー年にクラシックミュージシャンとしてイギリスでマリア・カラス以来、最大・最速の売り上げを記録。

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エンゾ・マカリネリ
(Enzo Maccarinelli、男性、1980年8月20日 - )は、イギリス、ウェールズのプロボクサー。元WBO世界クルーザー級チャンピオン。ウェールズのスウォンジ出身。2003年6月28日に空位のEBUクルーザー級タイトルをブルース・スコットと争い、これを4回TKOで勝利して王座を獲得した。同王座を6度防衛。

デビッド・ヘイ
(David D. Haye、男性、1980年10月13日 - )は、イギリス、イングランドのプロボクサー。元WBC・WBA・WBO三団体統一世界クルーザー級、元WBA世界ヘビー級王者。彼の最大の魅力は躍動感あふれるスピーディーな動きから繰り出される破格の強打、クリンチすらも蹴散らして対戦相手をキャンバスに送り込むチャンスでの爆発的なラッシュ力から。「Hayemaker(ヘイメーカー)」の異名を持つ。

J・R・R・トールキン
(John Ronald Reuel Tolkien CBE〈大英帝国勲章コマンダー勲爵士〉、1892年1月3日 - 1973年9月2日)は、英国の文献学者、作家、詩人、大学教授で、なによりも『ホビットの冒険』とその続編『指輪物語』、『シルマリルの物語』の著者として知られている。オレンジ自由国(現在は南アフリカ共和国の一部)のブルームフォンテーンで、イギリスの銀行支店長アーサー・ローウェル・トールキン(1857-1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド) (1870-1904) の間に生まれた。

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ジョン・ネイピア
John Napier, 1550年 - 1617年4月4日はスコットランドのバロン。数学者、物理学者、天文学者、占星術師としても知られる。ジョン・ネイピアは、スコットランドのバロンであり、熱心なプロテスタントである。幅広い事に興味を持って研究した人物で、特に、対数の発見者として知られる。ネイピアの数ある発明の中で、後世に特に大きな影響を与えたものは、対数とネイピアの骨である。いずれも科学で必要な計算を少しでも簡単にしようとして生み出された計算のための技術であり、他の人々の手によって形が変えられているものの、現代の科学技術の礎ともなっている。また、小数点の発案者でもある。

ロアルド・ダール
(Roald Dahl, 1916年9月13日 - 1990年11月23日)はイギリス・南ウェールズ・カーディフ出身の作家・脚本家である。ノルウェー人の両親のもとに生まれる。シェル石油で働き、タンザニアやカナダにも行ったが、第二次世界大戦が始まってからはイギリス空軍の戦闘機パイロットとして従軍した。乗っていた飛行機が墜落し脊髄に重傷を負うも、なんとか生還した。しかしこの傷は後々まで彼を苦しめることになる。その後、アフリカで聞いた不思議な話やパイロット時代の経験を元に小説を書くようになった。007シリーズで有名なイギリス人作家のイアン・フレミングの友人である事から、映画『007は二度死ぬ』と『チキ・チキ・バン・バン』の脚本も手がけた。

スコット・ハリソン
(Scott Harrison、1977年8月19日 - )は、イギリス、スコットランドのプロボクサー。元WBO世界フェザー級チャンピオン。打たれても前に突進しながら接近戦で回転の速い連打で相手を倒すタイプ。「The Real McCoy (本物、正真正銘の意)」の愛称を持ち、地元スコットランドでは非常に人気のある選手である。

ウィリアム1世
William I, 1027年 - 1087年9月9日は、イングランド王(在位:1066年 - 1087年)。通称は征服王(William the Conqueror)。ノルマンディー公(ギヨーム2世、在位:1035年 - 1087年)でもあった。イングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝を開いて現在のイギリス王室の開祖となった。

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ロバート・ピール
Sir Robert Peel, 2nd Baronet, 1788年2月5日 - 1850年7月2日は、英国・トーリー党(保守党)の政治家、首相(第1次内閣1834年 - 1835年、第2次内閣1841年 - 1846年) オックスフォード大学卒。1809年、アイルランドの腐敗選挙区だったCashelから下院議員に当選。

アラン・ハンセン
Alan David Hansen、1955年6月13日 − は、スコットランド出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはDF。スコットランドのパーティック・シッスルでプロデビューし、1975-76シーズンにはクラブをリーグ優勝へ導いた。1977年にリヴァプールへ移籍し、2度のチャンピオンズカップ制覇を含む多くのタイトルを手にした。

ケビン・キーガン
Joseph Kevin Keegan OBE、1951年2月14日 - は、イングランド・ドンカスター出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはFW、MF。1970年代中盤から1980年代初頭のイングランドを代表する選手。小柄ながら豊富なスタミナでフィールドを駆け回り「マイティ・マウス」と呼ばれた。

エルヴィス・コステロ
Elvis Costello、1954年8月25日 - は、イングランドのミュージシャンである。イングランドのロンドンに生まれる。芸名の「エルヴィス・コステロ」は、エルヴィス・プレスリーと、父方の祖母の旧姓コステロに由来する。幼少よりビートルズなどの影響を受け、働きながら「フリップ・シティ」というバンドで活動を始める。代表的なバラード曲『アリスン(Alison)』もドラマで時々起用される人気曲である。

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サイモン・ラトル
Sir Simon Rattle, CBE, FRSA, 1955年1月19日 - は、イギリスの指揮者。2002年9月よりベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督を務める。リヴァプール生まれ。幼い頃からピアノと打楽器を学び、イングリッシュ・ナショナル・ユース管弦楽団では打楽器奏者を務めた。1971年にロンドンの王立音楽アカデミーに入学し、指揮を学んだ。1974年、ジョン・プレイヤー国際指揮者コンクールに優勝し、ボーンマス交響楽団およびボーンマス・シンフォニエッタの副指揮者に就任した。

クライヴ・バーカー
(Clive Barker, 1952年10月5日 - )は、イギリスの小説家、脚本家、映画監督。クライブ・バーカーの表記も用いられる。スティーヴン・キングがバーカーの作品を絶賛している。最近ではホラー要素を含んだ大作の現代ファンタジーに重点を移している。イングランドの港町リヴァプールに生まれる。ビートルズの歌「ペニー・レイン」で有名なペニーレインで少年時代を送り、ポーやブラッドベリの小説を耽読する。リヴァプール大学に進学。英語学と哲学を専攻し、学士号を取得する。学生時代は劇場などでのアルバイトを行う。

ジョン・ホートン・コンウェイ
John Horton Conway, 1937年12月26日 - はイギリスの数学者。現プリンストン大学教授。イギリス、リヴァプールに生まれる。ケンブリッジ大学で数学を学び、1959年に学士号を取得。その後、ハロルド・ダヴェンポートのもとで数論を研究し、1964年に博士号を取得した。コンウェイ群の発見 (1968)、ライフゲームの考案 (1970)、超現実数の発明 (1970)、巨大数のコンウェイ記法の発明などで知られる。エルデシュ数は 1。

クリス・スペディング
(Christopher John Spedding 1944年[1]6月17日 - )はイングランド、ダービーシャー出身のロック、ジャズギタリスト。
イギリスで最も有能なセッション・ギタリストのひとりであり[1]、1960年代から現在にいたるまで、ヨーロッパ、アメリカを股にかけて多彩なアーティストと共演している。

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ナジーム・ハメド
Naseem Hamed、1974年2月12日 - )は、アラブ系でイギリスのプロボクサー。元WBC・IBF・WBO世界フェザー級王者。フェザー級離れした強力なパンチ力と天才的かつ独創的なボクシングセンスを持ち、KO率は80%以上を誇る。イエメン国籍を持つ(育ちはイギリス)。「PRINCE」、「悪魔王子」の愛称で親しまれた。リードブローを打たない、腕をだらりと下げガードをしない、飛び上がってパンチを打つという、近代ボクシングの禁忌をあざ笑うかのようなスタイルで相手を翻弄する。 背骨が直角に曲がるほどのスウェーバック、背面を完全に相手に見せるほどの深いダッキング、それらを瞬時かつ的確に行える反射神経と動体視力を駆使するため、避けることに関しては右に出る者がいない。

ポール・ディラック
(Paul Adrien Maurice Dirac, 1902年8月8日・ブリストル - 1984年10月20日)はイギリスの理論物理学者。量子力学及び量子電磁気学の基礎づけについて多くの貢献をした。1933年にエルヴィン・シュレーディンガーと共にノーベル物理学賞を受賞している。

ウィリアム・ラムゼー
(William Ramsay, 1852年10月2日 − 1916年7月23日)はスコットランド出身の化学者である。1904年に空気中の希ガスの発見によりノーベル化学賞を受賞した。なお、同年のノーベル物理学賞は希ガスであるアルゴンを発見した功績によりレイリー卿が受賞している。

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ジョン・ディーコン
John Richard Deacon、1951年8月19日 -)はイギリスのミュージシャン。ロックバンド、クイーンの元ベーシスト。血液型はO型。「マイ・ベスト・フレンド」、「地獄へ道づれ」、「ブレイク・フリー (自由への旅立ち)」などのヒット曲を作詞・作曲した。

エンゲルベルト・フンパーディンク
(Engelbert Humperdinck, 1936年5月2日 - )はポピュラー音楽の歌手。本名はArnold George Dorseyで、第二次世界大戦中に父が駐屯していたインドで育った。芸名はドイツの作曲家エンゲルベルト・フンパーディンクに由来する。彼の代表曲である「リリース・ミー」はイギリスで56週連続チャートインし、ギネスブックにも掲載された。

ウィリアム・ウィルバーフォース
(William Wilberforce、1759年8月24日 - 1833年7月29日)は、イギリスの政治家、博愛主義者、奴隷廃止主義者。奴隷貿易に反対する議会の運動のリーダーを務めた。1785年、ウィルバーフォースは、宗教的転換をもたらす経験と彼が表現する霊的な感得を経た。彼は残りの人生をかけて、神のために奉仕することに専念することを誓った。

 

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