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グランブルーなひとたちへ

 

2003年

2003/02/21 落書きとテレビ

これはテレビの情報リサーチという番組で見たことです。札幌の警察がある方法で犯罪を減少させているというのです。それはニューヨーク市が実施して実際に効果をあげた方法を取り入れたものだそうです。その方法とは駅や町中の落書きを徹底的に消すというものです。ある学者がこの方法を提案したとき、ほとんどの関係者は、そんな方法で犯罪が減るなんて信じられなかったそうです。当時警察は全力をあげて凶悪犯罪の取締を実施していましたが、犯罪は減るどころか増える始末だったからです。

それでも関係者の英断は下り、一度試みて見ようということになりました。最初は治安が悪く犯罪が多発していた地下鉄にその方法は実施されました。あの映画でよく目にする落書きがいっぱい書かれた地下鉄です。治安が悪くて利用者が減り、市当局も頭を悩ませていたのです。駅や車内のパトロールを何倍に増やしても、治安はいっこうによくならなかったのです。そしていよいよ車内から駅のホームまで、おびただしい数の落書きを消す作業が始まりました。とてつもない作業ですが、それは徹底して行われました。同時に落書きなどの軽犯罪の取締を強化してプロジェクトは進みました。

1年目、2年目は目立った変化は現れなかったそうですが、落書きが一掃された3年目に大きな変化が現れました。地下鉄での犯罪は大きく減少したのです。それも凶悪犯罪が減少したからです。懐疑的だった関係者はとても驚きました。落書きを消したくらいで、犯罪が減るのが不思議だったのです。その学者が提案したこの落書きを消すという方法は「ブロークン・ウィンドウ理論」というもので、町中の建物やお店等のガラスを一枚壊して放置しておくと、通行する人の心に「この建物は誰も管理していない」、だから少しぐらいゴミを捨てても落書きしても構わないだろうという心理が働き、それが徐々にエスカレートして凶悪犯罪にまで行き着くというものです。

車内にまで落書きのあふれた地下鉄の場合は、「落書き」→「監視の目が行き届いてない」→「ごみ捨てや、乗客への嫌がらせ」→「恐喝や強盗」というような流れです。この地下鉄でのプロジェクトの成功で、その方法はニューヨーク市全体に用いられ犯罪発生率を激減させたそうです。札幌の警察署はこの方法を取り入れ、応用して犯罪を半減させています。札幌警察は繁華街での違法駐車を徹底的に取り締まったというのです。犯罪が多発しやすい繁華街の違法駐車を取り締まることで、「ブロークン・ウィンドウ理論」を実践したわけです。

この番組を見ていてふと思ったことがあります。それはテレビの番組についてです。どんなばかばかしいお笑いも、無責任な言動も、視聴率さえ上がったらなんでもいいという姿勢は、このブロークン・ウィンドウ理論に当てはまるのではないかと言うことです。「あの人もやってるし」「どうせ馬鹿馬鹿しい世の中だし」「自分さえよけりゃいいや」などのニュアンスが連日画面の向こうから伝わってくると、割れて放置されたガラスのように、自分もガラスを割ったり、落書きしてもいいや見たいな心理が起こってしまう事もあると思うのです。

テレビは、街の落書きよりももっと影響力が大きいから、少しでも落書きのような無責任な番組を改める努力、何がよくて何が悪いかを判断するのは簡単ではないですが、せめて視聴率と合わせてその事を考えることは、番組を提供する側の義務だと思うのです。もしその番組が「落書き」のような影響を発揮すれば、どこかで凶悪な犯罪にも結びつくかも知れないのですから。

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2003/02/19 心の宿

生きるって事はお遍路さんのように、心の中の札所を訪ねて歩く旅かも知れません。思いや祈りや反省を込めながら、1歩ずつ訪ね歩く旅。希望の宿にたどり着く時もあれば、失望の宿にたどり着く事もあります。この世のあらゆる要素が心の宿には用意されています。怒りの宿、安らぎの宿、忘却の宿、怯えの宿、傷病の宿、出会いの宿、別離の宿、勇気の宿、笑いの宿、挫折の宿、再生の宿、不眠の宿、安眠の宿、快楽の宿、苦痛の宿、思いでの宿、想像の宿、いたわりの宿、貧窮の宿もあれば贅沢な宿もあります。語らいの宿もあれば沈黙の宿もあります。

眠られない夜は、不眠の宿に逗留している時かも知れません。毎日毎日、どれだけ平凡に暮らしていても、心は刻々と変化しています。大きな悲しみに耐え切れる時もありますし、ほんの些細な事で、参ってしまう時もあります。幸福の宿にずっと逗留出来ればいいのですが、どれだけ気に入っても遍路は続きます。一つの宿には長く逗留できないようになってるようです。そのおかげで助かることもあります。たまたま悲しみの宿に泊まっても、明日はまた違う宿です。自分で決めれるようで、決める事が出来ない心の宿。さて今日はどんな宿が待ってるのでしょうか。

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2003/02/12 記憶と印象

記憶とは不思議なものです。日常的に関わっている世界、例えば毎日顔を合わせる人や、毎日通る道、毎日見る景色などはよく考えると意外と知らないことが多いものです。時々見慣れたものの違う側面を見てはっとすることがあります。例えばいつも利用する駅のホームでも習慣となっている位置と違う場所に立つと、違う世界が目に映る事があります。「あんな場所にあんな建物あったっけ」「この駅のホームこんなに長かったんだ」などとふだん意識しなかった事を思ったりします。たまに、よく通る道をわざと一本外して歩くと「こんなところにお寿司屋さんがあったんだ」とか「こんな大きなお寺今まで何故気づかなかったのだろう」と驚くこともあります。

たぶんその道も一度や二度通っているのですが目に入っていても印象として受けとめていないのです。「灯台もと暗し」とはよく言いますが、決して興味がないわけでもなく、近くのものは自分勝手に全て分かった気でいることが多いからかも知れません。これは人間に対しても同じで、日常的に会う家族や友人の事でも、あらためて考えると、一個の人間としての相手に対して知らない部分が多いことに気づいたりします。知ってると思ってることは、あくまで自分サイドからの見方からで、ある種勝手な見方をしてることも多いと思うのです。

よく映画やドラマで長年連れ添った夫婦の会話に出てくる言葉ですが「私はあなたのことを何も知らなかった」と言うセリフがあります。近くてそして日常的に存在するものに対して人は自分の都合のいいように対象を解釈してしまう癖があるようです。あらためて振り返ると相手のことを何も分かっていないし、何も考えていない事があるものです。分かったつもり、考えているような気がしてるだけの事を、自分で相手を把握してると勘違いしているのです。

人が物事を記憶する場合、非日常的な要素があればあるほど記憶は強くなります。旅先の始めての場所、遠く離れた場所はそれだけでも記憶に残ります。ましてや音楽でも景色でも、特別な出来事が絡んでいればより記憶に強く残ります。好きな人と出会った場所や、悲しいけれど別れた場所などは、消そうとしても消えないほど鮮明に残ってしまいます。その時に見た風景、かかっていた曲、それは心に深く刻まれてなかなか消えるものではないはずです。

それぐらいの印象がないと人はなかなか自分を見つめたり、相手を見つめたり出来ないのかも知れません。画家がキャンバスに近づいたり離れたりして印象を確かめるように、日常的なものに対しては接しなければならないのかも知れません。時には視点を変えて、歩く道を少し変えてみるだけでも、身近なものの中に新しい魅力や楽しみを発見できると思うのです。そしてそれを日々実行されている人は、人生の達人と言ってもいいのではないでしょうか。

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2003/02/11 手と心

先日友人からうれしい電話がありました。旅先で思わぬ人と出会ったと言うのです。それは以前バースと一緒に仕事をしていたデザイナーです。一度会いたいなと思って連絡を取っていたのですが、消息が分からなかった人なのです。電話をくれた友人が語った話はこうでした。ものづくりに興味のある彼は福井県の竹人形の里で人形作りを見ていたのですが、あるお店で一人の職人さんが一心に仕事をしているのを見て足を止めたそうです。そして竹を触るその手つきを感心して眺めていたのですが、ふとその手つきに見覚えがあると思ったらしいのです。

そこで記憶を辿るとバースと一緒に仕事をしていた彼のことを鮮明に思い出したと言うのです。もう10年以上も前、それに友人は彼とはあまり面識がなかったのですが、デザインをするその手つきを覚えていたと言うのです。結局声をかけると竹細工をする彼もすぐに友人を思いだしたらしく、バースの事も懐かしく訊ねていたそうです。この話を聞いて「人間の手」ってすごいなと思いました。顔を忘れていても手で思い出すなんて、何か嬉しくなりました。

話を聞くと彼は10年前にデザイナーを止めて大阪を離れて、福井県に行ったそうです。そこで竹細工と出会って好きになってそのまま続けていると言うのです。彼は繊細だけれど大胆な性格で、もともと一流大学の建築か工学かの学部を卒業して、一流企業へ勤めていたのを辞めてデザイナーを目指していたのです。その時も周囲の反対は大きかったと聞いています。10年経った今彼が竹人形の職人をしていると聞いて、納得するものがあります。もの静かだけれど秘めた情熱の強い彼なら、きっといい作品を作るだろうと思います。今度福井へ出かけて彼の竹人形を見ながら一献交わしたいものです。「ものづくりをする手」は手そのものが人に話しかけるのだなと、つくづく思ったのです。昔、彼がプレゼントしてくれた素敵なジャズの写真入りの日記帳、今も大切にしています。

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2003/02/05 引きこもりと友人

僕自身引きこもりの経験や人とのコミュニケーションが取れない時代がありました。僕の場合父も母も物わかりのいい人だったので随分救われました。父は僕が中学二年の時に他界したのですが、生前は僕によくこう言っていました。「正樹よ、人と一緒である必要はないよ」「お父さんは人と違った行動する方が好きだよ」こう言われて、学校へ行くのがいやだった僕は、随分と気が楽になったのを覚えています。人にあわそうと思うと苦痛なのですが、違ってもいい、むしろ違った方がいいと言われると、人とそんなに違わない自分を再認識したのです。父はこうもいいました。

「もし判断に迷う時があってどうしても決断しなければいけない時は、たとえ反対意見がおまえ独りでも反対に手をあげなさい」父の死後この言葉はよく実践されました。もともと迷うことの多い僕はいつも少数派の反対意見に手を揚げていたからです。後になって考えるとその方が確率的にも正しい事が多かったようです。多数決の怖さと理不尽が分かった気がします。多数意見の多くは僕と同じく迷っているにも関わらず、勢いに負けて同意している人が多かったからです。

今社会問題となっている引きこもりやいじめの問題は僕の時代にもありました。ただ大きく違うのは子供達の周りの環境です。学校も家庭も社会も大きくそして悪く変わりました。何故悪いかと言うと事が起こるまで見て見ぬふりをするからです。僕の時代はちょっとした事件や兆候があれば教師が関わって来ます。教師が気づかなければ親が関わり、親も気づかなければ、近所の経験豊かなおじいさんが関わってくるという具合で、何重にも安全装置が働いていたと思います。だから結構いじめはあったのですが早い時期に解消というか粉砕されてしまうのが実状でした。そしていじめをしていた側が早い時期にしかられたり反省したりするので、彼らはその後いじめをされる側につくようになったりして、バランスがとれていたように思います。

社会が複雑化して、この問題に関してはいろいろな原因が取りざたされていますが、僕は一番の要因は「無関心」だと思います。自分の事以外考えない風潮。自分の子供、自分の家庭をあまりにも偏愛しすぎるから他人や社会に関しては無関心になっているのです。そしてそんな歪みの結果が自分の子供、家庭に回ってきたときにおろおろするのです。僕が子供の頃よくあった風景を一つ書いてみます。小学校の頃です。学校では当然学力の差が出ます。まるっきり勉強が嫌いな子もいますし、しても出来ない子、したくとも家の手伝いで出来ない子もいます。そして家庭環境も恵まれていて勉強の出来る子もいます。僕は中間ぐらいだったのですが、勉強の出来ない友達と一緒によく勉強の出来る子の家に行ったものです。

行くと、その家のお母さんやお父さんがにこにこして迎えてくれるのです。お茶やケーキが出るときもあります。僕たちはもううれしくて、学校では見せない熱心さで勉強したものです。もちろんその場は気が合うものがよっているのもあるのですが、そこの両親に勉強の成果を見せたくもあったのです。当時は近所の路地に大抵一人は物知りで一日中将棋をしたり路地の掃除をしたりしているおじさんがいて、何でも教えてくれる私設教師の役割をはたしていました。おじさんはみんなの成績を把握していて、勉強が出来る子が行くと「君はそれで十分だから教えない」「ビー玉かべったん(カード遊び)をやれ!」と言って突き放します。

そのかわり勉強嫌いや苦手な子供には上手に勉強に引き込むのです。とにかく話が上手くて知らない間に何かを覚えさせられるのです。こんな風潮は各家庭にも浸透していて、勉強の出来る子供の親はこのおじさんと同じような考えを持っていたようです。自分の子供に「おまえはよくできるから、あの子に教えてやれ」と言うような会話はよく耳にしました。もちろん反対に「お前は頭が悪いから、あの賢い子に教えて貰え」という会話はもっとよく耳にしました。どちらにしても成績が悪いことがそんなに卑屈になるような雰囲気はありませんでした。

今とは随分違うと思いませんか?教育の場は社会にあって学校はごく一部にしか過ぎないと思いませんか?こんな風潮で育った僕の世代はその後高校に入っても、培われたニュアンスは生きていました。僕の時代どちらかと言うと成績の悪い奴がのびのびとして、社会に出ても活躍しているのはこんなバックグラウンドがあったからかもしれません。そして社会がこんな風潮だったら引きこもりはそんなに起こらないと思うでしょう?

今からそんな時代に戻れと言っても無理は分かっていますが、現状の解決に何か参考になる要素は含まれていると思うのです。

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2003/02/01 国境と遺跡

大好きな遺跡アンコールワットの話がもとで、タイの人々ととカンボジアの人々の間で紛争が起こりました。アンコール王朝の時代から長い歴史の中で繰り返されてきた争いのしこりが残っているのでしょうか?タイの女優のたった一言「アンコールはタイのもの」と言うのが原因のようです。それも確かに言ったかどうかも分からない話です。

カンボジアの人達の中で日頃から経済的優位にたつタイに対して不満がくすぶっていたのかも知れません。タイとカンボジアの国境に近い場所にあるアンコールワットを見ていると、国境自体がもともとひどく不自然なもののように見えてきます。アンコール王朝が栄えていた頃、アンコールワットを中心に領土は拡がっていたはずです。以来幾度もの攻防のすえに今のような国境線が引かれたのでしょうが、本来民族が混然としていた時代も長くあったはずです。

カンボジア、タイ、ラオス、ミャンマーなどの近接する人々はもし国境がなかったら、共通の遺産として文化遺産を愛するのではないかなと思ったりします。そして日本のような島国を母国とする僕にとって、東南アジアや中東で紛争が起こる度に、理解できない国境の壁を感じてしまいます。民族の壁があり、国境の壁があり、宗教の壁がある世界。お互いを認めて尊重しあうような世界を作ることが何故そんなに難しいのか理解できない。そしてそれは他民族と国境を接して暮らしたことのない日本人の経験のなさからくるものなのでしょうか?

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2003/01/28 この世の全てが望むもの

戦争はもちろん人間の問題ですが、犠牲になるのは人間だけではありません。多くの動物、植物がためらいもなく殺されてしまいます。人と人が殺しあい傷つけあうだけでも悲惨なのに、人よりやさしく生きている動物、人より長く生きている樹木。ふだんから人間に恩恵を与えているものたちが一瞬にして焼かれ、粉砕されてしまうのです。

ベトナム戦争の映像で米軍がジャングルにナパーム弾や衝撃弾を投下しているのを見ると、あの森の中に住んでる無数の生き物はどうなるんだろう?もちろん死んでしまいますが、その光景を想像すると胸が詰まってしまうのです。自然の命あふれるジャングルで人が死にあらゆる動植物が死んでしまう現実。

どんな戦争でも、それはたんなる殺戮です。一人の人間を傷つけることは多くの人間を悲しませることです。一人の人間を殺すことは多くの人間の心を殺すことです。アフガンでもイラクでも少年や少女のあの可愛い笑顔を見て、どこに落ちるかも分からない、そしてその場所に誰がいてるかもわからないところに爆弾を投下出来ますか?戦争とはそれをあえてやることなのです。人間のする事ではありません。非道なテロで失われる命も、戦争で失われる命もまったくおなじ命です。

人間はこの素晴らしい地球の命運を握る生物です。環境やシステムを建設も出来るし保護も出来ます。そして破壊する事も出来ます。破壊はいけません。暴力はいけません。人間には言葉があります。笑顔もあります。握手できる手もあります。それらをちゃんと使えば必ず分かり合え、分かち合えるはずなのです。人間だけでなく、猫も犬も牛もイルカも猿も象もライオンもそして森の精霊達もそれを望んでいるのですから。

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2003/01/26 チルとバースの長い話

その犬と出会ったのは秋も深まる気持ちのいい朝でした。その頃バースは丘の上の小さな家に住んでいました。台所と6畳の和室が一つあるだけの家です。駅から幾つもの坂を上ってそれ以上上がない場所でした。目を瞑っても行き着くことが出来ます。上に上に向かって歩けばいいんです。その朝早くふと思い立って散歩に出たんです。まだあたりは薄暗くて丁度空が白み始めていました。坂を下って近くの広場のようなところへ向かってゆっくり歩いていると何やら後ろに気配がするんです。振り返ると小さなスピッツのような犬がちょこんと座っているのです。ちょこんと座ってこちらを見ています。でもそれ以上近づいて来ません。

それでまた歩き始めるとまたちょこちょこついてくるのです。肩越しに振り返って見るとどこかぎこちない歩き方です。僕が足を止めるとその犬も座ってしまいます。そうこうしているうちに広場に着いたので、いつもの石段に腰をかけました。その犬は相変わらず一定の距離をもってちょこんと座っています。呼びかけてもこっちをじっと見るだけで近寄っては来ません。小首を傾げたその様子がとても可愛くいじらしく見えました。よく見るとスピッツと何かの雑種のようです。野良犬のようですが、すり切れた首輪をしているので、どこかで飼われていた犬かもしれません。こちらを見るその目はどこか視点がずれているように思えます。丁度僕の横あたりを見ているのです。僕以外に人はいないし変な犬だなと思って少しずつ近づいて見ました。

僕が近づいても別に逃げようともせず大人しく座っています。そして近づいて見て分かったのです。目がちゃんと見えていないのです。眼球に薄い白い膜のようなものがはっていて、白内障のような状態です。「そうか、それで焦点が合ってなかったんだ」納得です。そっと頭をなでてやると嬉しそうに目を細めます。遠くから見ては分からなかったのですが、大分年もとっているようです。迷ったのか捨てられたのか、この様子じゃ餌を探すのも容易じゃないはずです。僕はこの犬を飼うことに決めました。奥ゆかしくてとても賢そうな犬です。帰り道、その犬はやっぱり僕の後ろをある距離を保ってついてくるのです。何か抱きしめたくなったけど、驚かしてはいけないから、その犬の流儀を尊重することにしました。

家に帰ると犬小屋を作ることにしました。小さな家だけど低い塀と出窓との間に丁度いいスペースがあるのです。当時僕は内装の仕事をしていたので、大工仕事はお手の物です。僕はその犬を「チル」と呼ぶことにしました。小さな小屋を作る間、チルはやっぱり少し距離を置いてちょこんと座っています。「もうすぐいい家ができるよ」そう声をかけながら端切れの板を組み合わせて、出来るだけ大きな音を出さないようにほとんどビスで止めて作りました。小さいけれどチルが入るには十分な小屋が出来ました。古くなったセーターと下着を敷いて寝床も作りました。「チル、出来たよ」そう呼びかけてもきょとんとこっちを見ています。僕はそばへいって抱きあげて、小屋の中に入れました。抱いてみるとチルはとっても軽いのです。毛が長いから分からなかったのですが、随分やせています。チルは小屋が気に入ったのか中でじっとしているので、ほっと安心しました。

大きなお皿に牛乳をいっぱい入れて小屋の入り口に置きました。チルは2.3回ぺろっとなめてすぐに小屋の奥に戻ってしまいます。長いこと安心して寝てなかったのかも知れません。まずは睡眠です。チルを家の中に入れて寝かせてやれなかったのは、てんてんと言う猫の先住者がいたからです。夜中に気になって小屋を覗いてみましたがチルはまるで死んだように眠っています。明くる朝、小屋を見ると牛乳も半分ぐらい減っています。きっと時々起きて飲んだのです。小屋の中からこっちを見ています。その視線は僕を通り越して遠くを見ているようです。その日からは僕が出かけるとチルはどこまでも後をついて来るようになりました。遠くへ行くときは仕方がないから小屋に鎖でつながなくてはならなくなりました。

この時期僕は勤めていた会社の社長と喧嘩をして丁度失業していたのです。もし仕事をしていたらチルとは出会わなかったかも知れません。失業してもいいことはあります。そうです、先住民のてんてんと知り合ったのもそんな時期だったからかも知れません。家の前の高い木の上に降りることが出来ず進退窮まった猫がいたんです。登るには登ったものの降りれないのです。僕は洗濯竿の先に買い物かごをとりつけて、その中に竹輪を入れててんてんのそばに近づけたのです。救出作戦は見事に成功しました。高いから怖さもあったでしょうが、長い間木の上ですくんでいたので、お腹も空いていたのでしょう。竹輪の匂いに負けて買い物かごの中に飛び移ったのです。もともと後先考えずに木に登るような猫だから、根がおっちょこちょいなんです。

それから一ヶ月が過ぎ、チルも少し体力が回復したようです。チルは目が悪いだけではなく足も悪いのです。後ろ足の骨が骨折の後遺症でしょうか変形しています。歩く姿がぎこちなかったのはそのためです。それから耳もあまり聞こえないようです。かろうじて鼻だけが利くようです。「チル、お前ってヘレンケラーみたいだね」とよく話しかけたものです。でも、体は悪くても表情や仕草は感情にあふれています。首を傾げたりしっぽを微妙に動かしたり、何とも愛くるしいのです。

その冬にこんな事がありました。チルは「だるまさんがころんだ」が出来るのです。あまりにも寒い日が続くので台所の狭い土間に布を置いてそこでチルを寝かしていたときです。僕がチルに背を向けて台所で用事をしているとチルが近づいて来るのです。最初土間から首を伸ばして板間に頭をのせるのです。僕が見ると決して動きません。そしてまた用事をしてると、今度は上半身を板間にのせているのです。でも、見ると決して動きません。ぴくりとも動かないのです。チルはこう思っているのです。動いているところを見られなければ、板間に上がってもいいと思っているのです。また背を向けていて振り返るともう体がすっかり板間に上がっています。僕は笑いをこらえるのに必死でした。だってあんなに真剣に演じているんですから。「僕は動いてないよ」「勝手に体が移動してるんだ」まるでそんな感じなんです。

そしてそのゲームを気長に続けていると、最後はいつも冷蔵庫の横のお気に入りの場所まで来るんです。最初はしっぽを膨らせて怒っていたてんてんも、あきれ果てて見ています。ただチルが賢いのは決して畳の部屋には入ってこようとしないことです。何ともいじらしい性格です。チルの思いではいっぱいありますが、もう一つ今でも不思議だと思うことがあります。それは食べ物の事です。小食のチルはあまりたくさん食べなかったのですが、一応僕が作ったものは大抵食べてくれました。ところがどうしても食べないものがあったんです。それは豆腐です。僕はよく味噌汁の残りをご飯にかけてチルに食べさせたのですが、ある時感心して大笑いしたことがあります。それは豆腐の味噌汁の時でした。絹こしの柔らかな豆腐を小さな賽の目に切って作った味噌汁をご飯にかけておいたのです。

それはきれいにお皿が光るほどきれいになめて食べてあったんです。ところが賽の目の豆腐だけが残っているんです。それも形が全然崩れていないんです。豆腐の角がちゃんと残っているぐらいです。ご飯粒も汁さえも何も残っていないのに、豆腐だけがちゃんと残っている。まるでまっさらなお皿に小さな角切りの豆腐をわざわざ並べたようになっているのです。「何て器用な食べ方をするんだろう」チルの決してコンセプトを曲げない性格を見たような気がしました。そんな素敵なチルも二年目の冬に眠るようになくなりました。年もいってたけど、随分無理して生きてきて体のあちこちがいたんでいたのです。チルよ永遠であれ・・・心からそう思います。そしててんてんはその後七年ぐらい元気でいました。引っ越ししてもちゃんと新しい環境に慣れる特殊才能を持っている猫でした。最後は行方不明になってしまったのですが、まだどこかで竹輪を求めて生きているかも知れません。

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