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グランブルーなひとたちへ

2006年

グランブルートップへ

 

2006/10月28日 おへそが2つ

当時ちょうど普及したペニシリンのおかげて

粟粒結核の魔の手からのがれたものの

病弱だった子供の頃。引込思案の痩せた子供でした。

何の因果か父の母は旅役者一座の座長で

父はよく僕を連れて一座を追いかけ旅にでました。

「しんどいよ」

いつもそう言ってた記憶があります。

時に一座のトラックに同乗することもあって

あの田舎道の激しい振動は忘れられません。

それよりあの光景。

ちょんまげのままズボンを穿いてるおっちゃんに

白塗りの化粧がまだ顔のあちこちに残ってるおばちゃん

みんな楽しくていい人ばかりなんだけど

見た目は奇怪極まりないものでした。

みんなこぞって前日の芝居の客席から飛んできた飴玉やお菓子を

僕の口に無造作にねじ込みます

「もういらない」

いつもそう言ってた記憶があります。

子役のいない一座では僕がめずらしかったのか

それとも手名づけて子役にしようと思ったのか

ほんとうにみんな僕を可愛がってくれました。

一度被り物を頭に載せられ無理やり舞台に出された事もあります。

恥ずかしさとショックで泣く事もできず

おろおろうろたえる姿に客席からは大喝采。

スター誕生です。

「もう二度とお父さんとは旅しない」

そう言ってふてくされて寝てる姿です。

僕にはお臍の上にまあるい痣があって

これは子供の時も今も不思議な事に同じ大きさ。

よく言われました。

「あんたは死んでもお腹見たらすぐ分かるよ」

まあ確かにこんな漫画みたいな位置に丸い痣なんてそうないから

そうだけど、

「わーいっ!あいつお臍二つあるぞ」

なんて言われていじめられた事もあるんだから。

そんなことも遠い昔。

今でも鏡に映る裸を見てああ僕だと

納得する時もあります。

このスケッチもお腹を見たら間違いなく僕

人は顔では分からないこともあります。

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2006/10月27日 時を抱きしめる

いろんな事がつぎつぎ起こって怖いように時が流れて行きます。このまま止まって欲しいと思う時。とにかく早く過ぎ去ってくれと思う時。時は様々な顔をしてやさしかったり、意地悪だったりしながら事もなげに流れるのです。

たとえ今この時の思いをタイムカプセルに封印したとしても、それは開けたときのノスタルジーでしかありません。「時」。人が創り出した概念でありながら、人に希望を持たせ、あるいは失望をもたらし、人生に決定的な影響を与えるもの。

限りある命を定められた生き物として、それは仕方のないことなのですが、だからこそ「できる限り今を噛みしめて生きる」、「好きなこと好きな人を抱きしめて生きる」「大切に思うことを後回しにしない」などの言葉が輝くのです。大局的には絶対的な「時」も瞬間の「永遠」に負けることもあります。

時に対するレジスタンス。友と夢を語る時、恋人と抱き合う時、2人の心音が調和して一つになったとき、僕はいつもそう思うのです。

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2006/10月26日 とらうま

「トラウマ」この言葉が流行語になった時がありました。

マスコミでも、職場でも、友人との会話にもよく出てきます。

それなのに僕は長い間全く意味が分からなかったのです。

「虎と馬」頭が虎で胴体が馬??

それはおかしい。何かの諺だろうか?

取らぬ狸の皮算用みたいな言葉の短縮?

トランジスタウーマンの略?

ああ、どうしよう。

みんながあんなに分かりきったように使ってるのだから

今更聞くのも変だし。

あの人の性格はトラウマだよ。

過去に何かあったに違いない。

過去の事?

過去の事件?

過去の事件がなんで頭が馬で胴体が虎なんだ!

もう考えまい。

ある日公園で可愛い姉妹が遊んでいました。

小さな妹がブランコをびゅんびゅんこいでいるのに

お姉ちゃんは離れて見ています。

「なんで乗らないの?」

「私一度落ちて怪我したの」

そうなんだと納得してるところへ妹が来て

「姉ちゃんはトラウマだよ」

どき〜〜ん。

「なんで姉ちゃんが頭が虎で胴体が馬なんだ」

小さな子供が平気で使う言葉。

響きからして日本語に違いない。

でももしかしたら外来語なんだろうか。

小さな子供の発言にショックを受けて家に帰って辞書を調べました。

英語の辞書、ありました「trauma」精神的外傷、心の傷とあります。

発音はトローマ。トラウマなんて言うからてっきり日本語だと。

 

以来僕は小さな子供の発言には用心します。トラウマです。

もし今度公園でちっちゃな子供にこう言われたら入院します。

「おじさん、こんな時間に公園でぶらぶらして」

「ニートにしたら年いってるし、ホームレスなの?」

「それともワーキングプア?」

くそガキの頭をこつんと殴って、入院手続き。

子供がそんな言葉を使わなくてもいいです。

 

こんな話を書いたのは最近思う事があるからです。

どんな人でもトラウマを持っている。とつくづく思うのです。

でも長くなるから続きはまた。

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2006/10月25日 同じ一つの空の下

秋の夜長に手を止めて、遠くの夜空を思い浮かべます。同じ一つの空なのに別々の空がそれぞれあって、見える星もそれぞれ違う。考える時間、本を読む時間、仕事する時間。秋の夜長は不思議なぐらいたくさんの事ができるけど、叶わない事が見えたりもします。

「銀河系を自由に旅したい」子供の頃からの夢はまだ叶いません。科学者でもない僕が言えることではないけれど、小さな太陽系すら遠い世界。でも想像の世界なら自由自在です。最近惑星から外された冥王星だってひとっ飛び。

それなのに近づけない世界もあって・・・君の世界と僕の世界はそんなに遠く隔たってるのだろうか?それともお互いのバリアが強すぎるだけなのだろうか。答えはきっとそれぞれの空にあって、同じ一つの空を共有した時、同じ一つの空に抱かれた時に分かるのかも知れません。

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2006/10月24日 カカオ99%

いろいろと悲しい事も増えてきた世の中だけれど、お菓子の世界、チョコレートの世界はまるで夢のように絢爛豪華になりました。過剰包装、過剰デザインじゃないかなと思うほどパッケージはきれいで、中身もまた美味しいから文句はないのですが、それでもちょっともったいない。

思い出せば数種類の板チョコしかなかった時代。お菓子やさんの店先には「かち割りチョコ」と言って50センチ四方ぐらいの型に流し固めたチョコレートを文字通り叩き割って、破片を一つ一つセロファンで包んだチョコが山積みにされてありました。大きさ形も一つ一つ違って、全て目方で値段がつけられていました。

どう見ても大きさの違うチョコが同じ値段。重さは一緒でも大きく見える形があります。あれこれ考えても実際買ってもらえるのは小さなひとかけ。山の中でもひときわ目立つ巨大なやつを睨みつけながら、小さなひとかけを大事に持って帰るのです。今思えばあれはカカオなど入っていたのでしょうか。全くチョコとは違う物体だったのかも知れません。

時として父が見たこともないチョコを持って帰ってくることがあります。当時日本にはなかった写真やイラストが入った包装紙にくるまれたチョコです。「舶来のチョコレート」と僕は呼んで眺めてるだけで幸せになれるお菓子でした。これはフランス、これはベルギー、これはドイツのだよと父に教えられても、僕にとっては全ての国がおとぎの国のように感じたものです。「こんなチョコレートがある国なんて、遊園地のような国に違いない」

時代は変わって、チョコはどんどん進化して(人はほとんど進化してないのに)今や美味しさを越えてカカオのパーセント、カカオの質に注目がいく世の中になりました。カカオ99パーセントの表記を見て、何で100パーセントにしないんだろ?なんて単純な疑問は湧くけど、口にしてよく味わうと確かにこれがチョコレート。中米のマヤ族が数千年前に食べていたのはこれに違いない。

チョコに限らず100パーセントと言うのはなかなかありません。「僕は100パーセント嘘をついたことがないと言うのは100パーセント嘘だけれど」、チョコも不純物が全く入らない事なんてないだろうから99にしてるのでしょう。

チョコレートと人生。ガーナチョコがお気に入りなんだけど、いろいろ食べてみよ。

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2006/10月22日 犬と猫とビールと

母を偲んでお寺参りの帰り、立ち寄った居酒屋さん。扉を開けると小さなむく犬が出迎えてくれて何故かほっとしました。伊勢生まれと言うお店のお母さんは60幾つと言うけれど血色もよく元気な人。おでんも魚のみりん干しもなかなかの味でした。「今日は母の命日でこの近くのお寺へ来た帰りなんです」「そうですか、亡くなられて何年?」「2年です」「時間が経つのは早いですね」

「僕はカラオケが苦手でこういうお店は敬遠してしまうんです」と言うと、お母さんは「私はこんなお店してるけどカラオケは大の苦手、歌ったことないんですよ」「そうなんですか」「それはよかった」などとあれこれ話しているうちにもういい時間。ちょうど客が3人入ってきたので「じゃあごちそうさま、おあいそして下さい」と言うと小声で「もう少しいてくれませんか」「・・」と思って入ってきた客を見るとちょっと変な感じの人達。「じゃあもう少しいます」お母さんはいちげんの3人連れが気味悪いようです。「ビールもおでんもサービスしますからいて下さいね」か弱い僕は用心棒にされてしまいました。

小一時間たっても別に声をあらげたり、難癖をつけたりする様子もないけど確かに気味悪い感じはします。やだなあと思いながらビールを飲んでると、おそれていたカラオケが始まりました。ど演歌です。一曲二曲、とまる気配はありません。「お母さん、僕も歌います、今日は母の命日だし」何とか場の空気を変えようと5年ぶりのカラオケ。「じゃあ、俺達の旅、それに岬めぐり、それからフォーユーにサントワマミー」数少ない知ってる歌を4曲連発。間にまた演歌。「じゃあ5番街のマリーになごり雪、それにいちご白書に酒と涙と男と女」もいちど連発。

やっとの事でお客さんが帰ると、そそくさとのれんを入れたお母さんは「すみません、断ろうと思ったけど返って難癖をつけられそうだったから」「ほんとうに助かりました。ちょっと怖かったから」何事もなくてよかったけど僕だっていちげんの客なんだから、と思ったけどまあ今日は母の命日。これでいいかと店を出ようとすると、どこから現れたのかむく犬の他に二匹の黒猫と白ねこがお見送り。「この子たちは近所の野良猫なんですよ、店が終わるとこうやって来るんです」なるほど、、「おかしな人間より今度は君たちと飲みたいね」「お休みなさい」彼らは笑ってこう言ってるようでした。「おじさん、一緒に飲んでもいいけどカラオケはなしだよ」「私達の食べ物が腐ったらたいへんだから」「ぐっ!」口の悪い野良猫たちでした。

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2006/10月23日 5秒母さん

お母さん、あの絵本読んでよ

可愛い娘の横にお母さんはもぐりこんで、今日はこのお話にしようねって、絵本を持って添い寝します。「お母さんあの続きだよって娘は目がぱちぱち」「じゃあちゃんとお話を聞いてね」っておもむろにお母さんは、絵本を開いて読み始めます。

昔々、お父さんが木こりの仕事で死んで、お母さんもしんどい仕事で死んで、たった二人残された子供がいました。お姉さんはバゼル、弟はエンリケと言う名前でした。(そんな無造作な絵本はないけど)

「ぐうっ〜〜」

お母さん、それでバゼルとエンリケはどうなったの?ねっ!お母さん、どうなったの?ほっぺたをつまんでもおなかを擽ってもお母さんは熟睡です。「じゃあバゼルとエンリケは姉と弟二人で生きていったんだなと娘は想像します。絵本の字さえ読めたら私が読むのに。

あくる日また夜が来て「お母さん昨日のバゼルとエンリケの続き読んでよと娘は言いました。ああ、夏子、続きね、あのバゼルの話だよね、「うん、お母さん、お父さんもお母さんも亡くした子供たちどうなったの?「夏子、お母さんが読むから早く寝なさいよ。」お母さんはまた絵本を持って布団にもぐりこみます。「バゼルとエンリケはね、お父さんとお母さんの面影を探して旅にでかけたのです」「バゼル、エンリケが言います。お父さんもお母さんも死んでしまったんだろ?」

「それは違うよエンリケ」、姉ちゃんは言います。「お父さんとお母さんは遠い国に行ったんだ。だから姉ちゃんはそこへ行くよ」「姉ちゃん、そうなのだったら僕も行くよ」

ものの5秒のお話です。お母さんは「グー、スカ、。ピー」夏子さんはお母さん、それでバゼルとエンリケはどうしたの?とお母さんの鼻をつまもうが髪の毛を引っ張ろうがグー、スカ、。ピー。熟睡したお母さんの横で、まだ3っつの夏子さん、いやナッちゃんは、バゼルとエンリケの未来を想像するのです。

あくる日、3歳の夏子さんはお母さんに言いました。「バゼルは弟と一緒に船を作ったんだよ。猫や犬やウサギや熊や全部協力してくれて、お父さんとお母さんを探すための船を作ったんだよ」5秒で寝るお母さんはナッちゃんに言いました。「それは夏子、絵本と違うよ、お母さんが今日寝るときに続きを読んであげるから」だって・・・お母さん寝ちゃうでしょ。

じゃあ、お母さん、あの絵本の続き読んでよ。お母さんはバゼルの絵本を持ってナッちゃんの布団に入り込みました。「夏子、あんたは目が堅いね、お母さんが本を読んだら子供は眠たくなるものだよ」「お母さんどうでもいいから早く続きを読んでよ」「はいはい、バゼルとエンリケはこの世でふたりぼっち。<姉ちゃんお父さんに会いたい>バゼルはそんな弟に言いました。」

「グー、スカ、。ピー」「ゲッゲッツ」

お母さん、お母さん、また寝てしまったの。バゼルどうするのよ?まだ3歳のナッちゃんはお母さんの寝姿を見て、バゼルとエンリケの未来は私がつくらなきゃいけないんだと思いました。

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2006/10月21日 ぶれない人

40年来の親友が二人います。彼らとは何故にずっと変わらずいい関係を保ててるのだろうと考えました。彼らとは学生時代に話していた事が今も同じように語れるし、お互いその当時の気持ちを持ち続けているからだと思います。人は不思議な生き物です。若い頃情熱的にいろいろな事を語り合い多くの考えを共有していた仲間が、結婚や仕事上の事ですっかり人が変わってしまい、あの時の君は誰だったんだ?と思うぐらいに別の人間になってしまう人もいます。

もともとその変わった姿が本来の姿なのかも知れませんが、30半ばで全く違う人格になってしまうのはどうにも僕には解せません。もちろん人生の経験を経て、素敵な人間に変わるのなら文句はないのですが、大方は逆でつまらない人間。あの気持ちはあの言葉はどこへ行ってしまったんだ、と。

親友の一人は結婚離婚を経験し、世界を飛び回って生きています。もう一人の親友はずっと独身で国内すらあまり行った事がない人間。全くタイプも生き方も違う人間なのだけど、僕とはどちらもピタッと息が合います。結局彼らはいくら変化しても人間の中心と言うか、心の大事な部分が「ぶれない」人です。たまに会って食事をしてもお酒を飲んでもそれは楽しい時間。彼らがいて幸せだと思います。

親友の事だけではなく、例えばネットで知り合った素敵な人たち。3年5年と時は流れても、ずっと語り合えるのはその人たちもやはり「ぶれない」人たちです。ほんの数人だけど、そんな人たちとメールで話ができるのは素敵な事です。それぞれ全く違う生活環境、全く違う個人の歴史なんだけど、今そこにいる人の心がとてもありがたいと思う事が何度もありました。悲しい事、苦しい事、いろいろある中で、右往左往しながらも「ぶれない人」そんな人が僕は大好きです。

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2006/10月18日 オンリーワン

気持ちのいい京都の昼下がり。祇園から三条への道半ばに可愛いお店があります。ロートレックのカフェのような印象のお店。その前には通りを見るためでしょうか、店を背にしてして五脚の椅子が一列に置かれています。

椅子には黒服のマダムの代わりに初老の紳士と大きなむく犬が並んで座っています。ふさふさの毛に覆われた顔はユーモラスで、目がどこにあるのか分かりません。「こんにちは」とあいさつをして「これじゃ何も見えないんじゃ」と言うとおじさんは笑って「見えてますよ」と愛犬と顔を見合わせます。それにしても行儀のいい犬です。

店内に入って窓越しに外を見るとおじさんとむく犬の背中が同じ大きさです。おじさんがむく犬を連れてるのかむく犬がおじさんを連れているのか、不思議だけど心あたたまる光景に「あのおじさんはよくこられるのですか」と店の人に聞くと「二人は毎日こられてああやってずっと桜の木を見てるのですよ」なるほど「たしかに二人です」

「それにしてもロケーションのいいお店ですね」「前の桜の木と素敵な小道がこのお店のためにあるようなものですね」彼女は満面の笑みを浮かべて「そうでしょ、この景色を見てると仕事してても疲れないんですよ」とうれしそう。「コーヒー、いやビールを下さい」

「ちょっと無理して京都まで来てよかった」心地よく冷えたビールを飲みながら桜の木を見やると、同じようにじっと木を見ている二人の背中が一枚の絵になってしまいました。

そこにしかないもの。そこでしかない時。そこでだけ刻めるものがあるから人は動くのです。

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2006/10月18日 癖としつけと友人と

マナーの悪い人がいます。道に唾を吐いたり、煙草を投げすてたりする人がいます。隣のテーブルで汚い食べ方をする人を見て食欲がなくなった事もあります。マナーは人間としての基本だと思うのだけどイエローカード、レッドカードを出したくなる人がいます。しつけの事が話題になるような今の時代、きれいな立ち振る舞いをする人に出会うとなんか救われたような気がします。

マナーは親が子供に教えるべきことの大切な一つですが、親がちゃんとしてれば子供はそれをまねしますから、しつけは自動的に行われます。食べるときにくちゃくちゃ音を鳴らす子供がいれば「その食べ方は下品だからやめなさい」と大抵の親は注意するだろうと思うのだけど、実際いい年をして幻滅するような食べ方をする人もいます。しつけができていない、神経が切れている、理由は分かりませんが、嫌な癖に気づかず生きている人を目撃したり、遭遇したりすることはしばしばあります。

きちっとした身なりをしていて、何でこんな不作法なことするんだろ?と思う人は結構いて、僕なりに考えるとそう言う人達はたいてい友達や親友がいない人です。仲のいい友達がいればそんな癖はないだろうと思われること。例えば道に唾を吐く奴がいれば友人なら注意します「おまえ、それはあかんだろ」「見た感じも悪いし大体おまえは自分の部屋の床にも唾をはくんか」と友人なら言います。食べ方にしても「おまえのそのくちゃくちゃいわす音を聞いてると食欲なくなるじゃないか」と友人は言います。どんどんと足を踏みならして歩く奴には「おまえは象か」静かに歩けと言います。みんなにそう言われて直らない人間ならもう避けるしかありません。

なくて七癖。自分では気づかない事は多々あります。それを垣根や遠慮なく指摘してくれるのが友達です。僕は自分の娘や若い人達によく言うことがあります。「とにかく友達をたくさん作った方がいい」「友達はお互いに自分の鏡だから、ものの見方考え方はもちろん、悪い癖も注意してくれるから」これは意見じゃなくて僕が生きてきた実感です。家庭でのしつけがいきとどかなくても、友人の輪のなかで学んだり気づいたりすることは多いものです。大人になればもう注意もしてくれません。心の中で「最低の食べ方だな」とか「下品な人だな」とか思われるだけです。友人があえて注意してくれるのは、一緒に楽しい時間を過ごしたいから、一緒に気持ちよく食事をしたいからです。

そして何よりも恐ろしいのは、マナーの悪い人は体感的な嫌悪感以上に心が偏ってる可能性があることです。それは生き方に関する重大な問題です。平気で道に唾を吐く人が心がきれいなんて事はあり得ませんから。

「しつけはその人の育ちの匂い」「マナーはその人の心の匂い」「友人はその人の生き方の匂い」と言ってもいいのではないでしょうか。

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2006/10月18日 世界は不思議でいっぱいになる

ひとたび気を入れれば1日はとてつもなく長い

きらきらなびく風、はねまわる光

歩いて歩いて

語って語って

しばしの時が千年を刻む

何だろう

永遠とはこんなものかも知れない

見慣れた風景は謎を秘め

聞き慣れた音は背中をくすぐる

まるで何も知らない子供のように

世界は不思議でいっぱいになる

僕は君が好きだ

君は夕陽を追いかける

黒猫とカラスがほほえみをかわす

信じられないだろうけど世界は不思議でいっぱいになる

そう、ひとたび気を入れれば世界はとてつもなく広い

見えないのは見ようとしないから

感じないのは感じようとしないだけのこと

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