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エチオピア連邦民主共和国
Federal Democratic Republic of Ethiopia

アフリカ

■地理
エチオピアは世界で27番目に大きい国である。国土の大部分がエチオピア高原を中心とする高地で、年平均気温は13度と冷涼である。北部をエリトリアとジブチに接する内陸国だが、それぞれ紅海とアデン湾にはわずか70kmしか離れていない。国土の中央にある首都アディスアベバの標高は2,400m。


東アフリカ
Afrika ya mashariki)は、アフリカの東部地域、おおむね大地溝帯から東側の地域を指す。この地域はインド洋に面し、沿岸部(スワヒリ海岸と呼ばれる)は、モガディシュ、キルワ、マリンディなどの都市がインド洋のイスラム商人の交易で繁栄したことからイスラム教が広く浸透している。


サブサハラアフリカ
sub-Sahara Africa) は、アフリカ(アフリカ大陸に限られず島嶼を含む)のうち、サハラ砂漠より南の地域。言い換えると、アフリカのうち北アフリカ以外。ただし国際連合の定義では、北アフリカと一部重複する。


アフリカの角
Horn of Africa)は、アフリカ大陸東端のソマリア全域とエチオピアの一部などを占める半島。ソマリ人の居住地域であり、ソマリランド (Somaliland) とも呼ばれた(ソマリランド共和国とは異なる)。ソマリ半島 (Somali Peninsula) とも。ソマリ地域、ソマリ地方 (Somali Area など) などとも呼ばれるが、これはエチオピア東部ソマリ州 (Somali Region) を指すことがある。


イレミ・トライアングル
(Ilemi Triangle、三角地帯)は、東アフリカのケニアと南スーダンとエチオピアの3ヶ国に跨る地域。「イレミ」はアヌアク族(w:Anuak)の首長イレミ・アクウォン (Ilemi Akwon) の名にちなんでいる。面積は10,320km2から14,000km2と推測されている。ケニアと南スーダン、さらにエチオピアもこの地域の領有権を主張し、論争しているが未だに帰属が決まっていない。


エチオピア高原
(Ethiopian Plateau)はアフリカ大陸北東部にある高原。アビシニア高原とも。平均標高が2300mときわめて居住に適した気候形態を要しており、エチオピアの人口と主要都市の大部分がこの高原に集中している。

ダナキル砂漠
Danakil Desertはエチオピア北東部、エリトリア南部に跨る砂漠。アファル人の居住地であり、その高温と海抜マイナス100メートルを切るアファール盆地で知られる。ダナキル砂漠の主産業は岩塩の採掘である。

アファール盆地
Afar Depression、またの名をアファール三角地帯(Afar Triangle)とも言うこの地域は、アフリカの角の付け根に当り、エリトリアからジブチのダナキル窪地(ダナキル砂漠)、エチオピアのアファール州、そしてソマリアの一部にまたがって存在する地溝が形成した盆地である。多数の化石人類が見つかる場所であるアワッシュ川下流域を含むアファール地域は、ヒト科人類の揺籃のうちの一つとして有名である。

タナ湖
エチオピア最大の湖で青ナイル川の源流である。位置、北緯12度0分、東経37度15分。深さは最大15 m、面積は約3000 km2で、海抜1800 m。この湖の特徴として、37の小さな島が点在していること。島に計29の修道院が散在していることが挙げられる。

ジュバ川
Jubba Riverはソマリア南部に流れる川。起点はエチオピア内のソマリア国境付近でダワ川とガナレ・ドリャ川 が合流した場所であり、ソマリアに入ってからがジュバ川と呼ばれている。インド洋に注いでいる。

シェベリ川
Shebelle Riverはエチオピアのハイランド地方 (highlands) からソマリア南部のモガディシュあたりを流れる川。モガディシュ近郊で流れが南東から南西に急変する。ただし、海にまで流れ出るのは雨季に限り、それ以外の季節にはジュバ川の河口近くで干上がって無くなる。激しい雨季にのみ、ジュバ川と合流してインド洋に注ぐ。

アトバラ川
(Atbara)は、エチオピア北西部からスーダンの東にかけて流れるナイル川支流の河川である。スーダン・アトバラでナイル川に合流する。全長約805km。6月から10月までの雨季以外はほとんど水は流れていない。

青ナイル川
Blue Nile、は、エチオピアのタナ湖に源に発する川で、白ナイル川とともにナイル川の支川を形成している。タナ湖に流入する支流はいくつかあるが、青ナイル川の水源はアムハラ州の標高2,744mにあるギシュ・アバイの泉であると考えられている。

トゥルカナ湖
アフリカ大陸の大地溝帯にある湖である。大部分はケニア国内にあり、北部がエチオピアに属している。面積は6405km2で、琵琶湖の約10倍あり、砂漠にある湖としては最大であり、アルカリ性の湖としても世界最大である。200から300万年前、この湖はもっと広く肥沃な湖であり、化石人類の生活の中心であったと考えられている。リチャード・リーキーはこの周囲で人類の進化を知る上で重要な発見をしている。


<世界遺産>
シミエン国立公園
シミエン山地にはエチオピア最高峰(アフリカ大陸第4位)のラス・ダシェン山(標高4620m)をはじめとする高山が続き、「アフリカの天井」とも呼ばれている。この厳しい自然環境のなかで、独特の動植物たちが生息している。国立公園指定のきっかけのひとつは、ワリアアイベックスを保護することにあった。ワリアアイベックスは、ヨーロッパ大陸のアイベックス(ヤギ亜科)と同系統で、かつてヨーロッパとアフリカが地続きだったときに渡ってきたと考えられている。

ラリベラの岩窟教会群
ベテ・マドハネ・アレム(マドハネ・アレム聖堂。「マドハネ・アレム」は「救世主」の意)は、アクスムにあるシオンの聖マリア教会を模したと考えられている世界最大級の岩窟聖堂である。

ファジル・ゲビ、ゴンダール地域
エチオピアの都市ゴンダールにある王宮群が立ち並ぶ小高い丘。17世紀から18世紀にかけて、ここを首都としていたゴンダール期(ソロモン朝に含まれる)の歴代皇帝たちが居城や聖堂を建造した。

アワッシュ川下流域
エチオピア北東部にあるハダール村付近の一帯が、ユネスコの世界遺産に登録された際の名称。登録された主たる理由は、この地でアウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の化石人骨ルーシーが発見されたことによる。

ティヤ
ティヤ村周辺では来歴が未解明の石碑群が発見されており、1980年にユネスコの世界遺産に登録された。最初の石碑は1905年にフランス人の考古学者が発見した。その後、1976年の調査までに墓所なども見つかり、ティヤ村を含むソド地方(the region of Soddo)一帯で160をこえる石碑が発見された。大きいものは5メートルを超え、石碑の多くには剣や人面のようなレリーフが刻まれている。 石碑を刻んだのはエチオピアの先住民たちと推測されているが、彼らが牧畜を行っていたらしいこと、レリーフを金属器で刻んだらしいことなどがわずかに解明されているのみで、レリーフに込められた意図などは未解明のままである。

アクスム
かつてのアクスム王国の中心地である。この王国は、イエス誕生の頃に勃興し、在りし日のペルシャ帝国に対抗する東ローマ帝国の半同盟国として、海上貿易で栄えたキリスト教国であった。アクスム王国はゲーズ語 (Ge'ez) と呼ばれる独自の文字言語を持っており、古いものは紀元前5000年から前2000年まで遡る巨大なオベリスクに代表される独自の建築様式を発達させていた。

オモ川下流域
エチオピア南西部にあたるこの地域からは、数百万年単位に及ぶ多くの種類の化石人骨が出土しており、そのことが登録理由となった。また、ここからはホモ・ハビリスが使用した約250万年前に遡る最古の打製石器も発見されている。

歴史的城塞都市ハラール・ジュゴル
アディスアベバからは約500km離れており、エチオピア高原の東の丘の上にある(海抜1885m)。ジュゴルと呼ばれる城壁に囲まれたハラールの町には、82のモスクが存在し、イスラームにおける「第4の聖地」とも考えられていた。この歴史的町並みは、「歴史的城塞都市ハラール・ジュゴル」の名で、2006年にユネスコの世界文化遺産に登録された。

ジブチ・エチオピア鉄道
Ethio-Djibouti Railwaysは、エチオピアの首都アディスアベバとジブチの首都ジブチ市を結ぶ、全長781kmの鉄道である。軌間は1000mmの狭軌である。ジブチ・エチオピア鉄道会社によって運営され、会社の本部はエチオピアのディレ・ダワにある。会社はジブチ政府とエチオピア政府の共同運営のもとにあり、その会長と副会長は、ジブチとエチオピアの運輸系閣僚が兼任する。


ハイレ・セラシエ1世
1892年7月23日 - 1975年8月27日は、エチオピア帝国最後の皇帝(在位:1930年11月2日(戴冠式が行われた月日) - 1974年9月12日)。エチオピア南部のショア地方の貴族の子として生まれる。血縁上はアドワの戦いで名を馳せた英雄メネリク2世の従兄弟の子にあたる。幼少の頃より聡明で、若くして各地の州知事を歴任した。記憶力が非常に優れており、晩年に至っても重要事項について全てを暗記していて、メモの類を一切必要としなかったという逸話が残っている。

アクスム王国
過去のエチオピアに栄えた交易国。単にアクスムとも。紀元前5世紀頃から紀元後1世紀までに交易国になった。325年または328年にコプト派キリスト教が伝来した。7世紀に衰退し始め、内陸の高地へ追いやられてクシ系のアガウ(Agaw)族の女族長グディット(Gudit;ジュディット(Judith)、ヨディット(Yodit)とも)によって950年頃滅ぼされたとされる。

エチオピア帝国
1270年から1975年まで存続したアフリカ東部の国家。現在のエチオピアおよびエリトリアにほぼ一致する領域を支配し、最大版図は現在のソマリア、ジブチ、ケニア、スーダン、南スーダン、エジプト、アラビア半島の一部まで及んだ。欧米のアフリカ分割の最中にあって独立を保ったアフリカ最古の独立国である。

エチオピア正教会
Ethiopian Orthodox Tewahedo Churchはエチオピアで独自に発展した、キリスト教の教会である。エチオピア帝国時代は国教とされていた。東方諸教会・非カルケドン派に分類される。エチオピア正教会はサハラより南で唯一、植民地時代以前から存在するキリスト教会である。エチオピアのほか、世界中で公称3600万人の信徒がおり、全東方諸教会中最大の規模を誇る。

コプト正教会
Coptic Orthodox Church)は、キリスト教・非カルケドン派(東方諸教会)の一つであり、エジプトで発展した教会。コプト教会とも。ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白し、マリアを神の母として崇敬する。『マタイによる福音書』に聖家族のエジプト逃避の記事が有ることから、コプト教会に於けるマリア崇敬は極めて盛んである。

イスラーム
ムハンマドがアッラーフの啓示を受けたとして創始した、ムスリムの信仰生活を、第一聖典クルアーン(コーラン)と第二聖典ハディースによって規定する体系をさす。回教とも呼ばれ、またかつてはフイフイ教とも呼ばれた。

アムハラ語
エチオピアの公用語。アフロ・アジア語族セム語派に属する言語としては、アラビア語に次いで話者人口が多い。表記はゲエズ文字(アムハラ文字)。アムハラ語には正式に定められたラテン文字転写法がなく、以下はエチオピアのセム語を専門とする言語学者の間で用いられる方式の一つを用いる事とする。

アドワの戦い
1896年3月1日にエチオピア軍とイタリア軍がエチオピアのティグレ州アドワ近郊で戦った会戦。この戦いの敗北が、第一次エチオピア戦争におけるイタリアの敗北を決定付けた。19世紀にアフリカの大部分はヨーロッパの国々により植民地化され、リベリアを除くと独立国はアフリカの角に隣接するエチオピア帝国だけであった。


エチオピア十字
Ethiopian cross, エチオピアンクロス)はエチオピアのキリスト教(エチオピア正教会)で多用される十字。その精巧かつ様式化されたデザインは、ヨーロッパのキリスト教における各種の十字とは著しく異なっている。


ソロモン
紀元前1035年頃 - 紀元前925年頃)は、旧約聖書の『列王記』に登場する古代イスラエル(イスラエル王国)の第3代の王(在位紀元前965年 - 紀元前925年頃)。父はダビデ。母はバト・シェバ。エジプトに臣下の礼をとり、ファラオの娘を降嫁されることで安全保障を確立し、古代イスラエルの最盛期を築いた。

シバ王国
タナハ(旧約聖書)とコーランで言及されている歴史上の王国。王国の所在地については、エチオピアかイエメンかで議論がなされているが、エチオピアとイエメン双方に位置した可能性もある。旧約聖書におけるソロモン王とシバの女王の話で知られている。

シバの女王
旧約聖書に登場する女王。シバの女王はシバ王国の支配者で、ソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するために遠方の国家からエルサレムのソロモン王の元を訪れたとされる。その来訪には大勢の随員を伴い、大量の金や宝石、乳香などの香料、白檀などを寄贈したとされる。

メネリク2世
1844年8月17日 - 1913年12月12日はショアの王、後にエチオピア帝国の皇帝(在位:1889年3月9日 - 1913年12月12日)。帝位に就く前の名はSahle Maryam。第一次エチオピア戦争においてイタリア王国を破り、列強にエチオピアの独立を承認させた。これは、当時のアフリカ大陸の諸王国の中で唯一独立を保つことが出来た事例として有名となった。メネリク2世は、ベルギー、フランス、ロシアなど複数の列強国家による資本を導入することによって特定の国家に従属することを避けながら、西洋国家をモデルとした新しいを国づくりを始めた。教育の近代化、電話の普及、鉄道、道路の敷設、アビシニア銀行の設立、郵便、貨幣制度、病院など一連のインフラの整備、政治面では内閣制度の導入などの近代化改革などである。

ティグレ人
アフリカの民族。エリトリア及びエチオピア北部に住む。ティグリニャ語を話すティグレ人はティグリニャ人とも呼ばれる。エリトリア中北部及びエチオピア北部のティグレ州に住む。エチオピアでは450万人が暮らしており、人口の7%を占め、オロモ人、アムハラ人に次ぐ第3民族である。1991年にティグレ人民解放戦線(TPLF)を中心とする勢力・エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)がメンギスツ・ハイレ・マリアム軍事政権を倒して以来政治の実権を握っており、現在のエチオピア首相メレス・ゼナウィもTPLF出身のティグレ人である。

オロモ人
アフリカに住む民族のひとつ。オロモとはオロモ語で「力ある者」を意味する。エチオピア中南部のオロミア州に主に居住し、ケニア北部にも住んでいる。エチオピア最大の民族。エチオピアにおいてオロモ人は2600万人弱の人口を抱え、人口の40%を占める。アムハラ人と並ぶエチオピアの二大民族であり、エチオピア最大の民族である。しかしながら、エチオピアにおいての支配民族は伝統的にアムハラ人であり、さらにエチオピア革命によってメンギスツ・ハイレ・マリアム軍事政権を倒したのもティグレ人が中心であったため、政治の中心から常に遠ざけられてきたという不満がオロモ人の中にはある。

アヌアク族
Anuak。アニュア人とも)は、エチオピアと南スーダンに住む部族。1940年代初期にエバンズ・プリチャードの指揮のもとに歩兵としてイタリア人と戦った。このとき多少の小火器を知るまで、ヌエル族の襲撃に苦しんでいたといわれている。

ヌエル族
(Nuer)は、南スーダンのナイル川支流バハル・アルガザル川、およびソバト川近辺に居住する民族。自らについてはナース(Naath)と称する。西ナイル語族に属しており、東スーダン諸語のひとつヌエル語を解する。1960年代の調査では人口約30万であるが、この数値は言語的に近しいディンカ族の一部を含有している。

アムハラ人
(Amhara)は、アフリカの民族。エチオピアの中央高地に主に居住する。エチオピア帝国を建国し、以後現在に至るまでエチオピアの主導民族となっている。エチオピア高原に2000万人の人口を有し、オロモ人についでエチオピア第二の民族である。エチオピアは多民族国家だが、人口はオロモ人とアムハラ人が突出し、二大民族を形成している。また、エチオピア帝国の建国時代からアムハラ人は常に支配階級を輩出し、それは1991年のメンギスツ・ハイレ・マリアム軍事政権の崩壊まで続いた。現在でもエチオピアの公用語はアムハラ語であり、アムハラ文化はエチオピア全土に浸透している。

ネグロイド
(Negroid)は、人種のひとつ。現生人類は、生物学上ホモ・サピエンスというただ一種に属している。ただし、過去の自然人類学や文化人類学では、ネグロイド、および北アフリカ・ヨーロッパ・西アジア・アラブ・南アジアなどに見られるコーカソイド(白色人種)、オセアニアに見られるオーストラロイド、東アジア・東南アジア・ポリネシア・南北アメリカ大陸などに見られるモンゴロイド(黄色人種)を4大人種として分類していた。


ホモ・サピエンス・イダルトゥ
Homo sapiens idaltu)は、現生人類ホモ・サピエンス・サピエンスの直接の先祖であると考えられている。約16万年前の更新世東アフリカに生息していた。調査グループのメンバーである諏訪元は日本語でヘルト人と呼んでいる。イダルトゥは発見地エチオピアのアファール語で「年長者」を意味する。日本語のヘルト人は発見地の地名を採っている。


アビシニアン
Abyssinianは、ネコの品種のひとつ。原産国は不明だが、エジプトが有力。(エチオピア、またはイギリスとされる場合もある。1868年のイギリス・アビシニア戦争後、イギリス兵がエジプトのアレクサンドリアの港にいた「ズーラ」という名の雌ネコをイギリスに持ち帰ったのが起源とされる。


ネガソ・ギダダ
(Negasso Gidada、1943年 - )は、エチオピアの政治家で元大統領。メンギスツ政権を倒したメレス・ゼナウィ暫定政権でエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)内の最大会派オロモ人民民主機構(OPDO)に所属として情報相を務め、1995年8月22日よりエチオピア連邦民主共和国初代大統領に就任。

アベベ・メコネン
(Abebe Mekonnen 1964年10月16日- )はエチオピアの陸上競技選手(長距離)。少年時代から陸上競技の素質を見いだされ、マモ・ウォルデらからトレーニングを受けていた。1985年ワールドカップ広島大会で初めてサブテン(2時間10分未満)を記録。1986年のロッテルダムマラソンでマラソン初優勝を果たす。

アルチュール・ランボー
(Jean Nicolas Arthur Rimbaud, 1854年10月20日 - 1891年11月10日)は19世紀のフランスの詩人。ランボオとも。主な作品に散文詩集『地獄の季節』、『イリュミナシオン』など。1854年、フランス北東部アルデンヌ県シャルルヴィル(現在のシャルルヴィル=メジエール市)に生まれる。父は陸軍の軍人、母は小さな農地主の長女。ランボーは2人目の子で、2男であった。1875年、この年に書いた詩が彼の最後の作品とされる。以後、兵士、翻訳家、商人など様々な職業を転々とし、ヨーロッパから紅海方面を放浪、南アラビアのアデンでフランス商人に雇われ、アビシニア(現在のエチオピア)のハラールに駐在する。

ゲテ・ワミ
(Gete Wami、1974年12月11日-)は、長距離種目を中心に活躍しているエチオピアの陸上競技選手。2000年シドニーオリンピック女子10,000 mで銀メダルを取ったほか、オリンピックで3つのメダルを獲得している選手である。また、2006-07年におけるワールドマラソンメジャーズの女子総合優勝に輝いている。

ケネニサ・ベケレ
(Kenenisa Bekele, 1982年6月13日 - )は、エチオピア出身の陸上選手。男子トラック長距離5000m・10000m世界記録保持者。強い精神力とスピードを持ち、鮮烈なラストスパートで知られる。オリンピック・世界選手権では圧倒的な強さを見せて優勝を重ね、世界の頂点に君臨し続けている。

ザウディトゥ
(Zaoditou, 1876年4月29日 - 1930年4月2日)は、エチオピア帝国の女帝(在位:1916年 - 1930年)。メネリク2世の娘。1916年に甥のリジ・イヤスが失脚すると実質的な皇帝として振る舞った。翌年には正式に即位、遠縁のラス・タファリ・マコンネン(後のハイレ・セラシエ1世)が摂政兼皇太子となって政治を行った。1928年に政治の表舞台から身を引いた。

デラルツ・ツル
(Derartu Tulu、1972年3月21日 - )は、エチオピア出身の女子陸上競技選手。1972年、ケネニサ・ベケレと同じベゴジ村で生まれた。1992年、バルセロナオリンピックの陸上女子10000mで金メダルを獲得。エチオピア人女性初の金メダリストとなって一躍国民的な憧れの存在となり、それ以降生まれた多くの女の子が「デラルツ」という名前を付けられるほどだった。

イクノ・アムラク
(Yekuno Amlak)は、エチオピアを支配したソロモン朝の創始者で、一時中断するものの1975年まで続くエチオピア帝国の初代皇帝(在位:1270年 - 1285年)。その先祖をたどるとアクスム王国の最後の王デイルナードに繋がるとされている。その事跡については、ほとんどが口承伝承で伝わっている。共通しているのは、母親は、サガラット地方、現在のアムハラ地方のDessie Zuria woredaに当たる場所を支配したアムハラ人の首長に仕える女奴隷であったという。

テオドロス2世
(Tewodros II , 1818年 - 1868年4月13日)は、エチオピア帝国の皇帝(在位:1855年 - 1868年)。即位前の名はカッサ・ハイル。戦国時代さながらの「ラス達の時代」を終わらせた「中興の祖」とされ、強力な国家を作るために近代化政策を推進した。

オレステ・バラティエリ
(Oreste baratieri 1841年11月13日 - 1901年8月7日)は、イタリアの軍人。第一次エチオピア戦争でエリトリア総督として陸軍遠征部隊を指揮した。しかし現地のバラティエリと違い、状況を把握しないイタリア政府はバラティエリに決戦を厳命した。2月29日、アドワ北方でイタリア陸軍1万7000人とエチオピア軍10万人が衝突(アドワの戦い)、朝方に始まった戦いは正午に終わり、ほぼ死者数は両者とも1万人程度だった。

エジェガエフ・ディババ
(Ejegayehu Dibaba、1982年3月21日-)は、エチオピアの陸上競技選手。10000mの選手として2004年アテネオリンピックに出場。30分24秒98の記録で銀メダルを獲得。ディババの妹のティルネシュ・ディババもアテネオリンピックの5000mで銅メダルを獲得し姉妹でメダリストとなる。

テスファエ・トラ
(Tesfaye Tola,1974年10月19日 - )は、エチオピアオロミア州アルシ地方出身の陸上競技長距離選手。2000年のシドニーオリンピックのマラソンで同じエチオピアのゲザハン・アベラ、ケニアのエリック・ワイナイナに次いで銅メダルを獲得した。

デリバ・メルガ
(Deriba Merga Ejigu 1980年10月26日- )はエチオピアの長距離走選手。マラソンランナー。2006年の世界ロードランニング選手権で6位となりエチオピアが団体で銅メダルを獲得するのに貢献した。2007年の福岡国際マラソンではサムエル・ワンジル、佐藤敦之らと争い2時間06分50秒で2位となった。

ハイレ・ゲブレセラシェ
(Haile Gebrselassie, 1973年4月18日 - )は、エチオピアの陸上選手。専門は長距離走・マラソン。身長164cmと小兵ながら圧倒的な強さで『皇帝』と呼ばれる、エチオピアの国民的英雄である。5000mと10000m、男子マラソンの元世界記録保持者。1992年9月18日、世界ジュニア陸上競技選手権大会の10000メートル走において優勝したが、レース中にもかかわらずゴール直前に殴りかかられるという前代未聞の事件の当事者となった。

マモ・ウォルデ
(Mamo Wolde、1932年6月12日- 2002年5月26日)は、エチオピアの元陸上競技選手・軍人である。1968年のメキシコシティオリンピックマラソン金メダリストである。これを含めて4度オリンピックに出場し、合計3個のメダルを獲得した。アディスアベバから南西70kmのデブレセイト近郊にあるヒッティディレジレという村に小作農の長男として生まれる。早くからヤギの世話など家業の手伝いをしており、小学校も2年通っただけであった。

ミルツ・イフター
Muruse YefterもしくはMiruts Yifter,1944年5月15日 - )は、エチオピアの陸上競技長距離選手。ミュンヘンオリンピックの男子10000mで銅メダルを獲得した。5000mにもエントリーしており、出場していれば金も期待されたが最終コール時間に遅れて出場出来なかった。次のモントリオールオリンピックでは5000m、10000mでの2種目制覇が期待されていたが、アフリカ諸国の大量ボイコットにより出場辞退を余儀なくされた。35歳で迎えたモスクワオリンピックにおいて2種目制覇を達成した。このとき、表彰式後のインタビューで「この金メダルは世界の若者とアフリカ大陸に捧げたい」という言葉を述べた。

メセレト・デファー
(Meseret Defar, 1983年11月19日 - )は、エチオピアの陸上競技選手である。アテネオリンピック (2004年)で金メダル、北京オリンピック (2008年)で銅メダル、ロンドンオリンピック (2012年)で金メダルをいずれも女子5000メートル競走で獲得した。2007年6月16日に、5000mで14分16秒63の世界新記録を達成した。その後、後輩のティルネシュ・ディババに記録を更新された。

エチオピア連邦民主共和国 Ethiopia
東アフリカに位置する連邦共和制国家である。東をソマリア、南をケニア、西を南スーダン、北西をスーダン、北をエリトリア、北東をジブチに囲まれた内陸国。1991年5月29日にエリトリアが独立を宣言し、1993年5月24日に独立が承認された。首都はアディスアベバ。

エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンのサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王とシバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国が、現在のエリトリアにある沿岸の港町アドゥリスを通じた貿易で繁栄した。全盛期は4世紀でこのころコプト教伝来の影響が見られ(コプト教伝来以前はサバ王国から伝わった月崇拝をしていた)、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。

エチオピア連邦民主共和国大使館
皆様がエチオピア大使館ウェブサイトを訪問して下さる事は、大きな喜びであり大歓迎です。このホームページは、エチオピアの基本情報に加え、観光、貿易や投資、また歴史や文化、領事関係情報など、幅広い内容を網羅しています。ホームページに掲載されている資料以外で、何かお聞きになりたいことがあれば、どうぞお気軽に大使館まで足をお運びください。大使館住所はトップ・ページに記載されています。今後さらに多くのエチオピアの情報を皆様にお届けできるよう、ホームページの充実に努力してまいりますので、皆様からのご意見をお寄せいただければ幸いです。駐日全権大使マルコス タクレ リケ



外務省:エチオピア連邦民主共和国
在エチオピア日本国大使館


アディスアベバ/Addis Ababa
アディスアベバとはアムハラ語で「新しい花」を意味する。現在の人口はおよそ300万人。市内には屋根が白、車体が青の乗合タクシーとミニバスが走っている。1998年に中国の協力で完成した環状道路が市内の渋滞解消に大いに役立った。中国とは市内鉄道を計画中。 国立博物館や民族博物館、ライオンパークやマスカルスクエア、エントト山やマルカート(東アフリカ有数の市場)などが有名。学問の中心地としてアディスアベバ大学(設立から1975年まではハイレ・セラシエ1世大学と呼ばれていた)がある。

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アディスアベバ大学
アディスアベバ大学はエチオピアの首都、アディスアベバにある大学。1950年に当時のエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世によって設立。 全7キャンパスの内、6つはアディスアベバ市内にある(他の1つは 45km離れた、Debre Zeit にある)。その他にエチオピア各地に支部を持つ。 政府は高等教育を終えた有資格の学生をこれらの学部に振り分ける。学生は Unity College の様な私立大学にも通う。ハーバード大学とは姉妹校である。アディスアベバ大学公式サイト

アファール州
人口1,389,004人。州都はアサイタ。エチオピア北東部に位置し、北部をエリトリア、東部をジブチ、南東部をソマリ州、南部をオロミア州、西部をアムハラ州、北西部をティグレ州に接する。州のほぼ全域がアファール盆地という低平な平原になっており、降水量が少なく乾燥しているのでほとんどの領域がダナキル砂漠という砂漠になっている。

ディレ・ダワ
(Dire Dawa)は、エチオピア東部の都市。エチオピア第2の都市であり、一都市で独立した自治区を形成している。人口398000人(2005年)。ジブチ・エチオピア鉄道により首都アディスアベバやジブチ共和国の港湾都市ジブチ市と結ばれている。ほど近い場所に世界遺産でもある古都ハラールがあり、同市へのアクセスの拠点ともなっている。

ゴンダール
(Gondar)は、エチオピアのアムハラ州にある都市。1632年〜1769年にかけて、エチオピア帝国の首都だった。タナ湖の東に位置し、標高2000-2200メートル、人口約20万人の古都で、市内にはソロモン朝ゴンダール期に建設された3つの王宮群(コンパウンド)が現存する。

モヤレ
(Moyale, Moyalle)はエチオピアとケニアにまたがる町。エチオピア側が規模が大きい。ケニヤのモヤレ県(英語版)の行政中心都市でもある。ケニアの首都ナイロビからエチオピアの首都アディスアベバを陸路で移動する場合、モヤレの国境検問所を通る場合が多い。モヤレの周囲はディデ・ガルガルという名の砂漠である。

ワルデル
Wardher, はエチオピア東部にある町。ソマリ州のワルデル地方に属し、海抜541メートル。ワルデル行政地区の行政機関もある。イタリアとエチオピアとが争った第二次エチオピア戦争の発端となったワルワルの井戸は、ワルデルの北東12キロメートルの位置にある。

ラリベラ
エチオピア北部の街。何世紀にも亘る巡礼地であり、エチオピアではアクスムに次ぐ聖地の一つである。アクスムとは異なり、住民はほぼ全員がエチオピア正教徒である。ラリベラはかつてエルサレムがムスリムの手に陥落した際に、新たなエルサレムになろうとした。だから、街の建造物群には、エルサレムの建造物群の名前や並びを模したものがある。

ガンベラ州
(Gambela Region)は、エチオピアの州。面積25,802km2、人口247,000人。州都はガンベラ。エチオピア最西部に位置し、西をスーダンに、北をオロミア州に、南を南部諸民族州に接する。アニュワ人とヌエル人が多数を占める旧イルバボール州西部を分離して作られた。民族の対立が激しく、分離独立運動や民族紛争が絶えない。

ソマリ州
Somali Regionは、エチオピアの州。エチオピア東部に位置し、北西部をアファール州に、北部の一部をジブチに、北部をソマリランドに、東部をソマリアに、西部をオロミア州に接する。1995年に民族ごとに州が再編された際、ハラルゲ州の一部を割いて作られた。現在も隣接するソマリアの国家崩壊の影響を受け、反政府運動が盛んであり情勢は安定していない。

ティグレ州
(Tigray Region)は、エチオピアの州。チグレ州とも書かれる。エチオピア最北部に位置し、北部をエリトリアに、東部をアファール州に、南部をアムハラ州に接する。人口4,334,996人、面積50,078km2。州都はメケレ。旧ティグレ州をほぼ引き継ぎ、1995年に民族ごとに州が再編された際、ティグレ人を中心とする地域で作られた。


ゲエズ文字
かつてゲエズ語を表記するために生み出され、現在はアムハラ語をはじめとするエチオピアの諸言語の表記に用いられる文字である。ゲーズ文字、アムハラ文字、エチオピア文字とも呼ばれる。


ボレ国際空港
Bole International Airportは、エチオピア連邦民主共和国の首都、アディスアベバ南東の近郊の町ボレにある国際空港である。かつてはエチオピアの皇帝ハイレ・セラシエ1世にちなんで「ハイレ・セラシエ1世国際空港」とも呼ばれていた。この空港はエチオピア航空の本拠地であり、世界各国へ接続している。

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■国名
国名のエチオピアは、ギリシャ語の「日に焼けた」という意味のアエオティプスに因むが、これはエチオピア人の肌の色に由来しており、本来の意味はアフリカ大陸の広範囲に渡る地域を指す。


1.面積:109.7万平方キロメートル(日本の約3倍)
2.人口:8,282万人(2009年:世銀
人口増加率2.6%(2009年:世銀)
3.首都:アディスアベバ
4.民族:オロモ族、アムハラ族、ティグライ族等約80の民族
5.言語:アムハラ語、英語
6.宗教:キリスト教、イスラム教他


1962年 エリトリア地方併合
1974年 革命により王制廃止、社会主義国家建設宣言、臨時軍事行政評議会(メンギスツ議長)設立
1977〜1978年 オガデン紛争(ソマリアと交戦)
1984年 エチオピア労働者党(メンギスツ書記長)設立
1987年 エチオピア人民民主共和国樹立
1991年5月 エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)首都侵入、メンギスツ政権崩壊
1991年7月 エチオピア暫定政府成立
1993年5月 エリトリアがエチオピアから分離・独立
1995年5〜6月 第1回国会選挙(連邦下院選挙及び地方議会選挙)実施
1995年8月 暫定期間終了、エチオピア連邦民主共和国樹立、メレス新政権樹立
1998年5月 エチオピア・エリトリア国境紛争勃発
2000年5月 第2回国会選挙
2000年12月 エリトリアとの包括的和平合意成立
2002年4月 国境委員会によりエリトリアとの(地図上の)国境線確定
2005年5月 第3回国会選挙
2010年5月 第4回国会選挙


ブル (通貨)
ブル (Birr) は、エチオピアで使用されている通貨単位。1993年から1997年まで、エチオピアから分離独立したエリトリアでも用いられていた。1976年までは、公式の英語訳はDollarであったが、現在では英語でもBirrが用いられている。


エチオピア人民革命民主戦線
メレス・ゼナウィ政権の与党勢力。オロモ人民民主機構、アムハラ民族民主運動、南エチオピア人民民主戦線、ティグレ人民解放戦線の4大組織を中心に、その他多数の小政党で構成される。最大勢力はオロモ人民民主機構だが、メレス首相はティグレ人民解放戦線に所属。議会で圧倒的多数を構成している。

 

ティグレ人民解放戦線
エチオピアのティグレ族を主体とした政党である。オロモ人民民主機構(OPDO)、アムハラ民族民主運動(ANDM)、南エチオピア人民民主戦線(SEPDF)の3党とともに、与党連合エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を構成する。現在の議長(党首)はメレス・ゼナウィ。

オロモ人民民主機構
Oromo Peoples' Democratic Organization,略称OPDOは、エチオピアのオロモ族を主体とした政党。アムハラ民族民主運動、南エチオピア人民民主戦線、ティグレ人民解放戦線の3党とともに、与党連合エチオピア人民革命民主戦線を構成し、その中でも最大勢力を誇る。

エチオピア労働者党
エチオピアの旧政党。1984年から1990年まで唯一の合法政党として国家を支配した共産主義政党。1970年代後半、反政府武装勢力の活動が活発化したことを受け、全ての国民を統括する能力を持った政党設立の必要性に迫られた。そして1979年12月、メンギスツはエチオピア労働者党設立準備委員会(COPWE)の設置を宣言した。

アムハラ民族民主運動
Amhara National Democratic Movement)はエチオピアの政党。略称ANDM。1989年、ティグレ人民解放戦線(TPLF)を中心に結成されたエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)にオロモ人民民主機構(OPDO)、南エチオピア人民民主戦線(SEPDF)と共に加入。2005年8月の州議会選挙では、アムハラ州議会の294議席中188議席を獲得した。

南エチオピア人民民主運動
Southern Ethiopian People's Democratic Movement)はエチオピアの政党。略称SEPDM。2005年5月15日に行われたエチオピアの国政選挙(en:Ethiopian general elections, 2005)ではエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)の一部として参加し、EPRDFは527議席のうち327議席を占めた。2005年8月の州議会選挙では、南部諸民族州議会の348議席中271議席を獲得した。


エチオピア・エリトリア国境紛争
アフリカのエチオピア、エリトリア間で行われていた戦争のことである。紛争とあるが、互いの首都を空爆しあうなど戦争と表現しても良いほど事態はエスカレートしていた。両国とも経済規模が小さい貧国であり、身の丈に合わない戦争の継続が地域の破綻を招くとして、開戦以降、国際連合や当時のアフリカ統一機構(OAU)などが積極的に仲介に乗り出している。

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第一次エチオピア戦争
First Italo−Ethiopian War)とは、1889年から1896年にかけて戦われた、エチオピア帝国とその植民地化を図るイタリア王国との戦争。エチオピアに対する当時のヨーロッパ側からの俗称であるアビシニアを用いて、(第一次)アビシニア戦争とも呼ばれる。

第二次エチオピア戦争
1935年から1936年にかけて起きたイタリア王国とエチオピア帝国の戦争。第一次エチオピア戦争で敗れたイタリアは、再度エチオピアの植民地化を意図して侵攻を行い、短期間の戦闘をもって全土を占領した。


東アフリカ大旱魃
2003年から続く東アフリカのケニア、ソマリア、エチオピアとジブチの一部で起きている大規模な旱魃、またはそれによる旱害。南部一帯が干上がっており、深刻な食糧難に陥っている。この地域では例年、10月から11月と3月から5月が雨期にあたるが、2003年からはまとまった雨がほとんど降っていない。原因としては地球の温暖化が指摘されており、旱魃の間隔が短くなっているという。


オガデン戦争
Ogaden Warは、1977年から1988年にかけてエチオピアとソマリアの間で起こった戦争。ソマリアの主な民族であるソマリ族は、ソマリアの他にケニア東部、エチオピアのオガデン、ジブチに居住している。これら全てを統合した民族国家を建設しようとする大ソマリア主義が台頭した。特にエチオピアのソマリ解放運動はソマリアに支援されて1977年には激化の一途をたどった。同年8月にはエチオピアとソマリアとの間に紛争が発生し始め、11月には運動によるオガデン地方分離独立の危機も発生した。エチオピア軍はソマリ解放運動への支援を絶つためソマリアとの直接対決を決意、1978年2月に開戦した。

オガデン民族解放戦線
Ogaden National Liberation Front、とは、エチオピア東部で活動するイスラム系武装反政府組織。ソマリ人を主体とした。英文の略称はONLF、ソマリ語の略称はJWXO。エチオピア東部のソマリ州オガデン地方の分離独立を訴え、エチオピア軍との武装闘争を繰り広げる。エチオピア軍が、隣国のソマリアがらみの対テロ対策(対テロ戦争)でアメリカ軍などの強力なバックアップを受けているのに対し、民族解放戦線側の支援はイスラム系の団体などからの支援のみで軍事的には著しく劣勢。

アドワの戦い
1896年3月1日にエチオピア軍とイタリア軍がエチオピアのティグレ州アドワ近郊で戦った会戦。この戦いの敗北が、第一次エチオピア戦争におけるイタリアの敗北を決定付けた。19世紀にアフリカの大部分はヨーロッパの国々により植民地化され、リベリアを除くと独立国はアフリカの角に隣接するエチオピア帝国だけであった。イタリアはこの争奪戦に出遅れ、資源に乏しいエリトリアとソマリアを領有するに留まっていた。この2つの植民地の間にあったのがエチオピアであり、更なる植民地拡大のため、エチオピアへの侵略が開始された。両軍はティグレ州で対峙した。

国際連合エチオピア・エリトリア派遣団
United Nations Mission in Ethiopia and Eritrea,UNMEE)は国際連合平和維持活動の一つ。エチオピア・エリトリア国境紛争の停戦合意を受けて、停戦監視などの実施を任務とする。1998年に勃発したエチオピア・エリトリア国境紛争は、国際的な調停努力の甲斐もあって、2000年5月に停戦合意された。これを受けて2000年7月31日に国際連合安全保障理事会決議1312号が出され、国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)が設立された。

アフリカ分割
1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて、ヨーロッパの帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化の過程のこと。1912年にイタリアがリビアを獲得した事により、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7か国によって分割支配された。


ベタ・イスラエル
(Beta Israel、とはエチオピアに住むユダヤ人の呼称。エチオピアの非ユダヤ人からはファラシャと呼ばれるが、ゲエズ語では「流浪民」・「異邦人」の意味で、ベタ・イスラエルからはファラシャという呼称は「侮蔑的である」として忌避される。エチオピア国内のベタ・イスラエルの85%以上にあたる110,700人を越える人々が帰還法によってイスラエルに移住した。帰還法は、ユダヤ人を両親や祖父母に持ち、或いはユダヤ人の子孫である者はイスラエルに居住でき市民権を得られる、という法律である。


ソロモン作戦
Operation Solomon、は、1991年5月にイスラエル空軍などの協力によって行われた、ベタ・イスラエル(エチオピアのユダヤ教徒たち)をイスラエルへ短時間で大量輸送して脱出させる作戦。


中央革命捜査局
Central Revolutionary Investigation Department,CRID)はエチオピアの秘密警察組織。軍とは別の指令系統を持ち、本部はアディスアベバに置かれている。また、エチオピア当局の指導の下、ソマリア領内でも活動を行っている。


■経済
1970年代、1980年代の飢餓(エチオピア大飢饉)以来、一時食糧自給を達成した時期を除き厳しい経済状態が続く。現在では成長率約8%(2001年)を記録し、2008年はアフリカの非産油国第1位の成長率を示すなど好転しているが、依然として世界最貧国の一つである。東アフリカの水貯蔵庫と言われるほどに河川が存在するが、灌漑には1.5%のみ、発電には1%しか使われていない。

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■国民
エチオピアにはアラブ系や非アラブ系の黒人など80以上の異なった民族集団が存在する。黒人が人口の大多数を占め、コンソ族は約30万人いる。

■言語
エチオピアの言語はアフロ・アジア語族が主である。連邦の公用語はアムハラ語であり、それと別に各州は州の公用語を定めることが憲法で認められている。中等教育以上では英語が教育言語となっているが、就学率が低いため、国民の大多数には通じない。

■宗教
エチオピア正教会が50%、イスラム教が 30%、他に、アニミズム、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教など。資料によっては、ムスリムの方が、エチオピア正教会の信徒よりも多いとするものもある。


■食文化
エチオピアの主流の文化であるアムハラ文化において、主食はテフなどの穀粉を水で溶いて発酵させ大きなクレープ状に焼いたインジェラであり、代表的な料理としてはワット、クックル(エチオピア風スープ)、トゥプス(焼肉・炒め肉・干し肉)などがある。辛い料理が多い。

インジェラ
インジェラは、エチオピアで主食として食べられているクレープ状の食品。テフの粉を水で溶いて発酵させ、薄いクレープ状に焼いたもの。色は茶色がかった薄い灰色で「雑巾のよう」と形容される独特の香りと酸味があり、鉄分が豊富。 発酵によってできた気泡で、スポンジのような弾力がある。唐辛子で煮込んだワット(辛いシチュー)などと一緒に食べる。


アベベ・ビキラ
Abebe Bikila, 1932年8月7日 - 1973年10月25日は、エチオピア出身の陸上競技(長距離走)選手で、オリンピックではマラソンの種目で史上初の2大会連続優勝を果たし、2個の金メダルを獲得した。オロモ人である。家は貧しい小作農で、家族は当時の国教であるキリスト教コプト派(エチオピア正教会)の信者でもあった。小学校には1年通っただけで早くから家業の手伝いをしていた。19歳の時、皇帝ハイレ・セラシエ1世の親衛隊に入隊し、アディスアベバの部隊で訓練を受けることとなる。10ヶ月の訓練期間の後、当時エチオピアが参加していた国連軍として、朝鮮戦争に従軍するため釜山まで派遣されるが、ほどなく休戦となり帰国した。帰国後、親衛隊で訓練の一環として各種スポーツのトレーニングを受ける。その中で、足の速さが上官から注目されるようになる。1957年5月、四軍(陸海空および親衛隊)の陸上競技大会に親衛隊から選抜されて出場、マラソンで2位となり、ローマオリンピックの陸上強化選手に選ばれる。

リヤ・ケベデ
Liya Kebede, 1978年1月3日 - は、エチオピア・アディスアベバ出身のスーパーモデル・女優。現在、最も成功しているアフリカ系ファッションモデルの一人。ニューヨーク在住。アディスアベバでリセに通っていたとき、フランスのエージェンシーにスカウトされる。エチオピアでショーに出たときは、自分の靴でランウェイを歩いたという。

ギルマ・ウォルドギオルギス
(Girma Wolde-Giyorgis Lucha、1924年12月 - )は、エチオピアの政治家で大統領。アディスアベバ出身。キリスト教徒。エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)所属。帝政時代のハイレ・セラシエ1世治世の1941年に下院議員、1961年に下院議長に就任した。

メレス・ゼナウィ
Meles Zenawi Asres、1955年5月8日 - は、エチオピアの政治家、首相、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)書記長。1991年から1995年の間、暫定大統領を務めた。アディスアベバ大学医学部中退。1975年に反政府勢力ティグレ人民解放戦線 (TPLF) を結成し、議長を務める。1989年5月には他のゲリラ組織とともにエチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) を結成し、書記長に就任。1991年5月にはメンギスツ・ハイレ・マリアム率いるエチオピア労働者党独裁政権を倒し、7月23日に暫定大統領となる。

メンギスツ・ハイレ・マリアム
Mengistu Haile Mariam, 1937年 - は、エチオピアの政治家、軍人。エチオピア人民民主共和国の初代大統領、エチオピア労働者党党首を歴任。1974年から1991年にかけて数十万の反対派を粛清し、戦争や飢餓の拡大などにより国内から100万人の難民を出した独裁者である。エチオピア南部のカッファ州(当時。ケファ州、ケッファ州とも転写される)の貧しい家庭の出身。出身部族は明らかではないが、同州南東部のクロ語(ダウロ語)あるいはその近縁のコンタ語を話す少数部族の出身とする説が有力である。

ツェガエ・ケベデ
(Tsegay Kebede (Tsegaye Kebede) 1987年1月15日 - )はエチオピアの陸上競技選手。専門は長距離走・マラソン。2009年12月6日の第63回福岡国際マラソン選手権大会では、自己の記録を更新し2時間5分18秒の大会新記録で連覇した。 2010年4月25日のロンドンマラソンでは時折雨が降る天候の中、エマニュエル・ムタイ以下を下し2時間05分19秒の記録で優勝した。

ファツマ・ロバ
(Fatuma Roba, 1973年12月18日 - )は、エチオピア・アディスアベバ出身の女子マラソン選手である。1990年代中盤から2000年代前半にかけて活躍した。1996年7月28日のアトランタオリンピックにおいては、ロバは下馬評にも挙がらないほど無名の選手であった。レース中盤(19km付近)でロバが一人先頭集団から抜け出しトップに躍り出て、その後独走状態となったものの、誰もに「無謀な飛び出しでは?」と思われていた。しかし、ロバは2位以下の選手との差をぐんぐん引き離し、そのまま逃げ切って金メダルを獲得。

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ゲザハン・アベラ
(Gezahegne Abera、1978年4月23日- )は、エチオピアの陸上競技選手。2000年シドニーオリンピックの金メダリストである。アベラが最初に国際大会に登場したのは1999年のロサンゼルスマラソンであった。この大会でアベラはケニアの3人の選手に次いで4位でフィニッシュ。アベラは現在に至るまでオリンピックと世界選手権の男子マラソンを制した唯一の選手である(女子マラソンではロザ・モタが達成)。2003年世界陸上選手権にも出場したが、途中棄権している。

シレシ・シヒネ
(Sileshi Sihine, 1983年1月29日 - )は、エチオピアの陸上競技選手である。シヒネはハイレ・ゲブレセラシェに影響され陸上をはじめ、ジュニアの頃から早くも頭角を現していた。2004年アテネオリンピックと2008年北京オリンピックの男子10000 m銀メダリストである。

ティルネシュ・ディババ
(Tirunesh Dibaba、1985年10月1日 - )は、エチオピアの陸上競技選手である。5000mの世界記録保持者。ディババは、オリンピックで2個の金メダルを獲得しているデラルツ・ツルのいとこであり、姉のエジェガエフ・ディババもアテネオリンピックの10000mの銀メダリスト、妹のゲンゼベ・デイババも陸上選手である。

ベライン・デンシモ
(Belayneh Densamo 、1965年6月28日 - )は、エチオピアの陸上競技選手である。1988年のロッテルダムマラソンで史上初めて2時間7分の壁を破る、2時間6分50秒の世界最高記録を達成した。この記録は1998年にブラジルのロナウド・ダ・コスタによって破られるまで保持し続けた。

ミリオン・ウォルデ
(Millon Wolde、1979年3月17日 - )は、エチオピアの陸上競技選手。トラック種目、クロスカントリーなどで活躍した選手で、2000年シドニーオリンピックの5000mでは金メダルを獲得した選手である。22歳になった2000年のシドニーオリンピックで、ウォルデは最高結果を出す。誰も予想しないほど遅いペースの中、ウォルデは辛抱して好機を待った。そして残り200mとなったとき前にいた選手たちを抜き去り13分35秒49という非常に遅いタイムで2位に入ったアルジェリアのアリ・サイディ・シエフ(Ali Saidi-Sief)らをおさえ金メダルを獲得した。

 

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