文月/7月/JULY
大学生の憂鬱、就職予備校と化した大学の罪 就職が決まった決まらないなど本来在学中にあくせくする問題ではなく、卒業してから考えるべき問題であるはずなのに強迫観念が支配する世相。先の道や就職が決まらない卒業生を国がせめて1年ぐらい補助すればいいと思うのだけれど現実は親と教師と国が束になって強迫観念を与えるしまつ。果ては焦りと妥協でブラック企業の餌食になる若者も多いはずです。 進路を考え直したり、迷いの中から脱せないのは若者の特徴で、4年間学んだからといって答えを出せない学生がいても当然です。ドロップアウトを恐れずに1年か2年、ハードでないバイトでもしながら社会を見つめる時間はまさに今の複雑で歪みのある時代には必須ではないかと思うぐらいです。 不要の原発や道路に巨額の税金をつぎ込むのなら、未来を背負う若者たちに投資するのが賢い税金の使い方です。大学生のみならず全ての若者に、立ち止まって考える時間と選択肢の幅を与えたなら、夢や希望といった消滅寸前の素敵な言葉も復活すると思うのです。 考え直しガム そして不思議、ガムを噛み始めるとみんな立ち止まってしまうのです。」「くちゃくちゃと口を動かしながら、立ち止まって考え始めます。それぞれに「自分の生き方はこれでいいのだろうか?」「考え直す余地がいっぱいあるんじゃないだろうか?」可愛い少女が配っていたのは「考え直しガム」・・・ 10年前のメモにあった夢の話です。「考え直しガム」があればいいなと今も思います。そして少女にはもう一つ新しいガムを配って欲しいなと思います。それは「好奇心ガム」噛めば噛むほど好奇心が湧いてくるというガム。人のこと、社会のこと、芸術や科学、自然や動物の不思議さにどんどん興味が湧いてくるというガム。でも誰か悪いやつが少女に化けてとんでもないガムを配ったに違いありません。 噛めば噛むほどお金の事を考える「金金ガム」そして他者を顧みない「無関心ガム」・・・この10年の変化を考えると本物の少女が配ったガムは少な過ぎたんだろうなと思います。でも少女は今もいてガムを配り続けています。悪いガムを食べた人のために。「考え直しガム」は「解毒ガム」でもありますから。 収束どころか、更なる災害が起こらないか心配です。 恐ろしい環境破壊だと言う事も分かります。事故から2年以上経って汚染水の深刻度は増すばかり。加えて破損した燃料プールの安全確保も出来ていない現実。何らかの要因で燃料プールの水が抜ければ致命的な結果になる事は多くの人が理解していると思いますが、全体としての危機感は弱い感じがします。 今も続く原発事故の直接的な危機。そして事故によって生活をめちゃくちゃにされた福島の人々の現実は補償も配慮もおぼつかない状態です。しかも未だ肝心の事故原因さえ明らかにされていませんし、電力不足の脅しが根拠のないものだということもバレています。他にも原発にかかる暗雲はいくつもあります。そのような中でまだ原発に固執する神経と固執しなければならない事情があるとしたら、それはいったい何でしょう。利権集団、利権構造がいかに強力、巨大であっても、この馬鹿げた流れはいったいそれだけの問題なのかとの疑問が湧いて来ます。 東海村、村上村長の思い これを解決しないと、民主化も新しい産業の発生もない。原子力業界は強大な権力集団で、民主主義に反するものだ。福島であれほどの事故を起こしながらも、そういう権力集団があるために方向転換できない。最後は自滅に向かっていくと心配している。 日本の将来を考えて、言うべきことは言わなくてはならないと危機感を持っている。」とも語りましたが、全くその通りだと思います。1人1人が未来に危機感を持って声を上げなければ、狂っているとしか言いようがない利権集団は福島原発事故の反省も未来への責任感もなく暴走するのは目に見えています。すでにつくり出してしまった膨大な核廃棄物の処理だけでも重すぎる負担があるのですから、まともな人間ならばだれでもまず一刻も早く廃炉への道筋を考えるはずです。 ドイツの環境教育施設 ナチス政権下の苦難の時代を乗り越え民主主義の社会を求める教育を展開し始めましたが1970年当時の技術信仰の時代に学校用植物園が次々と廃止され、それでも生き残った筋金入りの存在です。その後の自然を見直す時流とともにビオトープや遊び、技術、芸術などの要素を盛り込んだ授業には世界中の教育関係者の関心を呼んでいるそうです。 コンセプトの全てが今の日本の教育に欠けているものだと思いますが、特に「授業は、自然からの驚きに対していつも開かれていること」というコンセプトは全ての教育の真髄、根底になければならないものではないでしょうか。自然を素直に見つめさえすればその驚異とともにかけがえのなさが分かります。自然環境を壊滅させるかも知れない原発やもう一つの環境破壊である戦争につながるかも知れない改憲に対して誰もが反対、阻止しなければならない問題である事が分かるはずです。動物や植物に対しての視点と科学技術、芸術などの創造の全てはつながっていなければならないものだと思うからです。 明日は投票日。社会意識は、全ての命あるものと他者への関心を持つことではないでしょうか 自分だけよかったらいいと言う考え方は社会の不条理や不正から目を背けることですが、それは社会の歪みを増長させるばかりか結局は自身に降りかかっても来ます。仮に自分だけが逃れたとしてもそのような生き方は人間として気持ちのいいものではないはずです。しかも原発事故や戦争のように自分だけ逃れるわけにはいかない大問題もあります。 生きる中で決定的な重要問題ですが、身の回りから始まった無関心は生死を左右するような問題であっても同じ次元の無関心で臨んでしまう。それが何より恐ろしいことだと感じます。可愛いこどもたち、動物たち、美しい自然、言論や思想の自由。絶対に守りたいもの、変えたくないものの多くは誰もが共通して願うことだろうと思います。憲法を変える危険性。原発を動かす危険性はまさしくその絶対に守りたいもの、変えたくないものを壊してしまう危険性です。 どちらもいったん起これば不可抗力になってしまうのは過去の戦争や原発事故がはっきりと教えてくれています。事が起こればゆたかさも自由も一瞬にして消し飛んでしまいます。命や自由より大切なものなど存在しないと僕は思います。明日の選挙にはそれだけを考えて臨みます。
右翼、左翼の思想ではなく、ヒューマニズムの時代 「アメリカと仲良くすることが日本の国益につながる」という政治家や官僚の言説がまかり通っていますが、国益は、目先の損得とは全く違う次元で構想されるべきでしょう。大国の陰に隠れてものを言うような国が、他国から尊敬されるはずがありません。決定的だったのは、イラク戦争への加担です。真っ先に開戦を支持し、協力した。そこには日本独自の判断なんかみじんもないし、その判断が妥当だったかの検証すらいまだに行われていません。」
それが大変な問題とされない社会になっている。しかも経営者は涼しい顔をしているのです。本来なら、公正な社会の実現を求める左翼運動が支持を広げるチャンスなんでしょう。しかし現実には、もはや左翼は消滅したも同然です。」・・・「どうすれば「権力を取らずに社会を変えられるか」という問題意識は生まれています。反権力ではなく、非権力・無権力の立場から新しい言葉、新しいスタイル、新しい社会運動の模索が始まっています。」
でもどうすれば・・・遠回りだけれど1人1人が「賢く」なるしかないのだろうと思います。教育が普及していない国はまず教育の充実。日本のように教育が普及している国ならば、その内容をもっと人間として「賢く、やさしく」なるような教育本来の目的に立ち返る必要があると思います。 競争のための知識の詰め込み教育が人間形成において役立つどころかその逆であることは現代社会がいやというほど証明しています。国民は非権力であり無権力ですが、まともな施政者を選ぶ権利はあります。多くの国民が正しい判断力、思考力を持ちさえすれば権力はそれに見合ったものになるはずです。そんな時代が来るはずがないと言われても、未来を信じるならそれしか道がなく、そう思う人が一人また1人とその道へ加わることを信じるしかありません。 戦争や争いのない世界。マララ・ユサフザイさんの崇高 「私は誰にも敵対はしない。全ての子どもたち、タリバーンやすべての過激派の息子たちや娘たちに教育を受けさせたい。」「全ての人々に平和と愛を。暗闇を見る時、光の重要さに気づく。沈黙した時こそ、声の重要さに気づかされる。」・・・平和であるということの尊さ。自由であるということの貴重。沈黙するということの闇。複雑で深刻な国情に苦悩し、罪のない人々が命を奪われ恐怖する国が世界には幾つもあります。 それでも勇気ある人たちがヒューマニズムに突き動かされて命がけの抵抗を続けています。マララさんの国連演説要旨を読んで、涙が出て来ました。人間とは崇高へと向かって生きなければならないものなのだと思います。戦争や争いのない世界へ。日本だって平和に対する直接的な暴力や破壊行動はないものの、自由に対する、そして命に対する大きな暗雲はあります。原発稼働と平和憲法の改憲への動きです。マララさんのように言論の自由さへ補償されない世界で命をかけて戦う人がいます。なのに日本は維持しようと思えばできる平和と安全を自らの手で放棄しようとしています。気違い沙汰です。 マララさんは「世界中の姉妹たち、勇敢になって。知識という武器で力をつけよう。連帯することで自らを守ろう。」「本とペンを手に取ろう。それが一番強い武器。一人の子ども、先生、そして本とペンが世界を変えるのだ。教育こそがすべてを解決する。」国連での演説をこうしめくくりました。私欲と短絡からヒューマニズムを忘れた日本の政治家たち、彼らを正すのは国民1人1人の意識しかありません。本とペンという最強の武器を誰もが使いこなせるこの日本では平和と人権を守るために「不可能」の文字はないと信じます。 何でもカートに入れる時代。ヤバくないっすか。 家具やカーテン一つだって、実物を見ないとどうかなと思うのだけれど、そこまでのこだわりはないのでしょう。それにしても骨董品や絵画、楽器などなんでもカートに入れる感覚そのものに抵抗を感じます。ネットではないけれどスーパーの食品売り場で少量の買い物を移動式のカートに入れてレジに並ぶ人。大量であるとか、老人、病人ならともかく、元気な若者や主婦、屈強なおっさんに至ってはそのずぼらな姿に「それって、ヤバくないっすか」と思ってしまいます。 みんなが心配しなければ、そしてみんなが怒らなければ 道徳心や良心がないのかと思うほどの盲進ぶりに不安を感じないわけには行きません。戦争を誘発する可能性のある国防軍構想、安全があり得ない事が分かっている原発の再稼働。食品自給率が39%しかないこの国の現状をもってのTPP参加。「日本を取り戻す」とかわけのわからない事を連発しているけど、いったい何から日本を取り戻すのだろうと情けなくなります。 「日本を置き去りにする」「日本を混乱させる」「日本を放棄する」「日本を逆行させる」などと言うのなら意味はわかります。恐ろしい戦争、恐ろしい原発事故、農業を始めとする国内産業の破壊。アベノミクスによって海外の投資家と資本家が巨額の資産をふやしたのは事実だし、ブラック企業がやりたい放題やれるのも事実だけれど、国民の暮らしがよくなっているとは思えません。このままいけば更なる格差の広がりも容易に予想できますし、もう十分に溜まっている様々な社会矛盾がいっそう大きくなる事も予想できます。 ほんとうにみんながこの日本を心配しなければいけないと思います。戦場に若者を立たせるなんて身震いがします。更なる原発事故にも悪寒が走ります。食の安全だって脅かされます。言いたい事が言えない国になってしまえば、その時は手遅れです。今、1人1人が怒りを持って政治に向き合わなければ、何が正しくて何が間違っているかをきちんと考察して判断しなければ、大変な事になってしまいます。 スタンリーのお弁当箱から漂ってくるおいしそうな香りと願い 子供の頃に観た映画が生涯自分の考え、感性の基本になることだってあります。児童映画を中心に監督、脚本を手がけるアモール・グプテ監督は「恵まれない子に映画の魅力を伝える団体」の会長もしていてその精神をうかがい知る事ができます。ヨーロッパを中心に芸術的、社会的な映画が世界中の国でつくられています。ハリウッド映画にまけないぐらい興行成績が好調な日本映画ですが、一部の作品をのぞけば、あまりにも魂のない映画が多すぎるような気がします。商業主義が全てでは困ります。娯楽映画と言えども伝えるもの、心に残るものがなければならない、それが映画だと思うのです。いい映画には間違いなく想像力を高め、感性を培う力があります。 若者が夢を持ち、大人はいきいきと、老人が生きて来てよかったと思える社会を。 原発を必要と唱えるプロパガンダが虚構であり、日本社会に巣くう多くの歪みの源であったことも事故後の経緯を見れば浮上します。僕もそうですが原子力の平和利用と言う言葉にどこか下駄を預けて来た感のある人は深く後悔したはずです。数十年前から原発の危険性に警鐘を鳴らし続けて来た人たちが少数であれいたのですから。1人1人の無知や無関心が集積すれば恐ろしい事、取り返しのつかない事が起こりえると教えてくれたのが原発事故です。 原発以外にも多くの矛盾や理不尽を抱える日本。よほどのエゴイストか金の亡者でない限り、今の日本が先進国、文化国家として誇れるはずがありません。若者が夢を持ち、大人はいきいきと、老人が生きて来てよかったと思える社会を当たり前のように目指し、演出するのが政治の役目です。そのための政治家を選ぶのは国民の役目。1人1人が社会意識を持つ事しかありません。 どんな職業、どんな年齢であってもまずヒューマニズムに根ざした判断さえすればほとんどの問題に対して過たないだろうと思うのです。2011年11月から原発事故後に起こった様々な意見や問題を一過性にしてはいけないと思い新聞記事を中心に記録を残しています。昨夜読み返して見て、原発は止めるしかないとつくづく思いました。 より人間らしい社会のために、自民と維新を選択肢から外す 結果はいつも同じ。一部世界、人間が私服を肥やし、多くの人は関係なく、弱者はより追いつめられる。構図は決まっています。福島原発事故で苦しみ続ける人の救済の意志、行為を見ても今の政権には心がありません。沖縄問題もしかり。金権主義が増長し、更なる原発事故が起こればどうなるでしょう。 改憲の流れが言論の自由に対する圧力や戦争への道筋につながるとしたらどうでしょう。もしほんとうに経済が向上するとしても比較できるような問題ではありません。ましてやお金のバラマキで日本経済がよくなるなどとは誰でも疑問をもつはずです。愛する人を思うなら、この国の未来を少しでもよくしようと願うなら、1人1人の選択と一票はとても重いものだと思うのです。 金だ金々 金々金だ・・・1925年の「金々節」の興隆 自分だけがよかったらいいと言っても結局は弱肉強食で人間性を喪失したかのような不埒な企業や原発村に象徴される組織にお金は集中します。多くの人は弱者だからこそ、この閉塞感があります。グラスツリーと言われるアベノミクスの経済活性法。シャンパンなら上に注げばあふれて下層へと移行しますが、経済はそんなに単純とは思えませんし、何より上層を構成する大企業や大資本家の性質を考えればなおさらです。 経済格差がますます広がり、弱者が泣きを見るのは威勢のよかった小泉政策のその後と同じになるでしょうが、積み重なる分ダメージは大きくなります。原発と言う国の命運を左右する大問題すら人ごとの風潮。そろそろお金以上に大切なものが幾つもある事を思い出さなければ、美しい国どころかますます歪んだ国になってしまいます。 ほんとうの教育を感じた言葉 親が子に教えなければならないこと、教師が生徒に語らなければならないこと、先輩が後輩に伝えなければならないこと、人とは、愛とは、人生とは・・・素晴らしい師匠にめぐりあえたこの若者のように、愛は人をやさしく賢くするものだとつくづく思います。それが今の日本に欠けているものだとしても、1人でもそのような大人が増え、若者が増えれば世の中はいい方向へと進むでしょう。 若者の言葉のつづきです。「師匠ともうお会いできない、お話しできない。その現実がただただつらく悲しい。同時に、心から思います。人生最初の仕事場が師匠のもとで良かった、と。一人の人間として、社会人として、育てて下さった人生の師匠。教えて頂くことがまだたくさんあったはず。どこかで見て下さっている師匠に恥ずかしくない人生を歩んでいきたいと思います。」 |
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。