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如月/二月/FEBRUARY


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私自身が勇気を出す。140年前のシッティング・ブルの願い。
2013/02/24  「我々にとっての戦士とは、お前さんたちが考えるような、ただ戦う者ではない。本来誰にも他人の命をとる権利はないのだから、戦士とは、我々のためにあり、他者のために犠牲となる者だ。その使命は、歳取った者やかよわき者、自分を守れない人々や将来ある子供たちに注意を払い、守りぬくことにあるのだ。」スー族の偉大な戦士シッティング・ブルの言葉です。白人の侵略に対する戦いの中で語った言葉です。彼のような気高い心は持てないけれど言葉の中の「戦士」を「人間」と言う言葉に置き換えれば・・・「我々にとっての人間とは、お前さんたちが考えるような、ただ戦う者ではない。本来誰にも他人の命をとる権利はないのだから、人間とは、我々のためにあり、他者のために犠牲となる者だ。その使命は、歳取った者やかよわき者、自分を守れない人々や将来ある子供たちに注意を払い、守りぬくことにあるのだ。」・・・身につまされる思いはあります。戦争、原発、多国籍企業の非人間性、金拝主義、子供たちの未来や弱者への配慮のなさ。スー族の勇士のようにはいかないけれど勇気と叡智を少しでも学ぼうと思います。


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イタリアと日本は似ている?
2013/02/22  日本在住のイタリア人建築家ファブリツィオ・グラッセッリさんは借金大国になったイタリアについて「イタリア人は日本で思われているより真面目でよく働くんですよ。平均労働時間はドイツや英国より長く、堅実にお金を貯めて来た・・貧乏しない程度に家族と暮らせればいいと思っている」・・・「だけどそうして納めた税金は無駄な公共事業に費やされ、政治家の背後にいる利権集団やマフィアの懐に入った。国は巨額の借金を抱えてしまったのです」(1/15日朝日新聞朝刊、耕論より)。日本の構図もイタリアとよく似ています。無駄な公共事業、原発にまつわる巨大な利権集団。約1兆5800億円とも見込まれている除染費用は新たな利権を生んでいます。危険を覚悟で生活のために原発の作業にあたる人たちの日当をピンハネするとは何事でしょう。原発作業員の人たち、原発事故で被害に苦しむ人たちに対する冒涜だと思います。

同じく利権背景を感じるがれき処理の問題。原発にまつわる問題には国民の関心と監視がなければ大切な税金が闇に消えてしまいます。原発の再開をもくろんでいたベルルスコーに首相に「原発にさよならを言わなければならない」と言わしめたイタリアの世論。エネルギー自給率の低いイタリアでさえの国民の意識。チェルノブイリ事故当時イタリア保健相のデガンは「どんなに低レベルの放射線でも、人体にまったく影響しないということはない。」と言う保健省の科学者の意見を聞き入れ食品に対する厳重な処置を取りました。日本とイタリア、似た部分もあるけれど、違いは大きいようです。グラッセッリさんの引用記事の最後に「見ざる聞かざる言わざるを続ければ日本はどんどんダメになる。勇気を持って異論を唱えなければ」と。そしてワーワー騒ぐばかりのイタリア人を「空回りのバカ」と呼ぶなら日本人は「思考停止型バカ」だと思いますと、語っています。不都合な事実に向き合わない。他者や社会に対する無関心。それは思考停止と言うより「思考放棄」だとも思えます。

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自分を変えずにいるために、変え続ける。
2013/02/21  学生時代に友人たちと何度か議論したテーマ「自分を変えて生きることと、変えずに生きることはどちらが難しいか?あるいはいいのか」と言うのがありました。当時はみな正義感も強く、人間はこう生きるべきだとかこうあるべきだとかそれぞれ夢や理想を持つ中での話です。僕自身は「自分を変えずに生きるほうが難しい」と意見しましたが、その時は意見が二分したことを覚えています。あれから40年余りが過ぎ、思うのは「自分が変わらないために、自分を変え続けなければならなかった」現実です。正確に言えば「自分の信念を変えずに生きるために、自分の欠点や弱点を少しずつ変え続ける」ことだと思います。

自分を変えつづけることは、社会や時代と言う大きな流れの中で小さな船を漕ぎ続けることに他ならないような気がします。うねりや流れのなかでなんとか針路を維持するための努力、手を休めれば不本意な場所へと流されてしまう、願ってはいない場所に流れ着いてしまうことへの抵抗のようなものだと思うのです。「人間は理由もなしに生きて行くことはできないのです」とアルベール・カミュは言いました。その理由はそれぞれあるでしょうが、それぞれが持った若き日の心、純粋な情熱が描いた「人間らしい人間」の像を壊さないよう生きることはその理由そのものだと思うのです。


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本当にその通り。
2013/02/19  コラムニストの天野祐吉さんが朝日新聞の(CM天気図)に書いていました。「中国でパナソニックやシャープの空気清浄機が売れているんだそうな。それも去年の2倍から3倍という売れ行きらしい。・・・生活は豊かさの“最上限”を求め、生存は安全の“最低限”を求める」と言ったのはだれだったか。いまの世の中、生活の最上限を求めて走り続けた結果は、生存の最低限がおびやかされるという事態になった。・・・それにしても、空気清浄機なんて商品が売れる時代は決していい時代じゃない。このままいくと、電池式防毒マスクとか、空気汚染度付き寒暖計とか、そんなマイナス型の商品しか出てこないような世の中になってしまう。・・・」まさにその通りです。物質的な豊かさを求め猛進する中国。猛進して来た日本もまだ止まらない。ガイガーカウンター付きの携帯が開発されているとの話もありましたが、そんな商品が出る前に原発との縁を切らなければ浅はかに過ぎます。有害な「PM2・5」も問題だけれど、放射能汚染の怖さについてももっと事実を知らなければならないと強く思います。原発は経済至上主義の象徴とも呼べるもので、脱原発は命と未来を守ると同時にこの閉塞した、歪んだ社会構造を変える第一歩だと思うのです。

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考える権利
2013/02/17  「考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです」・・・とは古代エジプトの著名な女性の数学者・天文学者であるヒュパティアの言葉です。「考える権利」それは人間として「考える義務」と言ってもよいかも知れませんが、2000年前のエジプトで民衆に対して「一人一人が自分の頭で考えてほしい」と言うヒュパティアの思いが伝わって来ます。政治にしても宗教にしても思考を人任せにしてしまえばどんな恐ろしいことだって起こりえます。正しいにせよたとえ間違っているにせよ、一人一人が自分の頭で考えれば極端に偏った政策や観念は生まれないだろうとは思います。事実を知ること、正しく考えるには出来る限り多くの事実を知り、客観的な視点が要ります。もし情報量が少なければ想像力を最大限に働かさなければなりません。

想像力の源は他者に対する愛情ですから、日頃からさまざまなことに思いを馳せる習慣はおおいに役立ちます。自分の、そして子供たちの未来を左右する原発の問題。教育の問題。非正規雇用の問題。医療や福祉や介護の問題など本当にたくさんの問題がよく議論されず、よく考えもせず一部権力者や政治家の「小さな頭と心」で判断され実行されて来ました。理不尽や矛盾が大きくなるのは必然的なことだと思います。「一人一人の考える権利」は保障されています。一人一人が小さな哲学者になり、どんな小さな問題にも、大問題にでもその意識の光をあてるような社会になれば悪者が好む闇の部分はどんどん小さくなり、やがていつかは消え失せるに違いありません。

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古き建物の味わいと存在
2013/02/16  久しぶりに京都の町を歩きました。烏丸御池界隈を少し歩くと古い建物に出会います。表通りのビル街に混じるレンガや石造りの雰囲気ある建物。明治か大正の建築だと思いますが、それは下町の面影が残る裏通りにも点在していて町の魅力を支えています。文化会館や商業施設などに内部は使われていますが、最近の建築に比べればその格調やデザイン性の高さが際立っています。次々と建てられるビルを観ていると、技術や感性の退化なのか、建築コストの問題なのか分かりませんが質の違いに愕然とします。味のある建築、情緒のある街並は人間の心を豊かにします。

ただ歩いているだけで、ただ観ているだけで得られるものがあります。京都の町もずいぶん破壊されましたが、それでも古き良きものを守ろうと尽力している人も少なからずいて感謝です。いったん壊してしまうと取り返しがつかない町や建築。それは視覚的、物理的要素に加えて長い時間の中で流れたり貯まったりした精神が共にあって、それはもう2度と再現できないものだからです。行き過ぎた商業主義は古いものを不利益なものととらえ利益率の高いものへと変換しようとしますが、人間にとって本当に不利益なのは商業主義がもたらす精神性の欠如です。町も建築もそこに住む人間の心が豊かで無ければ意味がないし、そしてまた心をいかに豊かにするかが環境づくりの主題であるはずなのですから。古い街並や建物には森や公園と同じ「癒し」の効果があることを行政や建築に携わる人間は忘れてはいけないと思うのです。

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隕石の脅威
2013/02/15  ロシアに落下した隕石のニュース。「地元報道によると、午前9時20分ごろに飛来した隕石の破片は数百キロの範囲に散らばったが、爆発の際の衝撃はすさまじく、多数の建物のガラスや扉が吹き飛ばされ、一瞬のうちに数百人が負傷。衝撃波で転倒した人も多数にのぼった(朝日新聞)」地球に落下する隕石の数は年間数千から1万と言われています。そのほとんどは海や人の住まない場所だと言いますが、怖い話です。今回の隕石はNASAによると大気圏突入前の段階で直径17メートル、質量1万トンだったと推定。隕石は直径が1〜10メートルだと、大気圏に突入した際に燃え尽きることが多いと考えられています。しかし、落下時の直径が50メートル級になると、広島型原爆千個分ほどの衝撃になり、中心部には直径数百メートルのクレーターを生じる、とも言われています。

大被害を出したシベリアのツングースカ隕石は1908年ツングースカ上空で直径100メートルの彗星とみられる物体が爆発、周囲の森林約2千平方キロがなぎ倒されました。近年のSF映画で地球に衝突しようとする天体に対して爆破などの方法で軌道を変えたりする話がありますが、現実にはどれだけの対処ができるのだろうと考えてしまいます。地震や津波などの自然災害に加えて宇宙と言う外部からの災害。科学技術が進歩した現代において、世界中の叡智を結集させればかなりの防災は可能だと思いますが、核とか原発とか、災いを自らつくりだしている現実はあまりにも馬鹿げています。自然の脅威、宇宙からの脅威は完全には避けようも無いことですが、戦争や原発事故のような人間がもたらす脅威に関しては「人類の意思」で防ぐことが出来るはずです。

 


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値上げ?盗人猛々しい電力会社
2013/02/14  辞書で引くと「盗人猛々しいとは、悪事を働いていながら、平然としているさま。また、それを指摘されると、開き直ったり噛み付いたりするさま」とあります。一部人間の我欲と浅慮で起こった悲惨な原発事故。その主犯である原子力村の住民。福島原発事故の責任を負うべき役人、電力会社、学者、マスコミなどの関係者の中で真摯に過ちを反省し謝罪した人間がどれだけいるでしょう。多くの原発事故被害者の救済も終わらない中、原発の輸出とか、再稼働とかおよそ人間としての心があるのだろうかと疑うような人たちが権力の中枢にいます。原発にまつわる嘘はほとんど露呈して電力値上げの根拠など全くないにも関わらず、平気で値上げするなどという厚顔。過去に想像を絶するお金を使い、事故後にまた想像を絶するお金を使い、普通の民間企業ならば何度倒産してもおかしくない状況で、道徳的反省も、経済的反省も何もなく、しゃあしゃあと値上げを口にする厚顔さ。

値上げを口にするならせめて「馬鹿なことをして巨額の国民の税金を使ってしまいました」「しかも原発事故まで起こして大切なふるさとを奪い、かけがえのない人命まで奪って、生涯かかっても謝罪しきれません」「もう二度と原発事故がないよう、全ての原発は即時廃炉にいたします」「今まで火力や水力発電をあえて止め、自然エネルギーの開発をあえて邪魔して来たことは本当に申し訳ありませんでした」「これからは嘘偽りなく日本のために火力、水力で電力をまかない、その間に一時も早く自然エネルギーへの移行を実現します」「ですから少しだけ料金を値上げさせてください」・・・ぐらいでは足りませんが、せめてそれぐらいは表明しなければとても納得できるものではありません。

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バートランド・ラッセルの言葉02
2013/02/13 イギリスの哲学者ラッセルの1952年の著書「社会における科学の影響」に「現代の科学的政治支配においてメディアと教育は最重要課題であり、支配階層のみがその部門の管理を行うことで、大衆に気付かれぬよう簡単に心理操作が可能になるとした。また幼い頃から学校において管理・命令・禁止を常態化させることで、自由意志を破壊し、生涯に渡って権力への批判意識を無くした受動的で無気力な大衆を産み出すことが教育制度の目的であること」などを記していますがそれから60年後の今の日本のことが書かれているようです。メディアの社会的影響の大きさはカナダの文明批評家マーシャル・マクルーハンがその絶大な力を不安と希望を持って考察していますが、日本においては啓蒙より無気力な大衆を生み出す道具とされている感は否めません。普通に考えればおかしいことが問題にもされず流されて行く。もちろん異議異論のある人も怒り心頭に達している人も少なからずいるのも事実ですが、大きな世論になることはなかなかです。テレビの番組表を眺めても深刻な社会問題が続出している国だとはとても思えない能天気さで、これは明らかにメディアの操作だと思えます。教育にしてもメディアにしても人間性の向上と自由意志の啓発が目的のはずで、まさしくそれが国力の源泉にならなければいけないのだけれど、権力者の勘違いと浅慮はとどまるところを知りません。一人一人が自由意志とは何かを再考する以外この悪しき風潮を変化させることは出来ないのではないかと思うのです。

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バートランド・ラッセルの言葉01
2013/02/12  「権力愛はまた、臆病な人々の間では全く姿を変えて、指導者に対する唯々諾々とした服従の衝動という形をとることがあり、これが大胆な人々の権力衝動の範囲をますます増大させる結果ともなる。」1938年のラッセルの言葉です。これを読んで今の社会の風潮と幾人かの政治家の顔が浮かぶ人もいるのではないでしょうか。権力とは暴力と直結する怖いものだとつくづく思います。今の日本、権力者に対する服従の衝動ではないでしょうが、自由とか命に対する無関心と投げやりな衝動が、強引であったり破壊的である政治家を持ち上げているのではないだろうかとは思います。今、自分が無事であったらいい、他者や未来が想像できない人間の集合が恐ろしい結果を招くことは歴史がいやというほど証明しています。今から100年前のラッセルさんの危惧が、全く色あせないのは2013年に生きる人間としては恥ずかしく、悲しいことです。そんな考えは過去のことだと言えるような社会をつくらなければおかしいと思うのです。

 


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愛=好奇心+想像力 好奇心+想像力=平和 愛=平和
2013/02/11  つくづく思うことがあります。連綿と生き続けて来た小さな集落がダムの底に沈み、無数の命が暮らす森林が恐ろしい機械力で伐採され消滅する。ちょっと想像力を働かせばぞっとする話です。山が好き、海が好き、川が好き・・・自然に対して好奇心があるなら枯れたり、濁ったり、汚染されたりするのはぞっとする話です。16万人もの人々が原発と言う機械装置の故障で足場を奪われ今なお不自由を押し付けられている現実。原発が動く限り誰の身の上にも起こりえる事態です。政府や電力会社がいくら過小評価、過小報道しようとも放射能汚染の怖さはちょっと調べれば認識できることです。

何故だろう?と言う好奇心。どうなるのだろう?と言う想像力。人ごとでないと言う自覚。日常の犯罪も沖縄の基地問題も身の回りの小さな環境破壊も全てつながっていてそれらに心が動かないのは好奇心と想像力の欠如です。人や動物や環境に対して、自分以外の他者に対する配慮の無さは、愛情の希薄さ以外のなにものでもないと思います。無関心と閉鎖、そして独断や排他。好奇心や想像力のない即物的な価値観は愛のない殺伐とした世界をつくってしまいます。そしてどうしようもなく恐ろしいのはそのような世界は闘争や戦争へと流れこむ可能性があることです。逆に考えれば好奇心と想像力に裏打ちされた愛を一人一人が育てることが平和を守るための唯一無二の方法だとも思えます。意識できること、表現したり、実行できる小さな愛は日常の中にだっていくつもあると思うのです。

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サーミとして死ぬなら・・・
2013/02/10  共同通信の「地球人間模様」という記事にスウェーデン北部に住む「サーミ」と呼ばれる先住民族のことが書かれていました。「早春の雨が幼いマルグレット・フィエルストロームに降り注いだのは1986年4月29日、ソ連のチェルノブイリ原発が爆発して3日後の朝だった。トナカイを飼育する両親と暮らしていたスウェーデン北部の山あいで浴びた重く冷たい雨粒を、先住民族サーミのマルグレットは31歳になった今も覚えている。『トナカイと遊んでいたら大きな雨音がして…。土砂降りになったの』深い緑色の毛布を広げたような丘陵に湖沼が点在する美しい故郷は、その日を境に放射能の「汚染地帯」となった。・・・」

「甲状腺に異常があり数年来治療を続けるマルグレット。事故に対する人々の関心が年々低くなっていることに、時々叫び出したくなる。「私たちはまだここにいる。放射能被害におびえて生きている」数千年前からスカンディナビア地方に住んでいたとされるサーミ。チェルノブイリ事故の影響もあってトナカイだけで生計を立てるサーミは10%にまで減っているといいます。原発事故から四半世紀たった今もマルグレットさんの飼うトナカイはキロ当り4千〜5千ベクレルのセシウムが検出されています。「放射能のためにがんで死ぬかもしれない。でもサーミとして生きて、サーミとして死ぬなら仕方ない」。あまりにも悲痛です。福島の原発事故で未来を悲観し自ら命を絶った農家の人が壁に書き残した遺書「原発さえ無ければ」の文字。悲劇はもうたくさん、止めようと思えば止めれる原発は人類全てに反対する義務があります。


 共同通信「地球人間模様」

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崇高な魂、パキスタンの女子学生マララさん
2013/02/08  女性の教育の権利を訴えて武装勢力に頭を撃たれた女子学生マララ・ユスフザイさん(15才)が回復を祈る世界中の人々に感謝を述べ、あらためて「すべての女の子、すべての子供が教育を受けられるように私は尽くしていきたい」と話しました。生死の境を超えて発する願い。教育の大切さ、男女平等の大切さ。教育の不足から生まれる非人間的環境の打破のために命をかけて戦う人々。マララさんの国パキスタンやインド、中東やアフリカなど世界中で人間の啓蒙のために多くの人々が戦っている現実。「崇高な魂」だと心から尊敬します。教育が普及し、経済も安定している日本人が原点に帰り見習わなければならない「人間像」は世界の国々を見渡せば幾つも見えて来ます。人気アニメ・ガンダムの映画監督、富野由悠季さんが日本経済と社会の現状をさして「こんな経済が常識になっているのはこの50〜60年に過ぎないし、決して自然現象ではない。

それなのに改善ができないのは、私たち自身がその常識を前提にして自分の生活を成り立たせているからです。みんなが『これ、絶対おかしいんだよね』と分かっていても、日々の生活が大事だから常識の足場を崩せない」と語っていますが、日本の隔離された常識から脱し、本当にグローバルな世界観を持つためには、視点を経済から「人間そのもの」に移さなければならないような気がします。巨額の税金が社会の本質的でない部分に投入され、経済が空回りしてどこか不安定でゆったりした心持ちがない社会であることは多くの人が感じているはずです。国を動かす役人や政治家の意識を変えるためには圧倒的多数の、一人一人の意識改革しか方法はありません。一人一人が「人間そのもの」に目を向け「人間とはいかにあるべきか」を再考するためにも、パキスタンの女子学生マララさんのような人の魂に思いを馳せる必要があると思うのです。

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強くて弱い人類は原発と共存できない
2013/02/07  フランスの漫画家エマニュエル・ルパージュさんが昨秋出版した漫画「チェルノブイリの春」は2万5千部が売れ、励ましのメールや手紙が届くといいます。原発大国フランスは日本のように被爆の経験も無く、原発導入の経緯も、原発事故も起こしていない国ですが、原発が人類の生存にとってそぐわないものであると言う認識は静かに広がっているようです。福島にも足を運び、荒れた農地や廃墟の町を見つめたルパージュさんは2人の子供を持つ親として「人類は四半世紀の間に同じ過ちを繰り返してしまった」と自問します。そして「強くて弱い人類は原発と共存できないのではないか」と自答します。子供たちの未来、その子供たちの未来そしてまたその次の子供たちの未来。現代において地球そのものの環境や存続を考えれないような人間が教育者や施政者になるような時代であってはいけないと思います。自分の老後を未来と考えるような「個人的に過ぎる」思考から一人一人が脱却しなければ、健全で調和した社会など生まれようもありません。

残虐で悲しい戦争という行為を繰り返して来た人類史。それは今も局所的に続いています。その火種を消し去ることは人類の悲願でもあり、目的でもあるはずです。「生命の尊重」と「生命の存続」は人類に課せられた最大の命題であることは誰にでも理解できることです。「戦争」と言う愚かな手段を問題解決の選択肢から完全に除外すること。そして科学技術が進んで、未来を見通せる今、エネルギーの確保に関して「原発」と言う選択肢を完全に除外することは、人類の未来を考える上で共に最重要なテーマだと思います。そしてそれがやっと実現できる段階に世界が達している時代を認識すべきだと思うのです。戦争や放射能汚染の危険につながることに対してどんな些細な兆候であろうが見逃さない、許さない心構えこそ現代人全ての基本であるべきだと思うのです。

 


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ローカルな精神の大切さ
2013/02/06  1970年頃、北海道へ行く途中の電車の中で聞いた車掌さんとお弁当売りのおばさんの会話が何一つ聞き取れず、東北の方言はすごいなと思ったことがあります。その後北海道での40日間の昆布取りのアルバイトの中で今度は僕の大阪弁が地元の人を大爆笑に巻き込んだりして、言葉の面白さと地方の距離感を再認識できた時代です。当時は東京でも大阪のテレビ番組すらあまり流れていず、大阪では誰でも知っている芸人の名前すら「それ誰?」と言う状況で、北海道と同じく僕の大阪弁は面白がられたり馬鹿にされたりした記憶があります。当然対抗心も生まれて、こちらはこちらで東京は巨大なローカルだと思っていて、大阪弁を通しましたが、いろいろと摩擦もありました。

こんなことを思い出すのはいつの頃からかどこを旅していてもそんな違和感がなくなったなと感じるからです。違和感と言ってもいい意味でのことで、その土地、風土の新鮮な空気というような感じです。最近では地方を走る電車内などで、お年寄りや地元の学生同士の会話の中から特有の方言が聞こえて来たりしますが、あらためて方言はいいものだと思います。特有の言葉の中にはその土地の精神が宿っていて、それは「そこにしかないもの」であって「大切な何か」であるのだと思います。グローバルと言う流れの中であえて意識しなければ消え失せてしまうもの、言葉に限らず、風習や風景、固有の価値観などもまた「大切な何か」であって、国全体の奥行きの深さを保つためには不可欠なものなのだろうと思わずにはいられません。

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ジェンダー・ギャップ指数
2013/02/04  女性は強く賢い人が増えたなと漠然と感じています。学生にしても社会人にしても1人の女性であると同時に1人の人間としてどう生きるか、どう生きたいかを熱く語る人と会話していると女性が生きる選択肢を持てなかった自分の親の時代とはずいぶん変わって、それはとてもいい変わり方だと思えます。先日「男女平等指数」なる言葉を目にして漠然と日本は50位ぐらいだろうかと予測しました。気になって少し調べてみると日本の男女平等(ジェンダー・ギャップ)指数は135カ国中101位でした。上位国はほとんど北欧諸国で、スイスが10位、オランダ11位、ドイツ13位、イギリス18位、アメリカ22位で、日本に近い評価の国は、ベリーズ102位、カンボジア103位、ブルキナファソ104位、インド105位などで考えさせられます。確かに政治家を含め社会の要職を見渡せば女性の少なさは明らかですし、子育てに関わる女性の負担もまだまだ大きく先進国を名乗るにはほど遠い現状です。

もしかしたらスポーツや一部業界の女性の活躍のクローズアップにこの国の実態を見誤っていたのかも知れません。それにしても恥ずべきことである指数は世界トップクラス、例えば3万人に及ぶ自殺者、膨大な食品廃棄、愛犬家愛猫家がこれだけ多い中での異常な動物殺処分の数。世界でも唯一の被爆国であり、放射能の被害を現実に受けて来ているにも関わらずの福島原発事故以降の国民の無反応。深刻な現実を報道しないテレビの悪影響は大きすぎるとは思いますが、事実を知ろうとしない無関心の風潮は目に余ります。「男女平等」と「民主主義」の成熟度は比例する部分が多いと思います。個人の人権が尊重され、多様な価値観が調和したゆたかな国になるためにも「ジェンダー・ギャップ指数」も50位ぐらいにならなくてはと思うのです。

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未来を予測できない政治家の無能と未来を大切に思わない国民の無責任
2013/02/02  未来のために方策を変えれば防げていた原発事故。心ある識者が根気づよく警告を発し続けていたにもかかわらずの結果です。未来のために政策を変えていれば好転していたはずの多くの社会問題。格差社会、派遣社員、規制緩和、自殺、いじめ、今矢面に立つ体罰問題・・・小泉政権以後加速した社会的歪みと全てはつながっています。「一過主義」とでも呼びたいような短絡的で弱者無視の政策は結局は国そのもののバランスを崩し、精神の虚脱と思考放棄をもたらしました。

原発事故で過去の原発政策の矛盾と巨悪の一部始終が報道されたにも関わらず、原発推進の立場を取る自民党や維新の会に票が投じられたのにはとても「奇異な」感じがします。世界の人々の目には一体どう映っているのだろうと考えると寒い思いがします。「同じ過ちを何故繰り返すのか」広島、長崎、そしてビキニ環礁での水爆実験に巻き込まれた第五福竜丸乗組員の被爆。そして更なる福島原発の事故。病気との因果関係を証明しづらい放射能の影響ですが、研究が進むにつれ被爆による人体への影響が解明されつつあります。「放射線はいかに低レベルであろうとも浴びないにこしたことは無い」これが今の最新科学の結論です。

1日100トンものがれきを焼却し最大3万6千トンものがれきを受け入れるという大阪市の決定。がれき処理にまつわる巨額のお金が絡んでいるのでしょうが、向こう1年間大阪市内から遠くない「舞州」からのばい煙には戦慄を覚えます。これだけの反対を無視して本当にそこまでしなければならないのか、明らかに検証が不足です。何かがおかしい。政治家は一体どのような未来を描いているのだろうか。「美しい日本」などとブラックジョークかと思うような軽い台詞を平気で語る首相。生活保護費の切り下げだけとってもそれは「残酷な日本」ではありませんか。一部不正受給の問題などあまりの枝葉、いいがかりです。

小泉政権がもたらした歪みの大きさに民主党政権は持ちこたえられなかったけれど、政権が交代した時の民主党政治の始まりに「期待できる何か」を感じた有権者は多かったのではないかと思います。これから安倍政権がしようとすること、それは小泉政権と同じことです。ただし国際情勢はより複雑になり、国内はもうすでに歪みがあちこちに生じている状況です。ここにきて「同じ過ちを繰り返せば」その未来の予測はつくはずです。

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体罰、暴力、いじめ・・・どれも感じの悪い言葉です
2013/02/01  体罰問題が全国の学校へと波及しています。50年以上前の体育会系クラブでは当たり前のように行われていた「しごき」や「特訓」。中には竹刀や鉄拳で喝を入れる教師や先輩もいました。学校の階段を「うさぎ飛び」で泣きながら上下する野球部員もいて「これはスポーツじゃないな」と思ったことを覚えています。スポーツをやりたいと思ってもそんないびつな環境への抵抗からクラブへ入らなかった素質ある若者も結構いたのではないかと思える当時の状況ですが、あれから半世紀以上が経っているのに「何故?」と言う率直な疑問が湧きます。

非科学的な練習法、根性や気合いの名の下に取り返しのつかない怪我をしてせっかくのスポーツへの夢を断念した生徒も少なからずいて、多くの反省からスポーツを指導する側の意識はずいぶんと変わっているはずなのに暴力が横行しているとは奇妙です。漠然と感じるのですがこれは今の社会に蔓延しているいじめの構造がいろいろな場所に出ているのではないかと。勝敗やメダル獲得がスポーツの大きな目標であることは分かりますが、その目標を通じて培うべき「もっと素晴らしいもの」があるのがスポーツです。戦争ではないのですから「勝てば官軍」のような意識やメディアの姿勢には疑問を感じることは多々あります。

学業においても同じでよい成績を上げるのは一つの目標には違いありませんが「全てではありません」一つの目標に向かう中で培う「もっと素晴らしいもの」との出会いこそが人生の宝物です。体を鍛える中での苦痛と喜び。友情の絆も同じ苦労をした人間同士の深さがあります。勉学に励む中での迷いや挫折。新たな視野やより深い洞察力は過程の中から生まれるものです。今の社会全体が持つ病的な心理。「不満のはけ口が弱者へと向かう風潮」それは悲しい暴力を伴うのが常です。力であれ言葉であれあらゆる「暴力」には欺瞞と自身への不誠実が含まれているのは確かです。


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