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葉月/八月/AUGUST/関心と言う名のエネルギー


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まあるく、きりっとしたお月さん
2012/08/30  地球から見る天体の中で太陽の次に明るい星である月の直径は3,474kmで地球の1/4です。その見かけの大きさは太陽とほぼ同じで皆既日食や金環日食のような神秘的な現象が起こります。月の表面積は3793万km2で日本国土の約100倍。アフリカとオーストラリア大陸を合わせた面積よりも少し小さいと言います。月では15日間昼が続き15日間夜が続きます。表面温度は赤道付近で最高110度にも上がり最低は−170度。大気がほとんどないから気象現象が発生しない。でも2009年には水が氷の形で極地に存在するとNASAによって確認され、チタンなどの希少金属の含有量は多いそうです。1609年に望遠鏡で月を観察したガリレオは月に凸凹を発見し、1865年にはジュール・ベルヌが小説「月世界旅行」を発表して月に対する科学的知識は想像、実証を含めて随分積み上げられて来ました。

それでも月の神秘性が失われない理由は月にまだまだ神秘が隠されているからだとも思います。日本では月の海をウサギの餅つきに見立て、ネイティブアメリカンの人たちは月の模様を女性の顔に見立てます。ロマンティックは科学と哲学の原点だとあらためて思います。アメリカや中国を始めとした国が月の資源利用に目を向けていますが、月の表土を削ったり、掘削したりする日が来た時には月の神秘性もまた大きく削り取られてしまうでしょう。地球と言う奇蹟とも言える星に暮らす人類がその豊かな天然資源を賢く再生利用し、先見のない核開発や原発で地球をもうこれ以上汚さないようにする事は地球人としての絶対義務です。太古から敬い、恐れ、愛着を持って接して来た太陽や月への数えきれない思いの集積。月を見ていつも思うことですが、「お月さんは地球の歴史や人類の歴史をずっとそばで見つづけてきた友人であり証人でもある絶対無二の存在」です。今夜のように晴れた夜には月が全てを見ていることを特に感じるのです。


「これは日本にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」
2012/08/29  「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」月面に降り立ったアームストロング船長が発した言葉です。1969年7月21日、あの頃どこで何をしていたのか思い出せないけれど、人間が月面に降り立ったテレビ画面を「本当だろうか?」と言うような気持ちで見ていたような記憶があります。当時は冷戦の緊張から核戦争さえ起こりえるのではないかと思えた1962年の恐ろしいキューバ危機があり、何とか冷戦状態が終わらないだろうかと誰もが思っていた時期です。アポロのニュースはソ連とアメリカが宇宙と言う未知のエリアに目を向けて、地球上の争いから視点が変わるのではないかと思わせるものでもありました。そしてアメリカとソ連の科学力をもってすれば近い将来、火星を始めとしてこの太陽系の惑星へは人類が行き来できるのではないかと期待しました。

あれから43年。1989年にベルリンの壁が崩壊して冷戦は終わりましたが湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争そして内戦や紛争が世界のどこかで絶え間なく起こっています。それに比べて宇宙へはまだ火星にも人類は到着せず太陽系は相変わらず未知の世界です。使えば人類の存続さえ終わってしまうかも知れない核爆弾はまだ廃止するにはいたらず、平和利用だと思っていた原子力発電はその危険性が明らかになりました。先日の8月25日に82歳で亡くなられたニール・アームストロングさんを始め宇宙から地球を見た人たちは「かけがえのない地球」を実感すると言います。そんな大切な地球、そして命。もし日本が全ての原発を廃炉にする事を決定したなら「これは日本にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と世界の人に言わしめるほど大きな影響を与えるに違いありません。日本列島から危険な因子を取り除き、次は世界へ・・・人間は核とは共存できないと言う意識を広めれば、きっと核爆弾も無くせる可能性が広がると思うのです。


造る事が無で、無くす事が有
2012/08/27  原発を理不尽に造り続けて来た事が「無と負」を生み出してしまったのだから、これからは原発を廃炉にし続ける事が「有と正」を生み出す事になります。政府が求めたパブリックコメントの結果の90%が「原発ゼロ」となったのは多くの人が原発の真実に目を向けだした証だと思いますが、2030年時点と言う問題の設定そのものが間の抜けた問いである事も感じながらの90%ではないでしょうか。テレビなどの主要メディアはあまり取り上げないけれど、各地の新聞記事やネットの情報を注意深く見ていれば農作物や魚介類への放射能の影響と人体への影響が無関心でいれるような状況ではありません。放射能被害の恐ろしさはチェルノブイリ原発事故の経過と25年経った今の現実を見れば明らかです。原子炉を覆う石棺が老朽化し、放射能漏れを防ぐために更に石棺をかぶせる作業をしなければならない過酷さです。作業員の中には事故を知らない年齢の若者もいて、原発被害の根の深さにぞっとさせられます。

福島原発の事故処理はチェルノブイリより難しいと言われていますが、世界中の科学者の知恵を結集して処理にあたって欲しいものです。世の中には白か黒かを決めるのが難しい問題はあります。原因の背景を考えたり視点を変えて見ると簡単には判じれない事は多々あります。ただこの原発問題だけは是非を問うような問題ではありません。原発は明らかに「絶対悪」であり「絶対危険」なものです。そして時間的余裕がないものです。2030年迄事故が起こらないなどとは信じる事もできませんし、もともと絶対事故など起こらないと言ってきて福島の事故が起こったのですから。各地にある原発を全て廃炉にするためにはそれこそ国家的プロジェクトが要ります。膨大な使用済み核燃料の処理も含めて時間軸の長い大変な作業になると思いますが、造るよりも大きな雇用も生まれます。そして日本のその姿勢が世界に与える影響は計り知れないと思います。「日本は間違った選択で大きな犠牲を出してしまったけれど、過ちに気づいたら全力であらためる素晴らしい国だ」と世界がその姿勢を見習うようになれば、未来は明るく感じるではありませんか。原発を無くす事から生まれる「有」がどれだけ大きな価値があるか、想像は難くないと思うのです。


国家としての指針、親としての姿勢。いじめにつながる状況の1つ
国家としての指針がないから、個人としての指針が立てられない中で、迷いやあきらめが事なかれ主義を生み、それを受ける子供たちのやり場のない不満がいじめに象徴される状況をつくり出している現状があります。恐ろしい戦争で多大な命を犠牲にした経験から日本は不戦の誓いを立て、アメリカの庇護のもとに復興を果たしたしました。でもそれは経済的、物理的な復興であって本当の意味での復興ではありません。何故ならその中に日本独自のアイデンティティーを再考することを置き忘れてきたからです。戦後の冷戦の中でソ連や中国の巨大な共産主義国家が身近にあると言う地理的な状況もあって日米安保条約が結ばれましたがソ連が崩壊し中国が変質した今、従来のまま日本に米軍基地がある事自体おかしな事です。北朝鮮の脅威を言い訳にする論旨もありますが、それこそロシアと中国、韓国との外交に努力さえすれば解決する事です。

冷戦構造の中で強固に構築されたアメリカの軍産複合体は共産主義国家が消滅した時点で構造改革しなくてはならないものでしたが、それは逆に巨大化し国家ですらコントロールできないものになった事はイラク戦争を見ても分かりますし、オバマ大統領の就任後の状態を見ても分かります。そして日本はそのアメリカに追随しているだけです。言い換えればアメリカの巨大企業にコントロールされているのです。アメリカをもし友人と呼べるのであれば、日本としての意見ぐらいできるはずですが、そうでないことは日本の政治的流れを見れば明らかです。アメリカのように戦争が無ければなりたたないような国が正しいわけはありません。弱肉強食が明らかな市場経済主義が正しいわけがありません。それは新自由主義などではなく新帝国主義とでも呼ばなければならないものです。日本が戦後独自のアイデンティティーを培っていたならば近年のアメリカに対しては一線を引いているはずです。でも現実はアメリカの軍産複合体と同じような構造を日本はつくってしまいました。それは原子力推進複合体です。巨大な利権と権力構造を維持するためには原発をつくり続けるしかなかったのです。現状は既得権益を維持するためにだけしか原発を動かす理由はありません。あたかもアメリカが戦争のための理由、仮想敵国をむりやりつくり出してきたように、仮想電力不足や仮想経済的影響などを唱えてはいますが、それはもう多くの国民が見抜いてしまった嘘に過ぎません。

いじめ問題から脱線してしまいましたが、結局は戦後日本が日本としての確たる指針のなさ、当初の経済復興の目的が達成された後の国としての理想や目的がないための空虚感が日本の今を覆っているのだと思います。マイホームと車が人生の目的たる人もいるでしょうが、そうでない人もいます。何のために忙しく働いているのか分からないような親の背中を見ていれば子供はとまどうに違いありません。「何か違う」「僕はこんなことしたくない」・・・いろいろな思いが渦巻く子供心を画一的な学校や塾に押し込めれば心に歪みが出る子供が増えるのは当然の事です。まず国が姿勢を正さなければなりません。そして大人としてあるいは親としての姿勢を正さないと行けないと思います。いじめや自殺が多発するような国が正しいなどとは誰も思わないはずです。国としての指針のなさが国民の社会意識や政治意識を稀薄にしてきたのは事実ですが、ならば国民1人1人の社会意識の底上げしかこの国は変えれないし、悲しく残酷ないじめ問題も解決できないと思うのです。そんな風潮の中起こってしまった原発事故。原発に対する関心はそんな日本が変わる動機になると思いますし、人間にとって何がいちばん大切なのかを再認識する機会でもあると思うのです。


たとえば、自己保身や自己達成のために政治家になるような人間を生まないための教育環境が必要です。
2012/08/24  未来のために。社会的弱者の自由と権利を守るためにある学問や知識を自己達成のために使うような人間を社会に送り出さないための教育が必要です。野田首相、橋下市長や東大の御用学者たちの所業を見ていると教育とは何だろう?と言う単純な疑問が湧きます。彼らは偏狭な知識を逆手に取った厚顔さや国民を騙すためのパフォーマンスだけを教育の現場で学んできたのではないかと思うぐらいに偏っていますし病んでもいます。彼らの手法、権力を握る経団連や巨大企業さえ敵に回さなければ自己保身と自己達成ができると言う理屈は当たり前ですが、それでは資本家の手先以外の何ものでもありません。施政者や学者たるものは民主主義の基盤となる「自由と平等」と言う永遠の理想に1歩でも近づくために培った叡智を使うべきで、経済はその実現のための1つの要素でしかありません。

人間1人1人の個性を尊重し、弱者をいたわる心、他者世界の苦しみや不条理に対して関心を持ちできるならば関与できるような人間をいかに育てるかが21世紀に先進国として目指さなければならない日本がこれから取るべき教育です。そのためには科学的知識も必要ですし、音楽や絵画、文学などで培われる感受性も必要です。古い町並みや伝統や美しい景観を守らなければならない理由はそれらが感受性を育てる上で欠く事ができないものだからです。人間は偏らない知識とある程度の感受性があれば、必然的に善悪はわかりますし、向上心や博愛的な心は生まれます。短絡的な競争や抑圧は教育にとってもっとも悪い影響を与える事はちょっと考えれば分かる事です。そうした教育環境で疑問も無く思考を固めてしまった結果が前述の野田首相を始めとする権力者たちです。彼らの脳裏には「自由と平等」どころか生命の尊厳や自然に対する畏敬と感謝の念すら写らないのでしょう。教育環境をよくするための考え方の1つとしてどうやったら彼らのような人間を社会に輩出することを防げるかを検討することも大切なことではないかと思うのです。


学校はサービス機関ではない
2012/08/23  立教大学総長の吉岡知哉さんがネットで語った学生へのメッセージ。「大学は社会から「考える」ことを託されている場所。社会に疑問を抱き、価値観を時に壊し、作り替えていくという自由を、大学は与えられている。教授の答えをただ「覚える」のではなく、発想や考えるプロセスを「学ぶ」ことが重要になる。そこに大学の存在根拠がある」・・・まさにその通りだと思います。専門知識や資格という「小学」だけを身につけた人間が重宝される社会にも根深い問題がありますが、そんな社会を改革できるとすればやはり「教育」の本質を見つめ直すしかないと思います。原発事故で顕著に出た政治家や学者の質の低さはまさに吉岡さんが言う「そんな人間を育てた大学の責任」ではありますが、その根っこは日本社会全体に蔓延してしまった経済偏重と言う価値観にある事も間違いの無い事です。

家庭、学校、社会がそれぞれ子供や若者に対して間違った価値観とそれにもとづく強迫観念のようなものを作り上げてしまって、教壇に立つ人間さえもがその価値観の中で育ち教えている現状があります。もし、吉岡さんのような思考を多くの教育者がもてばまだ頭の柔らかさが残っている大学生には素敵な影響を与える事はまちがいないでしょうが、そのためにはまず教育者を変えなくてはなりません。試験のための勉強だけでなく「自分自身の頭で考える」人間でなければ教師になれないような教育システムをつくらなくては行けないのではないでしょうか。それは教育機関に限らず企業も同じ事でしょうし、創造分野においてはなおさら大切な事だと思うのです。時代が、世界がどう変わろうとも「自由」こそ教育の原点であることはまぎれもない真実なのですから。


照りつける日射しに思うこと
2012/08/19  炎天下、かくれる影もない道をてくてく歩いていると時折光を遮ってくれる雲の存在にありがとうと言いたくなります。地球を支える太陽の力。学生時代に肌を真っ黒にしようと延々と浜辺ではしゃいでいた頃にはそんなに意識しなかったけれど原発事故があって太陽エネルギーの普及は未来に向けて絶対必要な事です。そう思って太陽を意識すると照りつける光にも感謝が入ります。1974年に新エネルギーの技術開発を目指す「サンシャイン計画」にもっと力を入れ開発を続けていればおそらく日本は世界をリードしていたに違いありません。計画が始まって一時は世界の約半分の太陽電池を生産していた時期もあったと言うのに残念な話です。しかも2005年の小泉政権下で太陽光発電への補助金制度が撤廃。小泉政権の施策がもたらした害悪は結果的に多くの人が感じ、反省もありますが、太陽光発電についてもその1つです。新エネルギー開発はドイツや中国に大きな遅れをとってしまったけれど、太陽は誰の所有物でもなくそのエネルギーは永久的と言っていいものですから、後戻りや頓挫のない「グリーン計画」を太陽エネルギーを筆頭にして押し進めて欲しいものです。


キラ星のような人たち
2012/08/18  それぞれの歴史、それぞれの環境、そしてそれぞれの文化。人類が経てきた長い時間の中には史実には現れず深く埋まったままの事実もたくさんあったであろうことは想像がつきます。未来においてどこかでひょっこりと顔を出すかもしれない新しい過去。でもそれは未来の事です。歴史を見れば世界中のあらゆる場所で戦争や殺戮で血塗られた記録が目にあまるほどあります。そして一部の国、地方では現在もそれは続いています。色々な国のおかれた状況の中(その多くは苦闘の中)で、様々な分野において人間的で優秀な人たちがキラ星のごとく存在します。時の暴君に対して、奴隷制度に対して、偏ったイデオロギーに対して、そして戦争に対しての命がけの抵抗と民衆に対する啓蒙に生涯を捧げた人たちです。

人類の歴史は科学者、哲学者、宗教家、芸術家など正悪を判断する知識を得た人たち、そして人間的直感に恵まれた人たちの戦いの歴史でもあります。そのような人たちがもし存在していなければ、人類の歴史はとぎれていたかも知れません。そしてその戦いは今も続いています。しかし少なくとも現代の多くの国では過去と違い得ようとさえ思えば誰でも知識が得られる環境があります。人間としての判断を下せるだけの情報は得ようと思えば得る事ができます。それなのにそこにある事実にさえ目を向けない無関心と言う風潮。自分の専門とする世界、自分が直接関係する世界、自分が好む世界以外のことを煩わしいと感じたり、関係ないとつっぱねてしまう閉鎖的な心理に固まってしまった人たちが多数をしめているのも現実です。このことは欧米と比べてこの日本で顕著な傾向です。競争や結果主義にもとづく職業や学問の専門分化がその原因でもあります。本来人間としての総合力が発想を深め、真理にたどり着く唯一の道である、科学や芸術、哲学の分野においてもそれは起こっています。それでももう2度と奴隷制度は復活しないでしょうし、戦争も徐々に無くなりつつあります。この日本も戦乱に明け暮れた時代を経てきましたが、日本国内で戦争は起こらないだろうと思えるぐらいにはなりました。それも各時代に命がけで反戦をとなえヒューマニズムを伝承してきた人たちの魂があるからです。1人1人の人間が無関心と言う壁をとっぱらい、精神があらゆる世界を行き来するような風潮になれば、日本は健全な国になるだろうし、そうなれば日本は経済や教育の遅れた世界の国に対してどれだけの貢献ができるだろうと思わずにはいられません。


美しい沖縄県
2012/08/16  日本の国土の0.6%、人口の1%に過ぎない沖縄に在日アメリカ軍の3/4が駐留するのはどう考えても異常な事です。1972年に沖縄の施政権がアメリカから日本に返還された沖縄。アメリカ軍の基地問題は北海道から沖縄県まで47の都道府県の中でのことですからなおさらです。その沖縄に危険なオスプレイの配備が強行されようとしていますが、安保問題を含め日本が自立した国家として考え直さねばならない時期に来ています。普天間基地は第二次世界大戦中にアメリカ軍によって飛行場が建設される前にはいくつかの泉が存在し、それらを水源に畑作が営まれる丘陵地で琉球松の並木道が続いていたといいます。その風景を想像で思い浮かべるだけでもなんか理不尽な気がします。いかにして沖縄県民を危険から守るか。悲惨な戦争に巻き込まれた歴史。美しい海とゆたかな文化に育まれた沖縄は日本の一員なのですから。原発問題と同じく誰もが関心を持たなくてはいけない問題です。


止めなければいけないもの、続けなければいけないもの
2012/08/15  あまりの無謀、あまりの危険と理不尽にたえかねて、1人また1人と増え続ける反原発への思いと行動。全国各地で反原発への声を上げる人が増えているのは希望の持てる事です。1970年代にオーストラリアで生まれヨーロッパから世界各地へ広まった市民ベースの「緑の党」は世界90の国や地域に続々と誕生し、この日本にもつい先日の2012年7月28日に結成されました。このグリーン勢力が掲げるテーマはエコロジー、反原発、反核、軍縮、反戦、人種差別撤廃、脱物質主義、多文化主義、消費者保護、参加型民主主義、フェミニズム、社会的弱者の人権などで、どれもヒューマニズムの基本的な考え方です。原発事故と言う悲惨な教訓を糧に日本でもグリーンな勢力が広がることは原発を止めるためにもとても大切な事です。そして原発と言う日本社会のあり方の象徴のような権力を止める事で、社会的歪みの大きな部分が消滅するだろうと思います。それは真の民主主義の始まりでもありますし、経済と技術の先進国である日本が置き忘れてきた精神を取り戻すきっかけになるのではないかとも思われます。全ての原発を止める事、広がりつつある市民意識の表意である反原発デモを続ける事は芽生え始めたグリーン勢力を定着させるために不可欠な運動です。1人1人がしっかりとした考えを持てば間違った政治家を選んでしまうリスクも減ります。原発も戦争もそれを止めるのは政治的手続きが必要ですが、市民エネルギーと言う圧力がなければ政治が動かないと言うのもまた確実です。


記憶していなければならない史実の1つ
2012/08/13  福島県石川町塩ノ平で1945年4月から敗戦を迎える8月15日迄旧制私立石川中(現・学法石川高)の生徒たちがウラン鉱石の採掘を強いられた。朝日新聞ニュースの記事です。採掘現場にいた陸軍将校はウランという言葉さえ知らない学生に「君たちの掘ってる石で爆弾を作ると、マッチ箱一つでニューヨークを破壊することができる」と言ったそうです。日本でもマンハッタン計画のまねごとをしていたと言う事実をもっと詳しく明らかにして後世に残したいと 町史編纂(へんさん)専門委員の橋本悦雄さんは語っています。それは戦時中の軍部の話ですが、原爆を投下され核の破壊力と放射能の継続的な恐ろしさを世界のどの国よりも認識しているはずのこの日本においていまだ核武装を考える狂気の人たちもいる現実があります。理不尽な原発を存続させようとする背景に経済的理由だけでなくそのような人間がいることをも認識していなければならないと言うのは悲しいし恐ろしい話ではあります。


虫も殺さぬいい男
2012/08/11  生命の不思議を考えれば虫に限らず全ての命あるものにはその存在理由があって、無造作、無意識に命を殺めることは間違っています。共存できるもの、できないものの区別は人間の側から考えたものですし、もし人間が自然界からもっと知識を得て賢くなれば救える命、共存できる命は増えるでしょう。しかし現実は逆で自然破壊の進行は大地や海に住む無数の生き物の命をそれこそ認識すらできない状況で減らし続けています。もちろん中には必死で自然保護を訴え、努力している個人や団体もありますし、国策として頑張っている国もあります。この閉じられた地球と言う空間にいる限り、他生物の命を奪う事は結局人間にはね返って来るのは自明の理なのに短絡的な人間はそんな明解な道理にさえ思いいたらず蛮行を繰り返します。しかもその理由のほとんどが経済的なものにあるのですからまさに逆行です。経済は人間の暮らしをゆたかにするために発展してきたのですから、たとえば福島原発事故がもたらした悲惨な状況を見れば原発を続ける事がいかに破壊的で非人道的な事かが分かります。それは「非経済」なことでもあります。

命と言う人間がつくり出せないもの、核反応と言う人間が制御できないもの。つくり出せないものには敬意や不思議を感じ、制御できない危険なものには手を出さないのが人間の叡智です。「虫も殺さぬいい男」はやさしくて穏やかな性質の人間に対する例えですが、虫一匹の命を考えることはとても大切な事です。以前海外ニュースで見たシーン。それはフランスの幼稚園で、先生からミミズがいかに大地に取って必要な生き物かを聞いた生徒たちがミミズを大事そうに手のひらにのせて見つめていたシーンです。知ることのやさしさ、知らない事の残酷さ。教育の本質はこの一点にあります。知識と体験の偏りは「知らない事の大量生産」につながり、自分のエリア以外の事に関心すら示さないような人間が増えることを意味します。男も女も「虫も殺さぬいい人間」になるための教育。それはミミズから銀河の果て迄、たゆまない好奇心と夢を持てるような教育だと思うのです。


原発推進者の犯罪を忘れないための「責任の家」の開設
2012/08/10  1989年に戦争とファシズムに反対する石碑がヒトラーの生家の前に建てられているオーストリア、ブラウナウの町。2000年にはオーストリアの政治学者、アンドレアス・マイスリンガーはアドルフ・ヒトラーの生家の近くに「責任の家」を開設する事を提案しました。「過ちは2度と繰り返さない」と言うオーストリアやドイツの姿勢。同じように悲惨な歴史を持つ日本もまた「過ちは2度と繰り返さない」の思いは同じです。原爆と言う世界で唯一の体験をした日本。その悪魔的破壊力と放射能の持続的な脅威を体験した日本人にしか分からない核への恐怖。それなのに日本は原発と言う名の原爆で自ら過ちを繰り返してしまいました。そして必要のない原発を稼働させまだ同じ過ちを繰り返そうとしています。

次に事故が起これば世界に対してどんな言い訳もできません。福島の事故処理でさえこの先できるのだろうかと思える現状で、次に事故が起こればどうなるかぐらいは想像がつきます。本当に人間性を疑うしかない原発推進者たち。原発を安全だ、クリーンだ、経済的だと嘘八百を並べたあげくに恐ろしい事故を起こし、しかも責任さえ取ろうとしない人間と呼べないような人たちへの抵抗の1つとして、国会議事堂と福島原発の近くに「責任の家」を開設してはどうだろうかと思うぐらいです。過去に犯してきた数々の犯罪行為。そして今なお続ける無責任な発言や改ざん、隠蔽などあらゆる証拠を「責任の家」を開設して永久保存しなければなりません。福島・浪江町長「原発は原爆だ」 原水爆禁止大会でスピーチ



2012/08/08  原水爆禁止世界大会に出席した馬場有町長が「われわれの生活を破壊した原発は原爆だ」とスピーチしましたが、福島原発事故で離散し放射能との戦いを続けている人々にとって原発は事故を起こせば核兵器です。しかも事故を起こさなくても問題が多すぎるエネルギーです。これだけの事があった今、この先日本全体、世界全体に関わる放射能の脅威をあえてつくり出さねばならない事情はどう考えてもないと思います。広島、長崎の被爆者のこの1年間の死亡は3305人が確認され、原爆による死者は15万8754人になったそうですが、被曝認定もされなかった潜在的な被害者がどれだけいるのだろうと思ってしまいます。福島原発事故での被曝の因果関係も将来の大きな問題になると思いますが、今国がやらなければならない事はまず「原発ゼロ」と言う指針を明確にし、火力、水力、省エネ、自然エネでまかないながら早急に新たなエネルギー開発に力を注ぐ事です。福島事故の被害者に対するできる限りの救済、汚染された瓦礫や国土への対策、そして使用済み核燃料をどうするかを「産学官」一体となってやらなければ未来はあまりにも暗すぎます。


「たね蒔きジャーナル」の存続
2012/08/07  数少ない情報源の1つMBSラジオ「たね蒔きジャーナル」の存続が危ういとの情報が流れています。3.11の震災後多くの人が強い関心を持って聞いてきた番組です。福島の事故後にテレビや新聞に出ている御用学者の無責任な発言。テレビを見ている限り一方的なまやかしの情報しか得られないのが現実です。原発事故についての正しい情報を得ようとすれば欧米のメディアに頼らなければならないと言うのもおかしな話ですが、巨大化した日本のメディアが経済的縛りの中で自由に報道できないのならばそれこそ現在の社会的歪みの大きな責任はメディアにあります。そんな中でラジオと言うメディアの小さな報道番組「たね蒔きジャーナル」は数少ない真実を報道する価値ある番組です。今年3月に一連の原発報道で坂田記念ジャーナリズム賞特別賞を受賞した番組がこの秋で打ち切られると言う報道がなされるだけでも情けない気分になります。もし打ち切りの原因が原発報道の真実にあって、それを恐れるMBSの株主企業などの圧力によるものであったなら、それこそ坂田記念ジャーナリズム賞創設の機となった毎日放送、新聞の元社長坂田勝郎は怒るはずです。どんなに小さなメディアであっても、真実は流し続ければ必ず大きなうねりとなります。知識の種を蒔く。まさにそれこそがジャーナリズムの使命ではないでしょうか。


語りつがなければ、思い続けなければ過ちは繰り返されてしまう。
2012/08/06  今日は67回目の広島原爆の日です。唯一の被爆国であり、世界有数の地震国である日本で現実に起こった大きな原発事故。被爆者はもとより子孫の代にまで長く苦しみと不安を与え続ける放射能の脅威は原爆も原発も変わりありません。優柔不断な政府と圧倒的な力を持つ経団連、原発関連企業の見え透いたプロパガンダと圧力は収束さえしていない福島原発事故を過去のものにしようとさえしています。昨年の今日、広島、長崎の記憶に福島の事故が加わって、核廃絶と原発依存からの脱却を誓った多くの人々。あれから東京を中心として日本各地でその思いは広がりを見せていますが、無謀にも大飯原発を再稼働させました。核の恐ろしさと悲惨さを3回も体験した国など世界にはありません。

原子力が人間の制御できるものではないとはっきりと分かった今、もう過ちは繰り返せないと誓うのが人間としての道です。やり直しがきかない悲劇。広島や長崎の被爆者の想像を絶する体験や67年たった今も消えない被曝の苦しみの現実に対して1人でも多くの人が関心を持ち、その悲惨な真実を語りつぎ、思い続け、過ちはもう繰り返さないと意思表示しなければ、原発事故は必ず起こります。そしてその責任など誰も取れるような話でない事は福島原発事故の経過を見れば分かると思うのです。反原発の市民科学者・故高木仁三郎さんは、「やり直しがきかない原発事故と違い、計算をやり直せる技術者のコンピューターの世界は倫理的なバリアーが働かなくなる」と警鐘を鳴らしていましたが、自己保身と損得勘定に拘泥し人間としての良心や想像力をなくしてしまった人間もまた道徳的バリアーが壊れてしまっています。経済と言う名の隠れ蓑の下にあるのは、国益や国民のためなどではなく権力者の我欲だけです。


 

ポールマッカートニーの不変
2012/08/04  中学生の時、机をドラムのように叩きながら奇妙な声をだしている友人がいて、「それ何だ?」と聞くと「ビートルズだよ」とうれしそうに言うので興味を持ったのが最初でした。以来心のどこかでビートルズの曲が流れ続けているような気がします。人の日常にあるさみしさや楽しさ、そして人生を歌い続けるポール。戦争や争いに対するやるせない思いを歌にしたジョン。どちらも根底にあるのは愛以外の何ものでもないと思います。ビートルズが解散してからのポールとジョンのそれぞれのアルバムから曲を選んで1つのアルバムにまとめてみたら、やっぱりそれはビートルズ。2人の感性の調和があの歴史的なグループをつくったのだと再認識しました。人を愛する事、命を愛する事、世界を愛する事、宇宙と言う摩訶不思議な摂理に対して思いめぐらせる事。平和の祭典と言うより経済的理由が先行するオリンピックには幾つかの疑問があるけれど、70才になってもポールマッカートニーの歌声と心は不変です。


みんな違ってみんないい
2012/08/03  あらゆるものとの調和とやさしさは僕が目指すものではありますが、それは均一化したり同化したりする事とは違います。ましてや競争や強制などとは真っ向対立する意識です。違ったもの違った特徴あるものどうしがお互いを尊重し、相手が持っていて自分に欠ける要素に対してあこがれを持つ事です。人間の素質は千差万別で限りない個性があるからこそ、あらゆる可能性があります。人間の可能性を考えるならそれぞれの特異性をいかにしてのばすかが重要です。教育はまさにそのためにあるのではないでしょうか。個性を尊重する基礎教育こそ「調和」と「やさしさ」を生む原動力です。均一化や同化は、競争や強制と同じように排他と差別を生み、人間が小さくなります。幼い子供たちを見れば誰にでも分かるはずです。「みんな違ってみんないい」と。そして個人を尊重する風土を作ればおのずからヒューマニズムは根付き芽生えて行くと思うのです。人に感動を与える芸術やスポーツ、新たな発想を要する科学、哲学や宗教の真理を追求するにしてもヒューマニズムに基づく精神的高揚こそがその道を照らすと思うのです。


「原発は永久にこれを放棄する」
2012/08/02  日本国憲法にならい「原発は永久にこれを放棄する」と宣言できれば世界は明るい方向に変わるでしょう。と書家の石川九揚さんは素敵な言葉を書いています。幾何学的でもあり哲学的でもある書を表現する石川さんらしい心情です。実際原発は憲法前文にある「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」にも反していますし「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」にも反しています。福島原原発の事故ではっきりしている事、それは原発が事故を起こせば取りかえしのつかない「惨禍」が起こる事です。放射能による時間軸の長い生命への影響は原爆や原発事故の結果明らかになりつつあります。これ以上この地球に放射性物質をばらまいてはいけないことは未来を思う人間であれば誰だって分かる事です。まず日本が永久にこれを放棄し、安全なエネルギーシステムを構築し、世界に向けてそれを広めるのが憲法前文の最後の言葉「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」ことだと思うのです。


スポーツの風と精神
2012/08/01  原発問題や沖縄の基地問題が深刻な中、ロンドンオリンピックの報道があふれています。紙面に踊るスポーツの風を感じると過去の名勝負名場面がふと脳裏をよぎります。サッカーのペレやマラドーナもすごかったけれど、プラティニの風格やジダンの個性は今でも鮮明です。ボクシングのサンチェスやチャベス、シュガーレイ。柔道の山下と古賀の技の切れ。テニスのボルグとマッケンローの個性あふれる試合。陸上のカールルイス、マイケルジョンソンの早さ。卓球の長谷川やベントソンの芸術的技巧。棒高跳のブブカはまさに鳥人でした。スポーツをめぐる環境が向上しどの競技も記録は短縮され、技術が上がったのは明らかですが記録や勝敗ではない感動があるのもスポーツの良さです。現代のサッカーのように環境がグローバル化されクラブが至上になれば地域や国による独特の個性と個性がぶつかるサッカーはもう2度と見れません。日本の高校野球もそうですが有力選手が甲子園出場目的に越境入学するようになれば、郷土色が色あせて勝敗だけが目立つ世界になります。グローバル化の功罪はスポーツに限りませんが、何でもかんでもグローバル化や市場経済にまかせてしまっては、逆に個性や精神が矮小化することもあると思うのです。

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