文月/七月/JULY/星に願いを、月に想いを
20万人の心の光 まるでアメリカを動かす巨大な力である軍産複合体のような様相を呈している日本の原発村(複合体)も利権にまみれた巨大な権力構造であり、その資金と政治力で長く国民を欺いてきました。原発を動かさないと自分たちが犯してきた長年の悪がさらに露見するのが怖いかのようななりふり構わない再稼働への偏執。 全身全霊で反省しても償いきれない福島原発の被害に対してさえまるで人ごとのような電力会社の対応。狂っているとしか思えません。それでも原発事故後に表面化した様々な情報を知るにつけ、1人、また1人と正しい判断ができる人が増えつつあります。まだまだ無関心、無知な人が圧倒的に多い事を日常の中では感じますが・・・。 職場、家族、友人、知人、そして町や居酒屋で接する人々にできる限り正しい知識を伝える事もこつこつやっていますが、聞く耳持たない人も少なからずいて電力会社のプロパガンダの浸透に驚きますが、真実が変わる事は無いのですから、時間の問題だろうとも思います。もっと多くの心の光が、原発の光を完全に止める時がくるまで、あらゆる脱原発の動きが広まって行く事を念じます。 水俣病と原発 水俣病の原因がチッソ由来の水銀であると確認してからも政府は被害の主現地である「不知火海周辺の住民の実態」さえ一度も調べた事がなく、救済対策は無責任な線引きによって矮小化されつづけたのが実態です。過去原発施設で被曝した多くの作業員、そして今回の福島原発事故の放射能汚染に対する政府の対応を見れば2つの公害に悪しき共通点が見えてきます。 60年代の終わりから水俣市で准看護士をしていた川本輝夫さんは、水俣病の潜在患者を掘り起こす活動を始め、心ない人たちの嫌がらせや脅迫、放火までされてもひるまず患者の救済にあたりました。川本さんとともに水俣病の救済にあたった原田正純医師は「水俣病の歴史の中で彼は多数派じゃなかった。 でもぼくの経験では歴史を動かすのは多数派じゃない。本当に志のある何人かです」。チッソ本社前で1年6ヶ月座り込みをして補償協定への道を切り開いた川本さんと自主交渉派の人たち。今東京、大阪を中心に広がっている反原発デモに参加している人たちは少数派かもしれないけど、きっとそのような人たちが歴史を動かすのだと僕は思います。 湯水のごとく、お金は流れ 街を歩き地下鉄やJRに乗って感じるのはどこか疲れた、無気力な表情の人が多い事です。経済が本当にゆたかであれば国全体がもう少しゆったりとした面持ちであってもいいと思うのだけれど、どこか殺伐としています。 芸術や古い文化、古い町並みの重要性が分からないような政治家が目先の損得で政策を決めるような馬鹿げた風潮がますます世の中を殺伐とさせます。競争とかグローバルとか合理主義を進めた結果の今ですから、これからの日本はそれらを是正していかなければ更なる悪化は必至です。 小手先、口先の人間ではなくおおらかで豊かな精神性を持った人間を育てる為の教育、社会環境をどう作るかがこれからの政治家の手腕です。経済をないがしろにはできませんが、経済の考え方、例えば原発のような不経済なものを短絡的にやってしまうような失策を重ねない事が大切だと思うのです。 原発57基の総建設費実績は約13兆円。消費者物価指数による現在価値に換算すると14兆5千億円にものぼると言う事ですが、用地買収の巨費、プロパガンダに要する巨額の広告費、原発村にまかれる札束。 そして試算すらおぼつかない廃炉や核廃棄物の処理費。ましてや事故後の補償と広大な土地の除染に瓦礫処理という天文学的費用。考えるだけで胸が悪くなるような理不尽を「一部の思考を失った貪欲な輩」にやられてきたのです。 このままだと国は破滅します。日本の経済力が実社会の現実とそぐわない要因の1つが原発である事は間違いありません。国民の税金がまさに湯水のごとく使われているのです。そしてなおかつ電気料金が欧米諸国より高いのですから、無茶苦茶な話です。国民1人1人が目覚めなければ原発だけでなく、おろかな施政者によるおろかな施策がますます社会の閉塞感を強くします。 季節の声、季節の香り 季節の色彩、季節の音色、季節の香り、季節の味覚、そして季節の体感。自然は五感のすべてに働きかけて人間の鈍化を防いでいるのかも知れません。もし蝉の声がしなくなり、かえるの声が聞こえなくなったら・・・あらゆる生物の異変は必ず人間へと帰ってくる予兆であり警告です。アメリカの作家であり生物化学者でもあるレイチェル・カーソンが50年前に書いた「沈黙の春」。 「沈黙の春」と言う表題を見つめるだけでそら恐ろしいものを感じます。彼女の環境に対する啓蒙活動は当時のケネディー大統領を動かしDDTの使用は禁止されましたが、多様な合成化学物質の散布と蓄積は世界中に蔓延し環境の悪化に歯止めはかかっていません。 そして更なる放射性物質の拡散。放射能はたとえどんなに微弱なものであっても、消える事無く積算されつづけ生命に悪影響を与え続けると言う事実だけは肝に銘じていなければなりません。そして残留農薬や食品添加物の危険に放射能がプラスされると言う事も当然の事ですが心しなければなりません。 人間がもたらした環境異変で生態系の破壊が進んでいます。危険な放射能を出し続ける原発の全廃は当然ですが、自然環境に対する気配りが未来に対して最優先項目にならなければ、「沈黙の世界」がそう遠くない将来にやって来るのは誰にでも想像がつくのではないでしょうか。 8月7日は機械の日? マツダのロータリーはすごいと思った記憶、ムトーのドラフターはよく使ったけれど本当に便利なものでした。活版は言うに及ばず、デザインの現場で言えば写植機と言う機械は遺産認定しなければいけないものの1つです。 写植機のおかげでデザイン世界の文字に関するレベルは飛躍的に進歩しました。写植のオペレーターは引く手あまたで安定した職業だと思っていた矢先、コンピューターが現れ、あっという間に写植の世界そのものが消えました。にたような現象は各界にいくつもあるでしょうが、長年かけて機械を開発した人、機械操作の技術を習得した人の虚しさはよく分かります。 「機械遺産」を残す事で、機械を生み出し機械に関わった「技術者遺産」も同時に心に留めておきたいものです。そしてその機械が輝いていた時代、その中にはデジタル時代の今より優れた「何か」があって、それはまた未来へ向けての参考になる要素が多々含まれているに違いありません。 原子力発電を止める科学者の育成 その考え方自体が「ヒューマンエラー」だとなぜ気づかないのでしょう。「事故時の対策や事故後の処理」などあってはならないのです。人間のやることに絶対はありません。そうならば、まず原発を全廃して、それでも残る大きな脅威である核廃棄物の処理や被曝してしまった多くの人、子供たちの未来の安全に対処できる科学者の育成こそ今必要な事です。そして再生可能な自然エネルギーに取組む最先端の科学者の育成も同時に必要な事です。 「福島のあとに沈黙するのは野蛮だ」坂本龍一 知的未開、精神的未開がなければ沈黙していられるはずはないからです。人それぞれやるべき事はいくつもあって、やらなければいけない事もあります。それでも原発の問題は稼働させようとする人間がお金儲けの中で我を失い信じられないほどの非科学性と非人間性で「命」そのもの、人間の存続さえないがしろにするものです。文明人であるならばどうして沈黙していられましょう。 ましてや原発を推進してきた背景が巨大な権力構造にあり、その強引で強欲な力に対するのは小さな一市民の小さな声の集積以外にないのですから、個々それぞれどんな形であれ声をあげなければそれは「野蛮」だと思うのです。自分の事しか考えない、考えられないのは野蛮への逆行です。 政治も科学も哲学も芸術も目指すものは「野蛮」とはまさに対極にあるものです。それはなかなか実現はできないけれどヒューマニズムに満ちた社会、世界だと思うのです。そして原発や核はもっとも野蛮な道具であり武器である以上、この問題に関しての「沈黙」はどう考えても「野蛮」なのです。 知性と感性、有無を言わせぬもの 論理的に「これはいけないことだ」と考えることと生理的、神経的に「これはいけないことだ」と感じる事が重なれば必然的に行為行動のエネルギーは湧いてきます。物事を判断するには正確な知識が必要ですが、五感から得られる感覚もまた知識にまして重要です。情報が氾濫する時代。情報がすり替えられたり、歪曲されたりすることもあります。 隠蔽や捏造もあります。テレビ、新聞など圧倒的影響力のあるメディアが広告収入と言う経済的理由で公平を欠く報道を余儀なくされている現実もあります。ネット世界はそれに比べれば開かれてはいますが、心ない情報も散乱していて注意が要ります。1人1人があらゆるメディア、社会の動きにアンテナをはって、真偽に対して「知性」と「感性」の2つの目で判断しなければ大手メディアを始めとする情報操作に流されたり混乱させられたりする可能性は大いにあります。 例えば政治家1人を取っても、言葉では何とでも言えますが、その顔や表情には心根がはっきりと出るものです。人の意見や考えは、視覚や聴覚を通して感じるその人間の人となりを加味して判断しなければ、騙される事もあります。 計り知れない人間の意志と能力 それから20年後の2002年、両足に義足をつけ、彼の足を奪ったマウント・クック国立公園のクック山登頂に再び挑み成功させました。そしてその4年後にはエヴェレストに両足義足の人間としては初めて登頂しました。不慮の事故や病気で衝撃的なダメージを負っても立ち直り、健常者でもできないような事を成す人がいます。 その気力、その意志は一体どこからくるのだろうと考えると同時に人間の持つ計り知れない能力に恐れをなします。恐れをなすのは自分自身の努力が小さすぎて恥じ入るからです。努力にも勇気にも限りはなくてこれでいいと言う事はありません。 マーク・イングリスは2009年にリンカーン大学より天然資源学の名誉博士号を授与されました。その強い意志の裡には自然へのやさしい愛があって、それが超人的な行動に結びついているような気がします。他者への愛、自然への愛。自己の外にある存在への意識が人間を強くしたりやさしくしたりする大きな原動力であることは間違いありません。 トイレのないマンション 武谷さんは「安全性の考え方」と言う本の中で「放射線というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響をあたえる。しかし一方では、これを使うことによって有利なこともあり、また使わざるを得ないということもある。その例としてレントゲン検査を考えれば、それによって何らかの影響はあるかも知れないが、同時に結核を早く発見することもできるというプラスもある。 そこで、有害さとひきかえに有利さを得るバランスを考えて、どこまで有害さをがまんするかの量≠ェ、許容量というものである。つまり許容量とは、利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念なのである。」と書いていますが、現実のものとなってしまった福島原発事故の結果を踏まえれば完全に「許容量」を超えているのは確かです。 原発事故と言うリスクはどのような天秤にも載せれないものでいかなる有利さも天秤のバランスを取る事はできません。それがはっきりと分かっているからこれだけ多くの人が原発の廃絶を求めているのです。先週金曜日の大阪のデモに90才を越した老夫婦が参加したとの記事がありました。いてもたってもいられない人間としての責任感が伝わって来ます。 想像を絶する雨量 自衛隊の一部を改編して災害救助のスペシャリストを育て、最新の重機と最新の装備で待機する「国際救助隊」のような組織があればもっと多くの命を救えるような気がします。不要なダムを造ったり、自然破壊としか言いようのない干拓工事、そして危険きわまりない原発などは強引に進めるけれど人間を救済する事にはどこか消極的な日本の政治。見渡せば教育から福祉まで改善しなければならない問題はたくさんあります。老人介護、いじめ、自殺、目と耳を疑うような凶悪な犯罪。施政者は社会の隅っこにある声なき声をきちんと聞き取れるような国を目指して欲しいものです。 いじめと原発の共通要素 自分に直接関わらない事には近寄らない利己主義。直接の損得だけでものを考える短絡主義。頭で悪いと分かっていても心や体が動かない人もいます。「みんなが言わないから自分も言わない」「教師が言わないから生徒が言わない」自身の事なかれ主義を肯定するために他人や社会のせいにするような風潮がいじめや原発を無くす事を困難にしています。 人がどうあれ「自分はこうだ」「自分はこうあらねばならない」1人で無理なら同じ思いの友人と力を合わせよう。人に呼びかけてでも悪い事は止めさせよう。と1人1人が自分の判断で行動する人間が増えれば必然的に理不尽な問題は減るはずです。全体がどうだからとか規則がどうだからとかではなく、「一個の人間として自分はこう思う」と言う小さな気迫が大切だと思うのです。 いじめが続けば未来あるかけがえのない命が奪われます。原発が動くだけで被曝する作業員が必ず出ます。放射能だって必ずつくり出されるのです。無関心ですむことではありません。想像力がないですむことでもありません。そこにいじめられている子供がいて、そこに動いている原発があるのですから。どちらも命の問題で、人間全体、それは言い換えれば1人1人に関わる問題だからです。 「未来を予測する最も良い方法は、未来を創り出すことである」 そんな人たちにも否応無しにふりかかってくる被曝の現実。土壌を通して、瓦礫を通して、食品を通して、目には見えないけれどそれは確実に影響を与えます。無関係な人も動物も植物もないのが放射能です。生命、特に未来を担う子供たちの事を考えれば、原発を含めいかにして核の無い世界をつくるかこそ「未来を創りだすこと」に他なりません。 脱原発のもう1つの考え方 そしてあらゆるジャンルあらゆる立場から脱原発の為の様々なアイデアを出す事も大きな力になります。東京電力福島第1原発の元技術者、木村俊雄さんが唱える「生活見直し脱原発」はもう1つの根本的な考え方です。木村さんは和歌山県串本町での講演で「原子力発電は火力発電に比べて熱効率が悪い」と指摘し「日本人は高価な電気をだらだらと使う生活を、知らず知らずのうちにさせられている」と話しました。 そして「家庭で電気を使えば使うほど電力会社や融資するメガバンクがもうかり、原発の建設や運転が進む」と説明した上で「電力会社に電気料金を払うことで原子力を生み出し、一部の金もうけのためのシステムに知らず知らずのうちに引きずり込まれている。いくら原発再稼働反対と言っても原発を動かしたい人は何も聞かない。それよりも一人一人が生活を見直し、電力をなるべく使わない消費スタイルにシフトすべきだ」と呼び掛けました。 木村さんは余った電気を電力会社に売るシステムではなく、発電した電気を蓄えて家庭で使い切る独立型の太陽光発電装置の事業化に取り組んでいて「ソーラー発電の設置などで雇用を創出できる。串本でも行政に頼らず、自分たちのコミュニティーの中で仕組みづくりをするなら、そのお手伝いをしたい」と語りましたが、確かにこの考え方は原発に反対する人全てが心がけて行かなければならない事だと思います。 12年間福島第1原発で炉心設計技術者として勤務していた木村さんが東電を依願退職してまで原発の被害に警鐘を鳴らし続けていたあげくの福島原発事故。原発を稼働させれば更なる事故が起こる可能性がある事、たとえ事故が起こらなくとも被曝する人と、核廃棄物をつくりだす事は避けれない事を全ての国民は肝に銘じなければいけないと思います。
「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし」今の原発推進者はこの言葉をよく噛み締める事です。大気を汚し、大地を汚し、村人の人間関係を破壊し、原発作業員を始め多くの人を被曝させるようなものは「文明」どころか「野蛮」の2字に集約されます。 東電や官僚組織の責任感のなさ、政治のレベルの低さに頭がクラクラする。と誰かが言ってましたが、一連の原発に関する動向はあまりにも人間性を欠いています。政治家や企業が完全に人間性を喪失してしまったかに見える今、原発に対して国民1人1人がきちんとした意識を持たなければ、破滅的な事故はまた起こります。 今、直ちに原発を全廃する決定をしても、廃炉への道のりは遠く多難ですし、すでにつくり出してしまった核廃棄物、原発事故でばらまかれてしまった放射能による今後の環境や人体への影響は計り知れません。そんな状況で大飯原発が動いている事がどれだけ異常な事かを今一度人間として心に問う必要があります。 無限の光エネルギー 安全で再生可能なエネルギー産業が今の原発立地に展開していたなら地方のみならず日本全体の経済や政治にどれだけいい影響を与えたかと思うと悔やまれます。原発建設のために他のエネルギー分野の足を引っ張って来た原発推進の歴史。今でさえ大飯原発を動かす為のあからさまな情報操作が行われていて、本当に腹が立ちます。 事故が起これば取りかえしのつかない事が分かっているのに、愛を無くし道徳心を無くした人間は本当におろかで恐ろしい存在です。福島原発事故で放出された放射性物質は食品に混ざり線量の高低はともかく否応無しに食べざるを得ません。国が放射能に対して徹底した検査体制を取らないのは、調べれば調べるほど原発稼働に不利な事実が出るからでしょうが、不要な内部被曝を未来ある子供たちにまで強いるのはあんまりです。 安全な食品を届ける為に生産者自ら放射能の検査をしている記事を時々見かけますが、それは東電と国が責任として行わなければいけない事です。どこをどう取っても原発にまつわる世界はおかしい事のオンパレードです。原発村を中心としたエゴイスト集団をまともな人間に戻すのはもう無理かも知れませんが、これ以上の暴挙で次の人災を起こさせないためにも、1人1人の関心と監視は絶対に必要だと思います。次世代のエネルギーシステムが構築される迄、火力と水力だけでも十分持たせられるという事実が厳然とあるのですから。 青い空と青い海 海に面しない内陸国の人たちには想像もできない豊かさです。美味しい空気、透明な水。光とともにかけがえのないものの筆頭に来る空と海。そんなかけがえのないものを汚す危険な施設をよくも海岸線に54基も造ったものだと、その想像力のなさに呆れます。原発の見える海で泳ぎたい人間はいないでしょう。原発の近くの温泉で心癒される人はいないでしょう。 湯水のような原発マネーを使って、地域のコミュニティーを破壊することと環境を破壊する事をしているのですから、ひどすぎる話です。かけがえのない海に建つ不気味な原発施設で海の環境と景観は台無しです。ひとたび事故が起こればどれだけの大惨事になるかは福島の事故で周知だと言うのに。青い空と青い海を未来永劫に守って行く。人間が何よりも最優先しなければならないことだと思うのです。 後戻りできないもの 村社会の独特の色彩をもち、利権に群がる排他的利益集団という面を揶揄して「村」がつけられている・・・」。村と言う言葉の一般的概念に対しては失礼な比喩ですが、これではいい足りないほどひどい集団ではあります。詐欺、恐喝、賄賂、扇動、非情、謀略・・・思いつく悪い言葉がどれも当てはまるおぞましさです。個人、団体、国家のそれぞれのエゴイズムが癒着して作り上げた「怪物」。 福島原発事故の原因解明も事故の収束もめどが立たない中、その上に放射能で苦しめられている多くの人の救済も万全でない中、あれだけの人災に対して誰も責任を取らない中、「再稼働」などと言う行為がよくも行えるものだとつくづくこの国が情けなくなります。原発はあらゆる観点から怒りをぶつけなくてはならない「日本の魂の問題」です。国民全てが怒らなければならない問題です。 心ある人たちがデモや投稿や会を開いて原発の悪を訴えていますが、この問題だけは人間であるならば全ての人が共鳴しなくてはいけないと思います。原発は後戻りできない絶対的な不幸を人類にもたらす可能性が高い問題です。森林破壊、海の汚染、食品添加物など様々な環境問題、人道問題がありますが、どれも人々の意識が芽生えた時点から少しずつ修正可能な問題です。原子力利用と放射能汚染が人間の手に負えないものである事がこれだけ明らかになった今、原発だけは即時停止。全力で廃炉。他に選択肢はないと思うのです。 旅に出て自分の五感で世界に接しよう 事故が起こる前から原発や世の中の理不尽に対して強いメッセージを送り続けていた人たちだから、生きていたら2人とも力の限り歌い、力の限り話していただろうにと残念です。YouTubeで2人の対談の懐かしい映像を見てせめてみんなで原発を止めるまで蘇ってくれないかなと思います。 忌野清志郎は音楽的センスとヒューマニズムが合致した日本では数少ないアーティストです。筑紫哲也もまたヒューマニズムを強く意識した数少ないジャーナリストです。あらためて彼らを見て思います。人間はどんなジャンルであってもその根底にヒューマニズムが流れていなければいけない。それがなければどんな音もどんな映像もどんな言葉も人の心に響かないものだとあらためて思います。 Jump、視点を変えれば見えなかったものが見えたり、よく知ってるはずのものが分からなくなったり、いろいろあります。旅に出れば全てはダイレクト。経験のない刺激がそこここにあります。自分の目で、自分の肌で感じる事がまぎれのない知性とヒューマニズムにつながる「何か」を与えてくれるような気がします。 日本の未来を想像すれば 1人1人が自分の頭で考える民主主義。社会的弱者を作らないと言う民主主義の理念をドイツは「教育」で日本は「経済」的豊かさでもって実現しようとしたのだと思います。教育優先の結果豊かさを手にしたドイツと違い、日本では経済を優先するあまり効率と利潤が絶対的な指針になってしまいました。 大切にしなければならない伝統的な建物、伝統的な技術、伝統的な風土など日本人が日本人として誇れる精神的土壌が次々と破壊されました。都市部でも地方でも古き良き日本は、資本原理の前に跡形も無くかき消され単に商業主義があるだけの街、田舎になってしまいました。便利さと合理性の前に精神性や芸術性は無視されたのです。日本的な情緒、日本的な奥ゆかしさ、日本的な哲学、日本的な宗教観、日本的な自然観、日本的な清貧、日本的な芸術性 ・・・ヨーロッパと比べても遜色のない日本的な文化が1つまた1つと消えています。アメリカと言う伝統文化のない国と同じレベルで国づくりをしてしまったのです。アメリカ的競争や合理主義は日本人の能力をそぐ事はあっても高める事はないと言う事が現代の科学や芸術の現状を見れば証明されています。脳裏にお金しか刻まれていないのではないかと思える政治家や科学者。 それはあらゆるジャンルで進行して、道徳観や倫理観まで蝕んでいます。経済を優先させれば正しい「教育」はなされないけれど、教育を優先させれば「経済」はついて来ます。正しい知性を持った人間から生まれる経済とただ儲かったらいいと言う、単純な勝ち負けのような幼稚な経済とでは同じ経済と言う言葉に含まれた中身は全く違うものです。 その最たるものが「原発」ですし、弱肉強食の市場主義です。自由の難しさ、人間の個性を伸ばす難しさにやっと気づき始めた日本で君が代条例とか維新の会とかぞっとするような事が起こっていますが、まさにそれらが経済優先の国策がもたらしたある種の人間像のような気がします。お金もうけとか地位とか競争とか権力とか以外の感性を持ち合わせないような人間をいかにして作らないか。日本の未来は自由で独自な教育にかかっていると思うのです。 品がないだけではすまない低能な人間 ヒトラーの例はともかく、幼稚で短絡的な人間に権力を与えると、その少しずつ変えて行く事ができなくなります。幼稚と言う事は裏返せば暴力的ですし、一面的です。社会的弱者の側に立つとか社会正義の側に立つなどほど遠い意識です。関電を糾弾し、原発を無くし、アメリカや経団連に対してそれは違うと言えるような政治家が出てくるような土壌を市民はこつこつ作らなければならないと思うのです。馬鹿な人間を調子に乗せた結果、また大手企業やアメリカがぼろ儲けして多くの市民、特に社会的弱者が泣きを見るような事は小泉政権1回でもうこりごりです。 専門分化の危険な流れ これは1929年に書かれたホセ・オルテガ・イ・ガセトの「大衆の反逆」と題された本の中の一節です。83年も前のヨーロッパの現状に危惧を持ったオルティガが科学と社会にたいして警鐘を鳴らした本ですが、今の日本の現実に重なる部分が多くあって考えさせられます。 科学に限らず全ての学問は「分別ある人間になるために知っておかなければならないすべてのこと」をさぼって得られるものはないはずなのですが、原発村の学者のような科学者や教育者が目にあまるのが今の日本です。ヒューマニズムに根ざさない専門的知識は科学のみならず医学でも法学でも極めて危険な言動や行動となって社会をあらぬ方向へと誘導します。 偏狭な知識は傲慢で短絡的な思考に結びついて、ある種の幼稚さを生み、それが暴力的言動となって社会を脅かします。民主主義の世の中だからそのような人間に支配される事はないと言う人がいるかも知れませんが、この日本はすでにそのような人間に支配されて来たと言う事実を原発事故以降の現実があらためて物語っています。人間は偏ってはいけない、生きている限り人間としての総合を目指さなければいけないと思います。科学技術が人間の精神に対して先行しすぎれば、専門的知識がその他人間として大事な要素を無視してしか得られないような社会を作れば、未来の破綻は目に見えています。 自然エネルギー買い取り制度の開始 大飯原発3号機が今日臨界に入ります。8日にはフル出力の118万キロワットに達すると朝日新聞にでていましたが、このたった「118万キロワット」のために付近住民の方と国民が受ける心痛を思えば、愚か過ぎる決断です。止まっている火力発電所、やる気があれば加速度的に増やせる自然エネルギー。実際の電力が足りている事も多くの国民は知っていますが、仮に不足があるとしても他の選択肢はいくつもあります。 なりふり構わない原発利権の亡者たち。あっさりと稼働を認めてしまう首長たち。日本の未来と子供の未来を大切に思わない人間が考えつくことにまともな事があるとはとうてい思えません。国民1人1人が賢くなって1人1人がそれぞれ自分の愛する人を守るんだと言う意識を持てば、原発の虚偽や、政治家の虚偽がもっと見えて来るはずです。 マスメディアにジャーナリズムとしての良心はないのだろうか 無関心、無意識、短絡的・・になるような番組と報道。悪い方向ばかりにテレビが使われています。テレビほどの影響力はないけれど新聞の罪もあります。つまらない記事を一面に大々的に載せるかと思うと重大な記事を物陰に隠すかのような小さな扱い。我欲と権力に酔って気が狂ってるとしか思えない政治家や電力会社の上層部。彼ら狂った権力の暴走を止める役目をするのがメディアの使命のはずです。 少なくとも報道の公正さだけは厳守しなければまさに御用学者と同じ御用メディアです。関西電力のコマーシャルがまた始まりましたが、狂った人間が狂った判断と目的で流すコマーシャルこそテレビ局が却下するべきです。それにしても原発が巨額の広告費を投じてあの手この手のプロパガンダを続けなければ成り立たないような存在であることこそ、原発不要の証明でもあります。 |
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。