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水無月/六月/JUNE


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事実を直視しない事、無関心である事、未来を予測しない事は悪だと思います。
2012/06/30  「原発」の存在。明らかに生命全体に危害を加える事が分かっていて、それは今と未来に渡って愛する人、かけがえのない命を蝕んでしまうかも知れない事も予測できて、全ての人が関心を寄せなければこの重大な問題を解決できない現状があるのに心動かない人は悪だと思います。人間なら大小のエゴイズム(己-主義)は持っています。他者を顧みず自分だけよかったらいいと言う利己主義は嫌いですが、そのような人間であっても核爆弾や原発は逃げようもない、自己を守りようもない問題です。エゴイストであればあるほど本当は反対しなくてはおかしい問題だと思うのです。放射性物質がばらまかれれば、対岸の火事ではなく、全ての人間は火中に入ります。見ざる言わざる聞かざるの三ざるも通用しません。原子力の脅威や放射性物質の恐怖を知っているはずの科学者は率先して一般人を啓蒙しなければなりませんし、施政者は科学者の意見を率直に聞いて事実を直視しなければなりません。

広島、長崎、福島と日本は世界でも類のない3回もの被曝を経験した国になりました。核の悲惨さを知っている唯一の国で、今回核の平和利用があり得ない事も身をもって体験した国です。原発依存の背景がエネルギー問題ではなく醜い利権と金権ゆえだと言う事も暴露されました。もう、原発を動かす理由などどこにも見あたらないはずなのです。それなのにまだ見え透いた嘘を平気でつき再稼働を目論む政府や電力会社は人間としての最後の一線を踏み越えたのではないかと空恐ろしくなります。ここに至って再稼働のプロパガンダに騙されるのは、あまりに不勉強、あまりに無関心、あまりに無責任だと思うのです。多くの意識ある人は懸命に脱原発に向けて活動している現実はありますが、原発に群がって来た怪物のような権力構造に対するにはもっともっと多くの意識の結集が必要です。


原発事故想定?稼働させなければいいだけ。
2012/06/29  原発立地での被害想定と避難訓練。誰が考えてもおかし過ぎる話だと思います。地震や台風などの避けようのない自然災害に備えての事なら話は分かります。しかし原発は稼働させなければいいだけの話です。福島原発事故の悲惨さ、今なお収束のめどもたたず被害の波及の予測もつかない中、止まっている原発を再稼働させるなどとはあり得ない事なのですが、野蛮としか言えない再稼働の決定。平戸市の離島で行われたと言う避難訓練のニュースを聞いてあまりの浅はかさに悲しくなりました。いったん事故が起こり放射性物質が飛散すれば避難で済む話ではない事はもう重々分かっているはずです。平戸の黒田市長いわく「想定外の言い訳はできない。避難訓練を一度やってみて体で覚えてもらうことで、もしもの時に備えてもらいたい」呆れ果てた言い草です。もしもの時をあえて起こしてどうするのですか。

原発は今や絶対必要なものではない事を多くの国民は認識しています。全ての原発は稼働させずそのまま廃炉にする事。しかもその作業すら多難な事ももう分かっています。先日の電力会社の株主総会の馬鹿げた結論。原発は命の問題であり、国の未来を決定づける最重要の問題です。電力会社とか株主とかの商業レベルの問題ではなく国が廃炉を決定、命令しなければならない問題です。琵琶湖が汚染されたらとか避難区域がどうだとかナンセンスな予想対策をするよりまず、稼働させなければいいだけですし、どうやって再稼働などという野蛮な行為を阻止するかを、国がやらないのなら国民の総意でなしとげるのが民主国家と言うものではないでしょうか。


映画の力
2012/06/24  見た年代、見た状況などによって印象度は変わりますが映画に共感したり、衝撃を受けたり、人間に対する視点が変わったりと映画から受ける影響は大きいものです。子供の頃に見た映画がずっと心に残っていて、その後の生き方の起点になっているとある時気づく事もあります。5月のカンヌ映画祭でパルムドール賞を受けたミヒャエル・ハネケ監督の「アムール」と言う映画。まだ見たわけではありませんが新聞の記事に書かれていた解説を読んでよさそうな映画だなと思いました。ある老夫婦の死を前にした人間劇で老いへの対峙と死への恐れと言う普遍的な命題を描いた作品。老いた夫を演じるジャンルイ・トランティニャンと言う俳優の名前にハッとしました。懐かしい名前です。審査員賞を受けたケン・ローチ監督作「天使の取り分」と言う映画は失業とか若者の非行化が顕著な現在の英国の姿を描いたもの。社会的弱者が家族や友人たちと連帯して生きる様をユーモラスに、真摯に捉えた作品と言う事です。

子供の頃に古びた映画館で見た「シェーン」や「僕のおじさん」を観た時の印象は今も全く薄れず、去年見たカチャーノフ監督の「チェブラーシカ」は愛らしさと悲哀と友情を見事に人形劇に託していますし、「マン・オン・ワイヤー」は個人のあり方、生き方が見事に表現された映画で新たに深く心に刻まれました。心に残る映画には面白さと美しい映像の底流に、人間性と社会性がさりげなく、でも強く流れているものだと思います。人間がもっと人間らしく、社会がもっと人間らしくなるための力。世界中で作られているそんな映画が一本でも多く日本で上映され、見る人が増えれば日本社会の雰囲気は随分変わるだろうなと想像します。1970年ぐらいまではアメリカ映画と並んで、フランスやイタリア、ドイツ、スペインなどの欧州映画がロードショーされていましたが、いつのまにかアメリカ、それもハリウッド映画がほとんどになって、多様な国のエッセンスにふれる事が少なくなりました。この偏りは国策として行われて来た面があります。経済一辺倒で文化や精神を塗りつぶすためにはヨーロッパの文化は邪魔になるからでしょう。

短絡的で深く考えない人間をどうやって作るか、それは大量消費社会を目論む人間にとって最重要なことだからです。そして何より現実の政治や社会的問題に無関心な人間を多数つくりだすことこそ歪んだ資本家や施政者には不可欠です。お金以外の事は考えさせない、自分の事しか考えられない、目先の楽しみにしか頭が動かない、そんな人間を大量生産する事が、戦後日本の政治的動機であって、教育を含めそれはかなり功を奏して今の日本があります。でも、何事もそうそう続くものではありません。まだまだ少ないですけれど中東やアジア、ヨーロッパの映画を見れる機会が最近増えて来た気がします。アメリカによって作られて来た価値観と違う何かが映画を通して日本社会に浸透して行く事で、人はじんわりと変わって行くのではないだろうかと、映画の力を夢見るのです。


山口県熊毛郡上関町祝島
2012/06/23  山口県知事殿
私たちは 原発のない 山口県に 住みたい・・・山口県民より、と祝島のホームページに書かれています。短い言葉ですが全てがあります。

山口県上関原発に反対し続ける祝島の人たち。祝島のホームページを見るだけで原発がいかに愚かで、いかに非人間的なものであるかが分かります。新鮮な海の幸、心やすらぐ自然環境。工場や石油コンビナートの多い瀬戸内にあって、希少動物のスナメリや珍しい貝類が発見されるかけがえのない環境です。ホームページの「祝島に暮らそう」と言うページに書かれている言葉です。「祝島は静かだし、魚は美味しいし、人々は親切だし、それに意外と便利なところだってあります。畑で自家用の野菜を作り、波止で魚釣りをすればおかずは結構まかなえるので、生活費はあまりかかりません。定年退職された人でも祝島ではまだまだ青年?の部類ですから、島に帰ってからあれこれ活躍の場はあります・・・」同ページに掲載されている祝島の小さなお店の写真。食料品、お酒、雑貨、お弁当、ペンキ、金物、煙草、薬・・・数十年前には日本のどこででも見られた小さなお店です。祝島の人々を見ていると過剰な経済発展で見失ってしまったもの、無くしてしまったものの大きさに気づきます。


科学者よ声を上げよ
2012/06/22  25年前に北アルプスの遭難死した水戸巌さんは放射線専門家として日本の反原発市民運動を引っ張った1人です。同事故で物理学を学ぶ2人の息子をも亡くした妻の喜世子さんの心痛は計り知れません。その喜代子さんが長年の沈黙を破って「反原発」叫びこう訴えます。「科学者よ声を上げよ」と。夫の巌さんは全国の原発を訪ね、付近で落ち葉を採取して放射線データを集めたそうですが当時正体不明の嫌がらせ電話は日常茶飯事で切断された指まで送られて来たといいます。原発にまつわる非人道てきな行為はいくつも明るみに出ていますが、それだけを見ても原発の悪を認識するのに十分です。恐ろしい脅迫にあっても巌さんは毅然としていたと妻の喜世子さんは振り返りますが、科学者としての信念とヒューマニズムが無ければできる事ではありません。チェルノブイリ直後、巌さんが山で命を落とす半年前の86年6月10日の朝日新聞「声」欄に掲載された巌さんの意見は「こんな危険を目の当たりに見ながら『引き返せない』ほど人類はおろかなものであろうか」と書かれています。そして26年たった今年5月1日の同じ欄には妻の喜世子さんが書いています「政治家は科学者の声に耳を傾けよ。科学者にはその職責がどれほど重い社会的責任を伴うかを自覚してほしい」・・・朝日新聞6月20日朝刊、宮崎園子記事より。・・・そして科学者を筆頭に全てのジャンルの意識ある人間は声を同じくせねばならない、それが原発問題だと思うのです。引用した記事に喜世子さんが大飯原発再稼働決定に抗議する集会に参加した時の写真がありました。76才の喜世子さんの表情には人間としての強さとやさしさがにじみ出ています。


福島原発事故の主な原因は東京電力の人命に対する軽視
2012/06/20  どう考えても福島原発事故は電力会社と国の命に対する軽視が引き起こした人災です。原発の脆弱さや危険性は何十年前から真摯な科学者や技術者に指摘されていましたし、その道徳的問題点も同時に多くの知識人によって批判されてきました。それでも聞く耳を持たない、我欲と想像力の欠落したほんの一部の人間が引き起こした事故である事は明白です。地震や津波が事故の主原因だと言い張るのは盗人猛々しい言い訳です。大飯原発が同様の事故を起こし、致命的な状況になっても彼らは同じ事を言うでしょう。「想定を超える津波が襲って来たのです。」まるで未開人の言い訳です。事故原因の主ではなく全てが「原発を動かした事」にあります。福島原発事故の悲惨な結果。収束しない現状とこれから起こるであろう様々な放射能問題を認識する多くの国民は「原発などもう金輪際動かしては行けない」と強く思っています。そんな中の再稼働。権力の座で思考停止してしまった野田首相の頭、経済の毒素で人間としての心を無くしてしまった電力会社の面々。再稼働させなければならないのは彼らの頭と心です。


松下政経塾出身と言う野田総理
2012/06/18  考えられないような厚顔と気味が悪いぐらいの自己実現に対する執念。傀儡政権を引きずりながら愚かな施策をつづける野田首相は松下政経塾の出身者だそうですが、成型塾か生計塾の間違いではないかと思うぐらい自主性のない人間です。大資本家とアメリカの傀儡であるにしてもこれだけ国民不在の判断を下すには鈍重と同時に相当残虐な神経があるのでしょう。昭和54年に松下幸之助が70億の私費を投じて設立した公益財団法人。幸之助には次代の国家指導者を育成する思惑があったと言いますが、政治、経済の勉学に加えて座禅や茶道、書道、自衛隊体験入学などのカリキュラムを見ていると、明らかに指導者としてのもっとも大切な資質を育てる項目がばっさりと欠如しています。それは未来を見つめる科学的精神と現実を受け止める文学的精神の欠如です。加えて人間とはどうあるべきかと言う哲学的精神、正悪を直感的に判じられる芸術性です。

政治や経済を勝ち負けや損得とは違う次元で操る器が無ければとても指導者などとは呼べません。ただし能力は無くても権力の座に座ってしまえば、破壊者にはなりえます。しかもこれだけ政治不信を国民に与えればその不満を政治利用して更なる偽施政者が現れる事も歴史を見れば起こりえる事です。「電力は足りている」と言う絶対的事実を無視し、逆に国民に電力不足の脅しまでかけて原発を動かすのは暴力的としか言いようがありません。事実をきちんと報じないマスメディアにも大きな責任がありますが、それにしても騙され続けて来た国民の多くは福島原発事故で目が覚めたはずです。同じ過ちを繰り返す事はあまりにも馬鹿げていますが、他の事と違い原発の過ちは本当に取りかえしのつかない過ちとなります。事故に対してたとえどんな些細な可能性をも許されないのが「原発」と言うものだと思うのです。


沈黙は体制のゆがみを支えるもの
2012/06/17  核物理学者の水戸巌さんの妻、水戸喜代子さんが原発の危険性を訴えつづけて亡くなった夫を偲びながら語ります。「原発災害の元凶は科学者が責任を持つべき分野を空白にしたまま、一部の政治家が政治利用によって原発を動かしたことにある。福島の事故後は科学不在の政治的発言が横行してきた・・・」そして「科学者にはその職責がどれほど重い社会的責任を伴うかを自覚してほしい。沈黙は体制のゆがみを支えるのだ」と。命の根幹に関わる原発問題に対しては科学者はもとより、あらゆる知識人が声を上げるのが当然のはずです。命の問題に垣根や対岸があるはずもなく、音楽家であれスポーツマンであれ美術家であれ哲学者であれ文学者であれ宗教家であれ会社人間であれ学生であれ意識ある人間であるならば思いは同じはずです。決して政治的な問題ではなく、道徳や経済的な問題ですらありません。それはもっと大きな問題、命の問題であり人類の存続の問題です。人間のみならず生あるすべてのものたちの存続の問題だと思うのです。もっと言えば人間としての心のあり方の問題、この地球の全ての生命体の未来に対して決定権を持つ人間としての責任の問題です。

宇宙的な力や大自然の力の前にはまさに無力な人類ですが、不可抗力な自然災害ではなく、自らの手で災害を起こすなど決してしてはならない事です。原発の事故は火力発電の事故とは違うのです。しかも原発の危険性とその被害の甚大さはチェルノブイリや福島の事故で明らかな上に予測さえされていた事なのですから。少数の心ある科学者が先頭に立ちあらゆるジャンルの人たちが何十年に渡ってその危険性を訴え続けて来た事です。それでも聞く耳を持たない施政者と資本家、そして一部の学者までもが心を失い原発を動かして来た結果が福島の大惨事です。いくらなんでももう目を醒さないと、もう事実を直視しないと人間としてあまりにもお粗末です。再稼働と言う選択肢などあり得ないはずなのですが、それがこの国では現実なのです。多くの人は沈黙などしていませんが、まだまだ沈黙の海の中で、無関心の砦の中で自分さえ良かったらと「三ざる」を決め込んでいる人が多くいるのも事実です。「沈黙は体制のゆがみを支えるもの」水戸さんの言葉が痛切です。


原発再稼働、世界に恥ずべき決断
2012/06/16  流れは見えていましたが正式に原発再稼働を決めた政府には恥ずかしいと言う思いでいっぱいになります。福島原発の事故が収束したわけでもなく、原発事故と言う人災に巻き込まれた多くの人々の生活が回復しない中、何が何でも再稼働と言う行為はあまりに破廉恥なものです。国民の生命をそこまで軽んじて原発を稼働させなければならない理由。原発村を守らなければならない理由は何なのだろうと悲しくなります。今までもこれからも原発が動く限りケタ違いの経済的リスクがある事は今回明るみに出たデータが証明しています。恐ろしい事故のリスクも今や明らかです。原発が無くとも電力が足りている事実も明らかにされました。原発立地の雇用の問題も自然エネルギー関連の企業育成や誘致で解決できる事も分かっています。そして何より原発が非人道的なエネルギーであることがもう誰でも分かっているはずです。

原発を動かすためには否応なく誰かが被曝しなければならないこと、極めて危険でその安全な処理方法すら確立されていない核廃棄物が増え続ける事の2つを取り上げても原発を廃止するための十分過ぎる事実です。今日の新聞に8ヶ月間ドイツで研修して来た女学生が書いていました。「ドイツでは多くの人が原子力の脅威について、広島や長崎、福島の結果を踏まえて議論していて、今回日本に帰って来てその意識の低さに絶句しました」「またドイツに研修に行くのだけれど、もし再稼働などと言う事になったら恥ずかしくてものが言えません」本当に恥ずべき国です。無知とか不勉強もありますが、他者に対して、命に対して、環境に対して、未来に対してあまりにも無関心すぎるのではないでしょうか。原発を廃止するためには国民1人1人の意思表示がもっともっと強く切実になることしかありません。


素晴らしい人間性、水俣病救済に心血をそそいだ医師の原田正純さん
2012/06/13  11日に多くの患者さんや関係者に惜しまれて亡くなった原田さん。新聞の写真の顔を見ているだけでその心の温かさ、尊さが伝わってきます。半世紀を超えて水俣病の研究と被害者の診療にあたり全国の水俣病裁判では一貫して被害者の視点に立って証言をつづけました。私欲とか自己実現とかの低次元の垢にまみれた政治家の顔と何と言う違いでしょうか。12月の毎日新聞のインタビューで「原因企業のチッソは『有機水銀の人体への影響は不明で予防しようがなかった』と主張したが、未知イコール安全ではない。原発事故も同じだ」と原発の問題についても言及しました。そして福島原発事故の放射能の影響について水俣病の経験を踏まえ「医学的に水俣病の病像ははっきりしていて、半世紀たっても水俣病が解決しないのは、行政が救済を怠ってきたからだ。(福島)原発事故では、放射線の影響が出るのは10年、20年も先のことで、将来どうなるかはっきりしていない。そこが違う。水俣で何をやったかではなく、何を失敗したかを学ぶことだ」と言及しました。この重い言葉が心に届かないのであれば、もうそれは人間とは呼べない何か空恐ろしい生き物です。原田さんのような人にはもっと長く生きて欲しかったと心から思います。残念です。


法治国家なら当然の訴え。
2012/06/12  人災である福島第一原発の事故責任を告訴する福島県民1324人の思いは当然の事です。多くの県民が被曝し、避難中に亡くなった入院患者や自殺者まで出した責任をはっきりさせるのは法治国家ならばなされなければならない事です。これだけの被害を出して事故前と変わらぬの東電幹部の意識のあり方には誰だって怒りを覚えるはずですし、長きに渡って原発を推進してきた自民党の幹部達もその責任を免れ得ないと思います。今回の訴えは東電の勝俣会長や清水社長を始めとする33人ですがその中には事故後の無責任発言で国民を愚弄した原子力安全委員会の班目委員長や放射線健康リスク管理アドバイザーの山下俊一なども入っています。告訴状は業務上過失致傷容疑と致死傷容疑となっていますが、本当に大きな犯罪だと思います。福島の事故原因が解明されず、被害の全貌とその責任問題が解決されてもいないのに原発を再稼働させるなどと言う発想はどこから生まれるのか、とても信じられない頭と心の構造です。巨大権力の中で完全に人間性を矮小化させてしまった人たちをどう正せるのかは分かりませんが、きちんと捜査すれば逃れ得ない犯罪事実が明らかになるはずです。かけがえのない人命と生活を奪った責任を明らかにさせた上でしか原発の再稼働など語る事すら許されないはずです。決して電力需要の次元の問題ではないはずです。


 

とにかく元気でいて欲しい。愛するものへの思いは同じ。
2012/06/10  親は思います。「とにかく元気で育って欲しい」と。元気であれば次に思います。「とにかくやさしい人間になって欲しい」と。やさしく思いやりのある子であれば次に思います。「とにかく賢い人間になって欲しい」と。望む賢さは試験でいい点を取る賢さではなく、ものの道理を考えられる人間、他者の気持ちがわかる人間です。そして最後に思います。それらを発揮するためにも「芯のある人間になって欲しい」と。子供に託す思いは友人に対しても恋人に対しても同じです。とにかく元気でいて欲しい。自分を曲げずのびのびと自由であって欲しい。愛する人への思いは同じです。動物達に対しても、野に咲く花に対しても、1000年の樹であったとしても可能な限り元気でいて欲しい。海は透明で青いままで、森は生き生きとした緑のままで可能な限り存続して欲しい。そして子供は親に思います。「いつまでも元気でいて欲しい」「やさしい親であって欲しい」「賢い大人であって欲しい」最後に「いつまでも夢見る大人であって欲しい」と。


悪あがきの原発亡者たち
2012/06/09  何が何でも原発を動かそうとする人たち。この夏動かさなければ、電力が足りていると言う事実が証明されて、以後2度と動かす口実が無くなるのがよほど恐ろしいのだと思います。でも、恐ろしいのはこっちです。心を亡くしたほんの一部の人たちの欲や都合で国の生死に関わるような決断をされてはたまったものではありません。3月11日の事故以来、あの手この手の隠蔽と恥も外聞もない偽りの情報を流布してきた政府と電力会社。電気が足りないとか電気代の値上げとか恐喝まがいの喧伝にうろたえる人もいるけれど、情報をきちんと分析している多くの国民はそれが嘘だという事に気づいています。もともと原発をつくる口実のためにあえて火力や水力の発電能力を落としてきた事実があります。心ある学者、ジャーナリストは電気が足りている事実と、原発が圧倒的に不経済な事実を政府発表のデータをもとに証明しています。

原発以外の既成の発電で十分まかなえる事は明らかなのですから、その間に自然エネルギーの比率を増やす事に智慧をしぼるべきです。福島のような事故が再度起こればどうしようもない事態になる事は誰にでも分かります。安全などと言う馬鹿げた過信に委ねられるような事柄では無い事がどうして分からないのでしょうか。次に事故が起こったらその責任など誰も取れないはずです。福島の事故責任さえ取らないのですから呆れ果てます。テレビ、新聞の情報は明らかに操作されていて見えにくいものですが、それでも注意していれば真実は分かるはずです。まず全原発の廃止を決定して、何年かかるか分からないけど廃炉への明確な道筋をすべての国民が求めなければならないはずです。すでにつくり出してしまった核廃棄物の処理でさえ、現時点ではどうしようもないのですから。


子供のパワー
2012/06/08  急勾配を徒歩で上って一息ついていると、坂の下から一台の自転車がやってきます。小学生ぐらいの小さな男の子が涼しい顔でペダルを踏んでずんずんと上ってきます。僕はいつも坂の中途でギブアップして押して上がるのだけれど小学生は平気。力んで立ち漕ぎをするわけでもなくただ普通に飄々と進む光景が何とも不思議です。不思議そうに見つめる僕を不思議そうに見返す小学生。「これぐらいの坂なんてどうってことないよ」とその目は語っています。体力が足りないのか気合いが足りないのか、どちらにしても情けない話です。年とともに坂や階段で感じる重力。逆に重力をものともしない子供のパワーは未来へのあらゆる可能性を感じさせます。

環境、食品、教育、社会。こんな子供たちの未来に暗雲を投げかける事は大人が正さなければいけないとつくづく思います。やんちゃでパワフルだけれど放射能の影響を受けやすい子供達。1人の子供を見つめるだけで、原発など止めようと思うのが正常な人間の神経です。何が何でも原発を再稼働させようとする人達の野蛮。野蛮人の嘘に疑問を持たない人たちの無知。事実をありのままに見て、少しだけ想像力を働かせば再稼働する根拠も必要性も全くない事は明らかなのに、何故すぱっと脱原発を決めれないのか。蔓延するエゴイズム。稀薄になったヒューマニズム。原発を筆頭に子供たちに受け渡してはいけないものがいくつもあります。


我が社の電気は、30%が水力、40%が火力、15%がソーラーで残りは地熱です。
2012/06/07  それぞれの電気会社が自社の電力の構成比率を明示して消費者が電力会社を選べる方式。いいなと思います。即刻日本もそうすべきだと思います。ドイツを始めとする先進国で実施されつつある電力の自由化に向けて国は全力で取組まなければならないはずなのですが、原発村を中心になされてきた長年の腐敗と癒着の構図はかなり深刻なもので、正しい改革の足を引っ張ります。原発からの脱却において関係者1人1人が自分の頭で考えられない大きな理由は「個人が誰も責任を取らなくてよい」と言う無責任極まる法律が災いしているからです。無謀な施策の結果、かけがえのない命を奪い、土地を奪い、過去を奪い、未来を奪った「恐ろしい犯罪」の責任を誰も取らないと言うのはどう考えてもミステリーです。

原発事故が明らかに人間が犯した人災であることは万人が認めると思いますが、ならば原発をあの手この手で進めてきた人間の責任がまず問われなければならないはずです。その検証がなければ原発については前に進めないはずなのです。政治家、電力会社幹部、御用学者。国民を欺き原発の真実を隠し、無責任な喧伝をしてきた人たち全員が起訴されなければおかしいと思うのです。福島の惨状を見て、心あればそれらの人間はまず「自首」しなければならないのですが、自首しない以上、国民が訴えなくてはならないはずです。法治国家ならそれがルールであるはずです。誰かが言ってましたが、サッカーでキーパー以外の選手が1人だけ手を使ってプレイするようなもの、まさに罰則がなければなんでもありと言う事になります。


流してはいけない、流されてもいけない
2012/06/06  いろいろな事が次々と起こるのが社会であり人生だけれど、どんな事も決して流しては行けないし流されても行けないと思います。その都度立ち止まって、振り返ってよく考えてからまた1歩を踏み出す。同じ過ちを繰り返さないためには必要な心がけだと思います。不完全きわまりない人間と言う生き物は崇高な目的とたゆまざる向上心を自ら課していても失速し低空飛行に陥ること度々の心もとない生き物です。そんな素質を持った生き物がよりましな存在を心がけず、偏狭な知識、考えから言動すればろくなことにはならないのは当然の事です。

これだけ多くの人を苦しめ自殺者迄出し、未来へ、特に子供たちの未来に深刻な暗雲を投げかけた福島原発事故に対して、真摯に向き合わない。反省しない。流してしまう。流されてしまう。再稼働を進める国や電力会社の姿勢は明らかに人間離れしていますが、賛同する国民が少なからずいる現実はとても信じがたいものです。原発を全否定するに足りる厳然たる事実がこれだけ明るみに出て、この反社会的で危険な原発を再度動かすなんてあまりに無責任で恥ずかしい行為です。人間がよりましな生命体になるためにも立ち止まり振り返って、過去からの事実にしっかりと目を向け、考えなければならないのが「今、この時」ではないでしょうか。


ソーラー飛行機と自然エネルギー
2012/06/05  スイスの太陽電池駆動型飛行機「Solar Impulse」がスイスのバイエルヌからモロッコを目指して飛び立ちました。燃料を全く使わない大陸間飛行を試みるそうですが、太陽エネルギーの潜在能力はまさに無限大だと思います。空気の利用や人力で始まった飛行機の歴史ですが1903年のライト兄弟のライトフライヤー号以来100年余りでこの進化です。ガソリンからジェット、ロケットエンジンへと速度と飛行距離はめまぐるしく向上しました。最初のライトフライヤー号の最高速度は48km/時、第二次大戦のイギリスのスピットファイアは最高速度657km/時、旅客機コンコルドは巡航速度が2,160km/時で音速の2倍です。現在テスト中の超音速飛行機「Falcon HTV-2」はマッハ20(時速約2万km)と言うこと。

乗り物は早ければいいというものでもありませんが、マッハ20は驚異ではあります。「Solar Impulse」は時速89kmで最初の着地地点マドリードまで17時間余りかかったそうですが、ガソリンやジェット燃料、ロケット燃料より太陽エネルギー使用の飛行機が先進のシステムであることは間違いありません。化石燃料や原子力よりも進んだ未来型エネルギー。太陽光のみならず自然界には科学がもっと進めば驚くようなエネルギーがいくつも秘められています。原発は危険なだけでなく、もう時代遅れな発電装置と考えるべきではないかと思うのです。太陽も風力もまだほとんど使いこなしていない現状を考えればまさに未来のエネルギー利用はこれからだとも言えます。車も船も飛行機も電車も全部自然エネルギーで走る世界は決して夢ではありませんが、まず原発からのシフトをしなければなりません。


大飯原発再稼働などあり得ないと思うのだけれど
2012/06/04  原発事故が再発すれば日本社会がどうなるのか、想像力を少し働かせば分かるはずです。避難区域がどうとか避難体制がどうとかの次元ではなく社会そのものが壊れてしまうのです。福島第一原発事故がもたらした様々な災難は国や東電が人間としての道義と、責任をまっとうするならば現状のようななまぬるい救済や援助ではすまないことは明らかで、その費用だけでも数十倍はかかるはずです。無責任きわまりない切り捨て同然の施策でさえ巨額の費用がかかるわけですからきちんとした文明国にふさわしい対応をとるならば、原発を推進してきたことがいかに非科学的でで場当たり的選択だったかをもっと思い知るでしょうし、すべての国民が反省し、もう2度と原発は動かさないと誓うはずです。お金のため、利権のため、醜い我欲のためでしょうか。とにかく原発を動かさなければ自らが消滅してしまうと言わんばかりの稼働への盲目的欲求です。

彼らの浅はかな人間性を見ると原発が地震だけではなく、なんらかの人為的ミスによって破綻するのではないかと不安は倍増します。どのような形であれ事故が起これば取りかえしがつかないというのが他の施設、装置と大きく違うところです。原発だけは100%安全で無ければならない。しかし人間のやることに100%はない。よって原発は動かしてはいけないのは当然の理です。電力が足りないという恐喝まがいの嘘。危険な核廃棄物をどう処理していいのかも分からないのは本当で、まず全原発停止決定をして、つくり出してしまった大量の核廃棄物をいかに安全に処分するかに全力を投じるのがまともな国家のあり方です。そして同時に福島で災難に巻き込まれた人たちの保護と補償をもっときちんとしなければ未来に対して避けれたはずの災いの種を残すことになります。野田首相に一言、とにかくまず人間になって下さいと言いたいほどの情けなさです。


人間であるならば・・カムニャックの魂
2012/06/03  アフリカ大陸のケニア北部にあるサンブル自然保護区にいたカムニャックと名付けられたライオンは肉食獣にとって獲物であるはずの草食動物オリックスの子供を養育し他の捕食者から守ろうとしたことで有名になったと言うことです。カムニャックについては、ケニアの自然保護活動家サバ・ダグラス=ハミルトンと彼女の姉で映画プロデューサーのドゥドゥ・ダグラス=ハミルトン(Dudu Douglas-Hamilton)によって、2002年の1月から2003年の8月までの間、映像に記録され『Heart of a Lioness』(邦題:掟を超えて〜メスライオンとオリックス)という50分ほどの映画にまとめられ、イギリスのBBCで放送されました。

カムニャックはライオンにしては珍しく群れをつくらず単独で行動していたそうですが、種を超えた母性本能がそうさせたのでしょうか、何か殺伐たる人間世界へのメッセージのような気さえします。バルザックの「砂漠の情熱」という短編の中に出てくる砂漠に迷ったフランス兵とメス豹との関係を思い出しました。兵士が豹の目の中に魂を見たのですが、実際その兵士より豹の魂は崇高なものでした。人間は勝手に動物より自分たちが優れていると思い込んでいますがどうでしょうか。短絡的で自分の事ばかり考えたり、損得やくだらない勝ち負けで頭の中がいっぱいになっている人間を見るととてもそうは思えません。人間であるならば少なくともカムニャックのように弱者に対する愛を持たなくてはいけないでしょう。



弱きをくじき強きを守るではお話にも絵にもなりません
2012/06/02  権力には歯向かう振りをしてすぐに妥協する。弱者には味方の振りをして次々と切り捨てる。知事時代から橋下市長の言動を見ていて率直に思うことです。原発という国として人間として根幹的な問題に対して、反対から容認への安易な切り替えは多くの反対署名を集めた大阪の住民に対する思いの無さが現れています。何故このような人間が選挙で票を集めるのか?きちっと人間性を見極めて反対している人も多くいるのだけれど原発問題と同じで何か騙されている部分があるのだと思います。現状の政治家にましな人間を探すことが困難なぐらい政治家の質は落ちてしまいましたが、かと言ってあの小泉政権と同じような流れをつくってしまっては大変です。

小泉政治の結果は大企業が潤いアメリカにお金が流れただけだったと言うことは大新聞にすら書かれていることで、何故責任が問われないのだろう?と不思議な気がします。損得や競争のことしか頭にないような人間がリーダーになれば、社会的弱者や人間的弱者はますます追い込まれてしまいます。儲からないものはダメ、自分が理解できないものはダメ、自分が感受できないものはダメなどと言っていたらそれは政治ではなく単なる偏狭な人間の自己実現の場です。小学校の学級委員でも体の弱い子を助けたり学校の不公平な部分を正そうとするぐらいはやります。政治家は自身のヒューマニズムを徹底的に鍛え上げた人がなるべきです。生き様を見ればそれはある程度分かると思います。生き様には言動と違いごまかせないものがあります。それでもなってしまった以上、その言動は鋭く見守る必要があります。


日本国憲法の重みとヒューマニズム
2012/06/01  友人が教えてくれた憲法学者、樋口陽一氏のインタビュー記事にはまさにその通りだと思う言葉が並んでいます。一部引用させていただきます。「日本国憲法が想定している人間像とは、一人ひとりが自分自身の主人公であり、主人持ちではいけない、というものです。誰かがではなく、自分で自分のことは決める。作家の井上ひさしさんは、人間にも砥石が必要だ、と言いました。砥石で自分の磨いて、立ち位置や居住まいを正す。それが憲法の言う人間像であり、人権の基本です。よく、人権というと、甘いとか、きれいごとだと受け止める人たちがいますが、実際は逆です。

誰かが決めてくれた方が、ずっと楽ですから。その誘惑は常にあります。・・・民主主義という制度は、選挙という民主的な手続きによって、独裁者を生んでしまうおそれがあります。民主的に生まれた権力であっても、国民が作る憲法によって制限する。それが憲法の役割です。政治家の側が、選挙で多数を得たのだから白紙委任で勝手なことをしていい、などということにはなりません。近代国家における憲法とは、国民が権力の側を縛るものです。権力の側が国民に行動や価値観を指示するものではありません。数年前に与野党の政治家たちが盛んに言っていた、憲法で国民に生き方を教えるとか、憲法にもっと国民の義務を書き込むべきだ、などというのはお門違いです」*インタビュー《戦時世代が語る憲法といま》 憲法学者 樋口陽一氏(2012年5月2日朝日新聞朝刊「オピニオン」掲載)<記事全文>

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