霜月/11/November
生きてる限り、個人の思いは持続可能なエネルギー 施政者や資本家が管理しやすい人間をつくるための幾つかの施策。競争、短絡、利害、偏狭、他者への無関心などが教育の世界でも家庭内でも知ってか知らずしてか行われて来た現実があります。これからの社会が目指さなければならないのは、1人1人が個性を持ち、想像力を持ち、お金とか地位とかではなく、人と人が調和しのびのびと楽しい社会がいちばんだと言う価値観を持つような人間を育てる環境を作り上げる事です。遊び心いっぱいの子供たちを育てる事。 自分で楽しみを見つけ、自分で興味あるモノを見つけ自分で遊び勉強する好奇心と想像力のある子供を育てる事です。競争原理や規律や管理でまともな人間が育たないのはこの数十年の日本の現状を見れば誰にでも分かるはずです。賢く豊かで想像力のある人間は、学校の成績や学歴や地位などを気にしなくてはいけないような教育現場からは絶対に生まれません。 過去やって来たように企業や施政者に都合のいいロボット人間を育てるならともかく、教育は「自由である」にこしたことはありません。原発問題は「幸せとはなにか」「生きるとはなにか」「人間とは何か」を1人1人が問い直す契機となりつつあります。個人の思いは生きてる限り持続可能なエネルギーであり、それは繋がり、広がり、バトンしていけるエネルギーでもあります。社会一般の価値観に影響されない「自分独自の価値観」を持った人間が1人でも多く育ち、それぞれ異なった価値観の中で、ヒューマニズムと言う一点でつながるような社会が実現した時、初めて本当の民主主義が生まれたと言えるのではないでしょうか。 小泉流とあまりにも似ている橋下氏のやり方 規制緩和がもたらしたもの、アメリカ追随の政策がもたらしたもの、結果はアメリカと大企業が荒稼ぎし、多くの中小企業や個人商店などの弱者は資本力のある強者にまさに踏みつぶされた感があります。昔からある市場は閉鎖され商店街はシャッター街となった光景が全国あちこちでいやと言うほど目に入りました。地方の人々は巨大ショッピングモールなどの影響で最後まで残っていたコミュニケーションの場を次々と失いました。 結局壊れかけていた自民党は延命し、目覚めかけていた国民意識はかき消され「日本が壊れかけています」。小泉政権がやった事の重大責任をどれだけの国民が認識しそのような首相に熱狂した自らの責任についてどれだけの人が反省、自戒しているのだろうと考えてしまいます。小泉政権の負の遺産を抱えて四苦八苦したその後の政権。政治はもはやその体を失って新たな閉塞感が国を覆っているその時、同じような手法で現れた橋下氏は大阪市長に当選。 「大阪市役所ををぶっ壊す」と小泉元首相とそっくりなフレーズを繰り返す橋下氏。権力側にどっぷりと浸かりながら国民側に立っていると思わせるそのやり方は余りにも似ていて気持ち悪くなります。「大阪都構想」「教育基本条例案」「職員基本条例案」。 どれだけの大阪市民、大阪府民が理解出来ているかは分かりませんが、おそらく小泉首相に熱狂したと同じ「雰囲気」のようなものが選挙民を覆ってしまったのだと思います。既成政党がもはや機能していない事実は今回の選挙で明らかになりましたが、国民1人1人の考えまで機能しなくなればそれは大変です。 この先、橋下市長の表立った言動だけではなく、彼の目的、彼の生き様、彼の内面を注意深く見て行かないと、小泉誕生の時の熱狂と同じく「不毛な興奮」だったと回顧するようになるかも知れません。これ以上の競争社会、強権社会、弱肉強食の社会が進行すれば日本は本当に滅びてしまうと思う人も少なからずいるはずです。 月ともんじゅ その後の飛躍的な技術進歩を考えれば現在ならもっと簡単に月へは行けるのではないだろうかと単純に考えてしまいますが、現実は何か違うようです。何かは分からないけれど現代科学は大きな壁に突き当たっているような気がします。 さまざまなトラブルの中で巨額の経費と不安材料だけを抱える高速増殖原型炉「もんじゅ」に対して細野原発相は廃炉を含めて検討して行くとの意向を示しました。福島原発の事故で多くの作業員や地域の人が被曝し、放射能汚染はじわじわと全国に広がっている現状があります。原発の安全神話は完全に崩れ、いかにして原発を無くして行くかを検討し総力を挙げて原発のない日本にするかが未来に向けての絶対課題だと思います。 「もんじゅ」を継続するなどは「問題外」で、廃炉は即時決定して欲しいものです。手のとどくような距離にある「お月さん」。太古から地球を見守って来た人間にとって縁の深い天体です。その月にさえ自由に飛行出来ない現代の科学力。危険きわまりない原子の火を扱うには科学力も精神力もまだまだではないでしょうか。 同じ20年と言っても やっぱり経験とか体験とかは人を少しだけ賢くします。友人が「僕は勇気がなく生きて来て取りかえしがつかない」と言うけれどそれは僕だって同じように思います。人はそうそう勇気一杯で劇画のヒーローみたいには行くわけはないからです。とにかく問題はこれから。それぞれの生き様の中で学んだ事をこれから存分に発揮出来るかどうかそれにかかっています。 人間が何百年も生きる事ができたならそれぞれ相当ましな人間にはなるだろうけど、人間は百年前後の寿命が決められていてそれはそれで仕方ない事。それでも今60歳ぐらいなら相当いろんな事ができるはず。経験は時間を短縮する事もできるし、時間をのばす事だってできます。 友人がいれば、愛する人がいれば、そうでなくてたとえ誰もいなくたって60歳は青春の始まりではないかと思うぐらいわくわくするものです。体力は衰え、容姿は若い時と比べれば絶句するかも知れないけれど、それはそれ人間とは何ぞや?の答えはこれからの20年です。最近90歳とかの高齢の人たちに立て続けにお会いしてつくづく思う事です。 変わるものと変わらないもの 過疎化が進む地方の町や村。車社会は近所となりの身近な世界の人間関係を稀薄にする部分があって昔ながらの個人商店はほとんど営業していません。人と人、人と店。世間話のできる馴染みのお店や近所付き合いが少なくなるのは寂しい事です。 津山から林野までの列車は一両のワンマンカー。無人駅が多くのどか過ぎる雰囲気はいいのだけれどまた廃線にならなければいいのだけれどと思ってしまいます。車内にはかしましいおばあさん3人が楽しそうに世間話。窓のカーテンは家につけるようなカーテンだし、座席の横には家庭用のゴミ箱が置かれていたり、この列車はお年寄りの貴重な社交の場となっているのです。 人間そのものはそうそう変わらないのに科学技術の加速度的な進化によって激変する社会環境。人間に恩恵をもたらして来た科学技術は、人間が賢く操作しないともともと目指して来たもっとも大切な「幸せ」そのものを破壊してしまうのではないか、恐るべき天災にもまして環境や精神を荒廃させてしまう「人災」になるのではないかとコトコト走る車内でばあさんたちのおしゃべりを聞きながら思うのです。 次のシーンを想像しよう2 原発施設の物理的な建設費、運行、管理費も巨額ですが、原発に関しては「それが余りにも危険なもののため」リスクを覆い隠す経費が次から次へと生まれます。54基もの原発が立地する場所はいずれも自然環境に恵まれた素晴らしいのどかな土地です。 しかしこれも国策のまずさ故ですが、原発立地の場所はどこも疲弊衰退した地域でのどから手が出るほどお金が欲しい経済状況です。お金が欲しいのはやまやまの住民ですがそれでも原発の余りの危険の大きさに建設反対を叫んで来た人たちも大勢います。推進派のありとあらゆる工作と嫌がらせにも屈する事なく反対し続けて来た人々はお金よりも命と地域の自然を守り子孫に残したい人々です。それでも阻止出来ずにこの地震列島に54基もの原発ができてしまった現実。 福島原発の悲惨な事故が起こらなかったら何の検証もなされる事なく破滅に近い事故が起こるまで原発は運用されていたでしょう。原発が動くと言う事は処理さえできない核廃棄物が増え続けると言う事です。原発が動くと言う事は現場に作業する人々が被曝し続けると言う事です。低濃度であれ原発からは放射性物質が出続けます。今回の事故による汚染された土地を削った汚染土だけでも行き場も処理方法もまだ確定していません。その費用は一体?想像するだけでまたしても巨額です。 まして原発周辺の家を土地を故郷を失った人たちへの補償は十分できるのでしょうか。物理的被害、精神的被害、被曝した人々の未来への不安。補償額はまたまた巨額です。そして現実に放射能に汚染された食品は全国に出回っています。検査体制すら確立しない中、安全レベルがどうこう言う問題ではありません。想像力が止まってしまいそうな原発の理不尽です。これだけの事実が明らかになって国民は何故もっと怒らないのでしょうか。 政治はドイツのようになんで原発を全廃する決定を下さないのでしょうか。ドイツが2022年までに全廃すると言うのなら、日本も同じようにまず意思決定をすべきだと思います。開発に1兆円以上がつぎ込まれ実用化のめどさえ立たない高速増殖原型炉「もんじゅ」にまだお金をつぎ込もうと言う気違いのような輩がまだいます。即廃炉にして、推進して来た人たちから国民の税金を取りかえすべきです。 「もんじゅ」建設にかこつけて私欲を肥やした人たちが大勢いる事は想像がつきます。福島原発のような事故がもう一度起こればどうなるか、想像するだけで恐ろしい事です。原発施設の専門技術者、原子力の科学者、地震工学の研究者、そして多くの見識ある人々が「原発は絶対廃止すべき」と声を揃えているのですから、短期未来を現状の火力、水力などの既成エネルギーでまかないながら、一刻も早く太陽光発電を始めとする代替エネルギーの整備を急ぐべき時ではないでしょうか。 1人1人が自分で考えること 「個」としての考え、判断力は雑多なメディアから多くの情報を得るしかありませんが、友人、知人、関係者などがそれぞれの環境で得た情報などをお互いに交換して検討する事が「自分の目で見る」と言う感覚に近いものです。スポンサーの力が反映しすぎるテレビからの情報は明らかに偏っていますし、新聞はテレビほどではありませんが不十分で、ネットや雑誌は先鋭な情報もあるけれど不確かな情報も混在していて注意は要るけれど参考にはなります。 原発や放射能の問題が深刻だとは分かっても、どれだけ深刻で危険な問題かを自分自身確信するためには多くの判断資料が要ります。大阪の知事や市長を選ぶ問題も、平松氏や橋下氏の言動だけでなくその中身の人間性を見抜かなければ判断のしようがありません。口先の改革はどの方向から向かっても必ず大企業や強者の食い物にされると言うのは、前小泉首相が証明して日本はかなりぼろぼろになりました。同じ事が繰り返されないためにも、1人1人が自分の頭で考え自分自身が「個」として判断する事が大切だと思います。 自由競争、能力主義を唱える一方、管理社会に便利な想像力のないある種従順な人間を作って来た日本の教育環境。偏った知識や偏った試験で選別された人間はヒューマニズムと言う人間が最も大切にしなければならない精神性を喪失します。1人1人が「自分の頭で考えれる人間づくり」こそもっとも大切で、それは管理とか抑圧とか競争の中からは生まれ得ないものです。
イタリア内閣、政治家はゼロ 新首相のモンティ氏は1943年スイス国境の工業の町バレーゼに生まれ、ミラノのボッコーニ大学で経済と経営学を学び米エール大学に学んだ後、トリノ大学教授を経て母校ボッコリーに大学の学長を務めたと言う経歴。知人の評は「まじめ」と「厳格」。トリノ時代の助手はモンティ氏を「ユーモアはある、すごくアカデミックだけどね」と評している。ベルルスコーニ前首相と対極にも見えるモンティ氏がイタリアをどうリードしていくか注目です。 グスタボ・イソエ/物は見ようとしたときにはじめて見えてくる 絵に関してはグスタボ・イソエの言葉「近年になってますます考える事の多い「デッサン」の意味は、物の成り立ち、仕組みを知ることであり、デューラーやレオナルド・ダヴィンチの作品に通じる内なる力を表現する最も基本であると同時に、自然の摂理を引き出す方法でもあると思うのです」が全て語っていると思いました。街角で見た異様なまでのリアリティーは原画の前に立つと皮膚の皺や傷や細胞が作者の目で再構築されたかのように描かれていて写実を超えていると感じました。 大阪の高校、美術研究所を経て20歳の時にシベリア鉄道で渡欧しスペインに入ったと言う作者。2007年、享年53歳で亡くなったと知りましたが画業を続ければこの先どれだけ「デッサン」の深みを辿れたのだろうと思わせる作品群です。絵と並んで飾られていた作者の幾つかの言葉。その中に「リアリズムとは、言うまでもなく写実主義の事であり、写実とは実を写すと書く。 そして実とは、真実の実であり、現実や果実の実でもある。実とは肉眼を通じて精神に映し通した像を言うのだろうか。見つめれば、見つめるほど物の存在が切実に移り、超現実まで見えて来る事がある。そこまで実感し、感動を起こす精神の繊細さをもって初めて実を写せるのではないだろうか。習い覚え、慣れ親しんだテクニックだけに頼って機械的に描かれた画面に、実が宿るはずがない」この言葉は絵の世界を超えてあらゆる芸術、哲学、科学に通ずるように思います。 自国民が苦しんでいる時に同じ原発を他国に売り込もうなんて・・・ マハラシュトラ州ジャイタプールでは反対運動の1人が警官隊との衝突で死亡しているが政府の原発推進策に従い州政府は反対派を力ずくで押さえ込んでいる。米ロ仏などの先進国は原発の売り込みに躍起で、原発事故を起こした日本も売り込みに参加している。クダンクラムの反対派住民は米ロ仏に対して「インドに原発を売るな」と訴える公開書簡を提出。 住民の先頭に立つ元大学教授のウダヤ・クマールさんはこの夏訪日し、福島も訪れた。クマールさんは「自国民が苦しんでいる時に、同じ原発を他国に売り込もうなんて、日本はそんな非人道的な国なのか」と問いかけていますが、それは日本の多くの国民も思っていることです。 「平和がありさえすればできることがたくさんある」 「それ以前の政府は社会の問題に取り組みさえしなかった」と語り2期目の課題について「1期目に不十分だった汚職の取り締まりを強化する必要がある。教育、奨学金もより充実させて行かなければならない」と指摘し「教育問題は自分も含め民間で出来る事をやって行く」と述べました。胸のすくスピーチです。長い内戦で失われた多くの命、声を上げられなかった多くの意志が2人の女性にのりうつったかのようなエネルギーです。「平和がありさえすればできることがたくさんある」日本の政治家や国民は彼女たちの魂を学ばなければならないと思います。日本にはまだ平和があるのですから。 生活保護受給者が205万人 5年ぐらい前に西成の路上で暮らす人たちと話した時には、もう以前のように日雇いの仕事すら見つからないとこぼしていました。おじさんの話では募集の数が少なくなかなか割り込めないと言う事です。2010年の自殺者数が31690人にのぼる日本。自殺率は主要国G8諸国、OECD加盟国、双方とも日本が1位で異様です。 治安も良く物もふんだんで豊かそうに見えるこの日本で一体何が進行しているのだろう?と思われる人は多いでしょうが、格差と貧困の問題は着実に日本を蝕んでいます。他者への無関心、政治への無関与、人間関係や精神性を重んじない風潮はますます人間の孤立化を生み、必然的に自己防御の殻を分厚くして行きます。そしてまた他者への無関心と精神の鈍化と言う悪しき循環をどうしたら止められるのだろう。 福島原発の事故以降多くの人が原発問題がきっかけとなって人間の本質的な問題、命とか環境とか未来に対して今までよりは真剣に考えるようになったと思います。敗戦から現在まで流れ続けて来た「どこか日本人の本質には合わない価値観」を見直す時が来ているような気がします。 国民総幸福量 「物質より精神の充実」を重んじ「国民総幸福量」とでも言うような独自の概念を持つ国。その概念をおろそかにしたがゆえに多くの先進国が混迷し、急拡大するインドや中国の政治、経済の陰で多くの悲劇が起こっています。国の規模が余りにも違い過ぎますが、ブータンの神髄からは学ぶべき点があるはずです。 「物質と精神」この2つの要素をもっとつきつめて考えないと科学は空回りして「幸福」とはほど遠い状況になることが感じ取れる状況にまで世界は来ています。ブータンの奥地で約80年ぶりに確認された「ブータンシボリアゲハ」。ヒマラヤの貴婦人と言われる美しい蝶を日本蝶類学会の調査隊が見つけたと言う事です。大英自然博物館に5匹の標本があるのみだと言う希少な蝶。そんな蝶が生きれる環境をブータンの人々は守って来たと言う事でしょう。 知らない事は罪だけれど 要するに本当に知らなかった」と語りつづけて「だから僕にとって今年は非常に恥ずかしい年。その年に賞をもらう事は運命だと思っています」と話していますが、福島原発事故の後、大勢の人が同じ思いを持ったはずです。知らない事の罪。それは確かな事だと思います。 でも、原発に関しては国や電力会社の情報操作は明らかでマスコミを通してきちんとした情報を得られなかった事は「知らせなかった罪」であり、これは犯罪的です。同時に知らなかったと言うより「知ろうとしなかった罪」もあるのではないかと思います。原発事故以後さまざまな業種、年齢の人たちと話して思ったのですが「知っても感じない罪」と言う人もいます。少数ですがちょっとショックを覚えます。 これだけはっきりした事実を分からないはずはないと思いますが、どこか思考停止しているような人も案外多くいるのかも知れないと不安を覚えます。影響力の大きい小沢征爾さんのような各界の著名人がもっと声を大きくして「原発はなくすしかない」「知らない事は罪」だと言い続けて欲しいものです。 小惑星の接近と太陽系外惑星の新たな発見 これだけ大規模な自然災害が多発すれば国連を中心に各国が力を合わせて強力な国際救助隊を組織しないといけないのではないかと思ってしまいます。せめて世界の軍事力の半分を救助隊にあてればどれだけの命が助かるかとはいつも思う事です。 そんな中欧州南天天文台はこのほど、南米チリのラ・シヤ天文台で行った観測で、新たに50以上の太陽系外惑星を発見したと発表しました。その中には地球の数倍の質量を持つ巨大地球型惑星が10個以上あって、生命が存在する可能性もあるとの事で更なる探査が待たれます。 太陽系から近いと言ってもその「HD85512b」と呼ばれる惑星は地球から約35光年の彼方と言う事で現状の地球科学では現実味のない距離ですが、科学は思いもよらない進化を遂げるので夢は膨らみます。賢く進化した地球外生命体が地球内生命体にいいアドバイスをくれる時代がこないものか、そんな気になる昨今の地球情勢、特に日本情勢、さらに大阪情勢です。 少し遅いけど仏教界にも原発を問い直す動き 「原発を選ばないと言う生き方」と題された永平寺のシンポジウムでは松原徹心副監院が、1970年前後に「もんじゅ」や「ふげん」と菩薩の名を付けられた原子炉についても当時の原子力に対する知識では致し方なかったけれど今は「原子力は地球上の生命の理論に合わないことを知らされた」と語りました。ローマ法王を始め人道的な指導者であるなら異口同音に同じメッセージを発して欲しいものです。 決して乏しくはない日本の資源 科学技術やアイデアそのものもその国の強力な資源ですから国をあげてきちんとした資源対策、開発を進めれば不安定な原油や危険な原発に依存する度合いを減らして行く事は可能に思えます。さまざまな国の思惑、要因が大きく影響する化石燃料や原発に依存している限り安定した経済基盤が出来るはずもありません。 福島原発の大き過ぎる教訓を糧にして、自然エネルギーを中心に自給自足のエネルギー国家を未来に向けた指針として日本の舵を切れば、経済も文化も向上するだろう事は明らかだと思うのです。 70億の人間と地球の未来 今欧米で問題になっている経済格差の問題は深刻だけれど、先進国と後進国の国家間の格差の問題はもっと深刻で飢餓と言う根源的な状況すら解決出来ない現状があります。止めどない消費、飽食が蔓延する先進国の陰で飢えて死んで行く人が大勢いる国があります。あまりにもアンバランスな国際情勢です。国連が予測する2050年の世界人口は93億人。 人類が賢く連携して策を施さなければ地球温暖化などの環境の悪化に加えて、何かとてつもない混乱が起こるのではないかと危惧するのが当たり前ではないでしょうか。エゴイズムや近視眼的な政策を各国が取って行けばエネルギーの浪費に歯止めがかからず、有限な資源の争奪から紛争が起こる事は目に見えています。 紛争は新たな飢餓と憎しみを生みます。年々増えつつあるように思われる自然の大災害。原発事故のような人為的な大災害。想像力を少し働かせれば暗雲立ちこめる未来が見えます。世界中の意識ある人々が現状を少しでもいい方向に改める努力、自然エネルギーの効率化と実用化など未来に対して準備、整備しておかなければならない事は余りにも多くあるのではないでしょうか。今、科学技術の正しい力が試される時代が始まりつつあるのだと思います。 61回目の確認 時は流れに流れて61回目の誕生日。14才の時に山から転落死した父はまだ50才でした。きっと僕も50ぐらいで死ぬんじゃないかと恐れていた40代もあっと言う間に過ぎ去って仲のよかった旧友が1人また1人と続けて3人が逝去して、命とはなんだろうとあらためて考えます。突然の病。 まだまだ生きたかったに違いない彼らの事を思うともっと頑張らねばと思うけど、もう少し一緒に酒を酌み交わしたかったと言う思いは誕生日の今日、特別にこみ上げて来ます。原発やTTPの事などヒューマニストだった彼らは僕以上に怒って行動していただろうけど、あの世でかっか来ている顔が浮かぶようで笑ってしまいます。正義感の強い弁護士の友人、深夜のスーパーで頑張る弟、人生に苦悩する真摯な彼女。鉄工所のきつい仕事を淡々とこなす学友。まだこの世で生きている友ともっと力を合わせなければいけないなと思う夜です。 知らない国を知るために まず基本的な各国の情報ベースをつくろうと、ネットを駆使して作り出したはいいけれど、やっぱり世界は広く複雑で難解。200余りの国々のニュアンスを把握するだけでも大変だと思い知りました。最低限のベースに独自の視点を加えて行く事が目的のページなので作業はいよいよこれからですが、これはもう空いた時間でやるライフワーク。楽しみはあります。 歴史と遺跡、音楽や絵画、建築。現在の暮らしの姿など知りたい事は山ほどあって、はっとする未知に遭遇する事は間違いありません。知らない居酒屋を発掘するのはそろそろ止めなければなどとも思いますが、それこそ年期の入ったライフワークで止めようもありません。 全ての子供たちのために/大人の責任 子孫を残す事なく、それは自身の考え方であっても運命的なものだとしてもその人の生きた足跡は幾人かあるいは多くの人の脳裏に刻まれ、記憶となって引き継がれます。1人の人間の生き様は社会と言う集合の中の遺伝子のようなものです。社会的遺伝子のようなものである以上、それはまた次の社会の中に引き継がれるのも当然で出来ればより人間的な社会的素因、遺伝子を増やしたいものです。 生まれた社会が少しでも人間的で調和がとれていれば多くの子供たちは伸びやかに育つでしょうし、気持ちのいい大人へと変化して行くでしょう。家庭は社会の縮図ですから同じ事が言えますが環境の良し悪しを決定するのはそれを形成する大人の責任です。まだ脳も心も柔らかい子供たちの価値観や道徳観に多大な影響を与えてしまう環境を左右するのは大人の意識の問題ですし責任なのは当たり前の事です。大人は未来の子供たちのために身を削り学び行動し続けなければなりませんが、それは今を生きる子供たちの指針でもあります。 大人とは子供たちにいい背中を見せれる人の事、子供とはよくも悪くもあらゆる事を吸収してしまう人の事だと僕は思います。子供たちにいい背中を見せれない大人は大人ではなく物体としては大きくなっただけの心の成長しない単なる古びた人間です。大人とは年齢ではなくヒューマニズムを持ち得た人の事だと言うべきかも知れませんが、それは今と未来に向けて人間としての責任を果たそうとする姿勢そのものだと思うのです。 消えた村の悲しみ 放射能と言う得体の知れないものの脅威。25年経った今が過去にならない原発事故の恐ろしさをあらためて感じます。福島第1原発では今日も放射性キセノンが検出され核分裂反応が止まっていない事が報告されましたが、あまりにも不確定要素が多い原発です。 あれだけの事故があって原子炉の冷温停止もままならず、土壌汚染の問題や食品など内部被曝の現状の把握も出来ない中、原発の再稼働や輸出などあり得ない事ですが、それが現実に起こっている事にこの国の危うさを感じる人は多いのではないでしょうか。福島原発を廃炉にするだけでも30年以上かかると言う現実を考えれば、未来を見据えた正しい決断を一刻も早く実行に移さなければならないと思います。チェルノブイリの原発を覆う「石棺」が老朽化し現在新たな「石棺」の建設が行われています。25年、50年、原発事故は一過性ではなく危険は延々と続きます。
|
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。