神無月/10/October
幼少の教えの永遠性 君は、どこにいても、誰といても、同じ接し方をしなさい」この言葉を幼い隆さんに繰り返し説いたと言うのです。これは僕が幼い頃に父から何回も聞かされた言葉とほとんど同じで、おそらく同じ頃に同じような事を教えられた人は少なからずいるはずだと思います。自由を尊び人を愛する人なら我が子に対してどうしても伝えておきたい言葉ではないかとあらためて思います。加古隆さんのように音楽を愛する人にとって偏りのない心は絶対条件ですが、絵でも文学でも科学でもそれ以外の道であっても人間であるならば誰もが持たなければならない羅針盤です。 偏見や偏重のない人間。偏向は排他につながりますし、エゴイズムの核になってしまいます。小さな争い、小さな差別、小さな無関心が集まって、社会の歪みを生み出し、それの最悪の結果が戦争です。世界中の少なくとも自由な教育を受けた人間1人1人が小さな調和、小さな理解、小さな関心を持ってそのネットワークを広げて行かない限り、本当の人間的な世界は実現しないだろうと思います。あらゆる生き方、あらゆる個性の底流に純粋で偏りのない赤い血が流れていなければならないと思うのです。
圧倒的な星の下に 時によっては近くのお月さんだけが、宇宙の存在を知らせてくれます。久しぶりに京都の田舎にある伝統工芸の学校を訪れて若い人たちの作品を見ました。石、竹、和紙、漆、木、金属。素材は違えども若き思いは星のようにきらきら輝いて、経済一辺倒の悪しき大人の世界をしばし払拭してくれます。こつこつと思いを込めて作られた作品は1つ1つがキラ星です。 コマを回したり、ビー玉で遊んだり、みんな子供時代は吟遊詩人や哲学者のようだったのにそこまで変わらなくてもいいだろうと思うほどの変わりよう。純粋さ好奇心は消え失せて、代わりに残ったものは偏狭と横暴と無意識。田舎町の暗い夜道を歩きながら空を見上げると満点の星ではないけれどそれでも圧倒的な星たちが輝いています。 太陽や月だけではない宇宙。無限の彼方があること、無限の命があること、無限の可能性があることを星たちは教えてくれます。そして無限の謙虚さを持たない限り、無限小の地球で生きる人類には未来がないのだという事も星たちは教えてくれます。空気の澄んだ真実の空を覆う圧倒的な星を見ればきっと誰でもそう思うでしょう。 小泉流と橋下流の共通する危うさ 客船日本丸はどうなるのかと考えてしまいますが、おぼつかない首相やインテリアにこだわる大阪の政局を見ていると背筋が寒くなります。就任以来の橋下知事から一貫して受ける印象はお金の事、権力の事、競争の事ばかり。もともと商売ありきの土地柄である大阪は意識の低いなれ合い行政が延々と引き継がれて来た実態があって、ある意味あの質の悪かった小泉流を真似る橋下氏のやり方は溜飲が下がる部分もあって支持率は高いのですが、正しい政治家としてのもっとも大切なもの、ヒューマニズムが欠落しているように感じます。 前小泉首相がやった事の結果は大企業が大もうけしたこと、格差が広がったこと、人間も地域も弱者はますます追い込まれる結果になったこと、アメリカへの盲目的追随とイラク戦争の一端を担ったことなどその責任の罪は重く取りかえしのつかない事ばかりです。傲慢からの歯切れの良さ、短絡からの行動力、偏狭からの決断ほど危険なものはありません。 根底に流れる謙虚さ正しいインテリジェンスから来る公平さ、人間個々を見つめる優しさがなければ、構造改革は必ず悪者、強者に利用される結果となります。特に教育改革に関する早急は人間性そのものに強く影響するものですから、熟慮、鈍行でなければなりません。高圧や形式や過度の競争主義から優秀な人材など絶対に育ちませんし、これからのグローバル世界を考えるなら、経済や競争に翻弄されない精神性の高い人材を育成しなければますます世界に取り残されて行きます。 見えないシグナル 自分と言う存在の中にある空間を自意識で埋め尽くせば何も見えず何も聞こえませんが、自我を圧縮するか削るかして自我に占有されない空間をつくれば、見えて来るもの、聞こえて来るものは必ずあります。それを認識する事は新たなる苦悩を増やすだけかも知れませんが、「生きる」絆を強くするかも知れません。無数に交錯する生命の糸。あらゆる波長の色や音が空間を埋め尽くしているのだけれど、大切な色は見ようとしなければ見えない色で、大切な音は聞こうとしなければ聞こえない音です。それでもこの地球と言うリンゴの皮よりもっと薄い部分に生命は密集し無数のシグナルを発し続けている事だけは事実です。 危険の集積 そんな状況下での意識としてはあまりにも非人道的です。文科省が今頃になって汚染マップなどを公表していますが、多量の放射性物質が放出された3月当時の情報を今知らされても何とも言いようのない空白感と不信感がよぎるのは致し方ない事です。24日の朝日新聞で「高線量の中古車流通」と言う記事がありましたが、内容は「放射線量が高く輸出を認められなかった中古車が全国で流通している。規制がない国内市場に紛れ込むとチェックは難しい・・・」輸出業者の1人は「高い線量が出ると除染が大変なので規制のない国内オークションに出す」これが法治国家と呼べるでしょうか。中古車でこの状態だったら、無数とも言える海や陸の産物の安全検査なんかとても出来ているとは思えず、微量とは言え特に幼い子供たちへの内部被曝の蓄積が恐ろしいこのごろです。 ビッグイシュー 元がロンドン製と言う事もあって雑誌は垢抜けした印象があってこれなら売れるかもと感じました。それから数年、大阪各地に立つ販売のおじさんに注意を払って時に「売れてますか」と声をかけましたが、「なかなか売れません」と言う返事が多く先行きが心配になりましたが、年々販売するおじさんの姿を見る場所が多くなっています。 路上生活者の自立支援と言う意図がどれだけ実現出来ているのかは分かりませんし、方法論も賛否両論あるようですが、個人的には賛成です。雑誌の内容がビッグイシューでなければ見れないようなものになればもっといいとは思いますが、そのためには編集、制作に関して国や自治体が経費を援助する必要があります。理不尽で不法な事に山ほどお金が費やされる日本ですが、人道的な事にはなかなかお金が流れません。津波と原発事故と言う二重の被災に苦しむ福島の人たちへの救済も見ていて歯がゆいものですが、日常的に存在する生活弱者に対する援助の手も、なまぬるく本腰の入ったものではありません。小さな「ビッグイシュー」が問題提起するもの、それは通常に生きる人たちの意識に対する小さな控えめな問いかけのような気がするのです。 国変のゆくえ カダフィ氏の圧政から解放されリビアのトリポリでライフルをかざした子供たちが勝利を祝う写真が新聞に掲載されていましたが、手にした銃器は幼いいたいけのない子供たちの表情さえ不気味に見せてしまいます。テロ、独裁による人権蹂躙は絶対に許す事が出来ないものですが、テロや独裁の背景や原因を追求するためにも首謀者とされる人間には生きて証言させるべきではないかと思うのです。米軍とNATO軍の圧倒的軍事力を背景に遂行された2つの事件。真実を知ることは容易でない事は感じますが、国際社会は出来る限り公正な目を持って国変の今後を見つづけて行かなければなりません。 季節は巡って そして父の親友は先月永遠の眠りにつきました。8月に岡山の病院で父の親友だったおじさんの顔を見た時、父もまたまだ生きている気がしました。父と一緒に笑っていたおじさんの顔が、父の死を打ち消すのです。父が死んでからの47年と言う月日がとても本当の事のようには思えませんでした。 そのおじさんが亡くなってなんだか父も本当に死んだような気がします。人の心に刻まれた記憶とか歴史とかが感覚に影響するのでしょう。逝ってしまった父や母、友人たちが生きていたら今回の原発事故にまつわる諸々の結果、現状を見て怒り心頭に達するのは確実ですが、彼らの分も何とか生きて表現しなければ子として友人としての名折れだとあらためて肝に銘じる前夜です。 あっと言う間のタイムとラベル 古い土塀、丁寧に細工された格子窓、木造建築の質素だけれど繊細な味わいが伝わって来ます。今は非日常的空間だけれどかってはこれが日常で、この路地でどんな会話が行き交っていたのだろうと想像しながら歩くとどこかの木戸ががらりと開いて、江戸のおかみさんが出て来そうな気配すらします。ここ今井町は小さなエリアだけどもし京都市や奈良市全体がそっくりそのまま保存されていたらその神秘性はいかほどのものだったろうと想像は膨らみます。 古きものには新しき技術や感性が及ばないものが確かにあって、それは時代が進めば進むほど示唆に満ちているのだけれど、行政の明のなさと古いものへの無理解が重なって次々と壊されて行きます。もの思いにふけりながら表通りに出ると、いきなりトラックに引っ掛けられそうになって、短いタイムトラベルは終わりました。
心の栄養 これは心の問題にも言える事で、行こうと思えばあちこち旅する事もできますし、本でも映画で見ようと思えば見る事ができます。知ろうと思う気持ちさえあれば、大抵の情報は得る事が出来ますし、絵でも音楽でも文学でも接する事すら困難だった時代に比べればその自由度は計り知れません。 ですが体の栄養と同じく心の栄養に関しても偏りがあるのは否めない事実で、よく言えば専門家だけれどもっと考えれば専門馬鹿としか言いようのない偏った大人が増えています。自分の専門以外の事は関心がなく、自分の小さなポジションからしかものを見れない考えれない大人がいっぱいいてそれがまた次の偏狭な世代を作って行くと言う恐ろしい循環を起こしつつあります。 アメリカ主導の戦後行政の中で日本が取って来た短絡的な復興策、物ありき、お金ありき、競争ありきと言う流れは敗戦からの物理的復興に関しては功を奏しましたが、1人の人間としてどうあるべきか、1つの国家としてどうあるべきかと言うもっとも大切で根源的な価値観をお金と物に埋没させてしまいました。 科学技術が進めば人間生活の物質的向上は必然的な事でありますが、精神性においては同じように向上するわけではなく、経済を優先させすぎるとむしろ精神は退化する事を多くの識者が指摘しています。食の栄養の偏りはいろいろな健康障害を引き起こしますが、心の栄養の偏りもまたいろいろな人格障害を引き起こします。健康障害は個人的問題ですが人格障害は他者を巻き込む社会的問題です。偏狭な知識、体験にもとづく考え方は他者や社会全体に対する無関心に繋がり、あらゆる社会悪の要因となります。 心の栄養不足が感情や情緒と言う人間が本来持つ特性を消し去ってしまうのです。子供の頃の自由な感性、青年期の公正さや正義感を十二分に培うためには膨大な量の心の栄養が要ります。教科書的知識も最低限は必要でしょうがそれより、山に登り川で泳ぎ、旅をし、文学を読み、音楽を聴き、友人と朝まで語り明かす機会が山のように要ります。「心の栄養」を効果的に吸収出来るのは若い時です。幾つになってもそれは吸収し続けなければなりませんが、それが出来るのも若い時代に基となる土壌が出来ていなければ難しいことです。 今回の原発事故で明らかになった非人間的な人々。別の表現をすれば彼らはみんな心の栄養を採り損なった人たちです。ある特定の知識と偏狭な体験をもとに社会的な構造に組み込まれ流されてしまった可哀想な人たちです。学者、官僚、政治家、実業家、ゼネコンや電力会社の上層部・・・原発にまつわる悪事は象徴的なものであり、しかもあまりに危険が大きいため看過出来るような物ではありませんが、その他にも類似した社会悪があまりにも多すぎます。そのほとんどは心の栄養が足りないからではないかと思えます。 あらゆる精神世界の人に ただ僕は思うのです。この宇宙に銀河系を始め大小、それこそ無限の星星が存在し、いろいろな生命が無数に存在している事実は誰でも想像できますし、誰も否定出来ないものだと思うのです。そんな認識のもとに思う事。それは人間は人間であって人間でなければならないと言う事です。 これは僕のそれこそ人間としての勘ですが、人間はまずやさしくならねばいけない、次に命を大切にしなければいけない、そして今ある知性、音楽と絵画と文学と科学にまず心をゆだねなければならない、なぜならばこの地球と言う小宇宙で人類が編み出した唯一の答えですから。 宗教や哲学もありますが、それは1つの役目を終え、本当にそれが役立つのはもっともっと先の話ではないかと僕には思えるのです。考えて見て下さい。今の社会、あらゆる宗教や哲学とは言えない教理主義者がお金のために信者を募って、ありとあらゆる方法で、一個の人間を思考停止に追い込んでいます。今精神世界だと思っている人たち、本当に考えて下さい。 自分の心で、自分の頭で。そうすれば友達がいちばん大事、価値観の合う人がいちばん大事。*価値観は自分の否定的生き方の都合ではありません。とにかくある特定な考えだけには絶対傾かないで欲しいと思います。キリストや仏陀のように確かにすぐれた人間はいます。芸術家にも哲学者にも科学者にもそれは歴史上、そして今も数少ないけど存在します。ただこれは絶対言える事ですが、そのような人はどんな組織も作らないし、どんな掟も作りません。 それだけは真実です。今、これだけエゴイズムが蔓延して、それと比例するように宗教や組織が増えています。それは当然の事です。だってキリストではないけれど汝の隣人を愛する事が出来れば、そんなもの関係のない事ですから。僕は教師ではないけれど、本当に日本の若者には言いたいです。まず、友人を愛せと。 それからまず愛らしい動物や大きな自然を愛しろと。友人1人いたら人生はやっていけるし、プラス恋人1人いたらそれはもっとやって行けるし、プラス尊敬出来る親や教師がいたらもっとやっていけるし、それらが全部なければかなりやっていけないけど、それでも子供の頃に感じた幾つかの本や、夢中になった素敵な音楽、大好きだった猫や大好きだった大福餅の甘さだけでも人は守られると僕は信じます。 作家の野澤夏樹さん「小さな子犬をしつけるように」 我々はこの国の電力業界と経済産業省、ならびに少なからぬ数の政界人からななる原発グループの首根っこを捕まえてフクシマに連れて行き、壊れた原子炉に鼻面を押付けて頭を叩かなければならない」猫が大好きで犬が大好きな僕にはよく分かる言葉です。ただし、原発ムラの人間は子供でもなくいたいけのない犬や猫のような生き物ではありませんから、鼻面を押付けて頭を叩いたとしても躾は出来ないような気がします。 彼らの手足の一本でもねじとって、痛みとは何か、命とは何かを教え込まなければならない気がします。池澤さんの怒りは全く僕もそう思いますが、犬や猫の子のような純粋な部分は一切ない化け物のような連中ですから、恐ろしい放射能すら自身が細胞を侵され死に至る恐怖を味わった時にしか反省はないと思われます。 犬や猫のようにすぐれた生き物ではない、同じ人間ですからそう言うのはしんどいですが、人間はすぐれた生き物にでも、全く下劣でどうしようもない生き物にでもなれるあまりにも危うい生命体です。だからこそ人間は諸刃の剣としての存在価値をこの大宇宙から試されているのではないかと思うのです。 でもとりあえず放射能が安全だと言う卑怯な学者や政治家は池澤さんが言うように、壊れた原発の施設に一週間ほどくくりつけてその自ら大丈夫だと言っている放射能と向き合う時間を作ったらいいと思います。原発の作業員の人たちは、企業側の人たちは責任感から、雇われ側の人たちは生活苦からあるいは無知からその現場で放射能を浴びているのですから。
馬鹿な連鎖を止めなければ しかも水を被った機が修理可能かどうかを調査する費用に136億円かかったあげくの判断です。この費用を被災地の救済にあてればどれだけの事が出来るかと思うと誰でも腹が立つでしょう。30億円かけて開発した原発事故用のロボットをゴミ同然に捨てておいて、原発事故後あわててアメリカのロボットを導入するなど馬鹿ではないかと思える判断や対応が目に余ります。それらのつけは全部税金ですから、国民がもっと怒るのが当然だと思いますがそう言う声はちらほらで情けないと言うか不思議な国です。 医療にしても福祉にしても住宅制度にしても教育のあり方にしても欧米先進国と比べて劣っている部分が多すぎますが、同じ先進国としてそれらを比較し問題視しない風潮、特にヨーロッパ諸国の実情に関するマスコミ報道の少なさには意図的なものすら感じられます。 経済大国日本が実際はこんなに劣った国である事実を国民が認識するのが怖いのかも知れませんが、それはあまりにも卑賤な考えです。日本の特徴である経済力や科学技術を本当に活かせるのは文化国としての誇りを1人1人が持った時です。ヒューマニズムにもとる馬鹿のような話が少なくなり、日本人1人1人の精神性が先進国の一員として豊かになった時です。 国も企業も家庭も個人も中身がなくてはどうしようもありません。内面的な進化がなければ次から次へと馬鹿みたいな連鎖が起こり、今回の原発事故のように大量の放射能を大気中や海中にまき散らしてしまうような事態を引き起こします。日本はのみならず世界にとって大迷惑な事をやらかす国に成り下がってしまいます。アジア諸国の加速度的発展と中国、インドの巨大化を考えた時、日本が先進の背中を見せる事が出来ればその影響の大きさ、意義は想像に余ります。そのためにはまずこの日本、日本人1人1人が自覚を持たねばならないと思うのです。 時代と女性の気骨 字には決まりがあるっていうのがだんだんうるさく思えてきました。たとえば「三」と言う字は横三本と決まっていて、四本も五本もあるいは千本も引いたらいけないでしょ。犬が柱につながれて、綱の長さの範囲しか動けない、そこから出られない、書はそういうもの。私は横の線をさーっと無数に書いてみたい、空を飛ぶ鳥のように自由に線が引きたい。ながーく永遠に尽きないような線を引きたい・・・・」 国際協力機構で理事長を務める緒方貞子さんにしてもその生き方を貫く気骨としか言いようのない強さが世界のヒューマニズムの一角を支えていてその信頼感は絶大です。女性の強さ、男性に比べ不利な時代環境の中で培われた反骨精神がその強さの一因であるのは間違いないでしょうけど、まるで「自由」と「個性」と「慈愛」と言う人間を形作る根源的な性質が生まれつき備わっていたかのような生き様です。明治や大正と言う時代環境をくぐり抜けて生きて来た女性にはそんな気骨が備わった人が多いように感じます。
誰に命じられたわけではなく 人間は元来そんなに強くも正しくもないからあらゆる生き方を否定は出来ないけど、もしあらゆる時代に人間的として誤った事に警鐘を鳴らし戦う人が1人もいなかったら、間違いなく世界は滅んでいたでしょう。あらゆる場所あらゆる時代あらゆるシーンで、たった1人の人の意志が、思いが、命への愛情が、理不尽や不条理な世界との戦いを続けて来て、この美しい地球は存続して来たのだと思います。 1人だと思っても実際はそう言う人が点在していて、それはある種のヒューマニズムネットワークを歴史上ずっと作って来た事実もあります。勇気や信念に恵まれた人などもともと存在しないのは明らかです。オギャーンと生まれて、身近な世界から1つずつ学び、叱られ、反省し、遠くの世界から多くのアドバイスを受け人間は成長し、誰に命じられたわけではなくヒューマニズムを身につけ行動します。1回きりの人生、まさに一期一会の出会と経験の連続だけれど、それは未来へとつながっていて、夢もあり楽しみもあります。 現在の平和そうに見える日本の背景にも恐ろしいものがとぐろを巻いていますけど、少なくとも戦時中の日本のように人間的な事を一言発したら、憲兵がやって来て暴行や拷問を受けるような時代ではありません。ならば、なんで1人1人がもう少し自分の頭で考え、自分の意見を発し、自分なりに行動しないのか、僕にはよく分かりませんが、そんな人間が1人でも増える事しか、人間的で楽しい社会は実現しないのではないかとずっと思い続けています。 子供の心 お母さんもそれに気がついたらしく雑草のそばに子供を近づけると子供は変な声を出しながら手を振り回して喜んでいます。彼にとっては何か特別なものを発見したつもりなのでしょう。子供の好奇心と感受性。一本のまっすぐな雑草に何を感じたのか分かりませんが、その草を子供の目で見ればやはりその一本はただものではないように見えます。先日亡くなったスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式の祝辞で述べた言葉「常にハングリーであれ、常に愚かであれ」は常に好奇心を持っている子供の心を忘れるなと言う事なのでしょう。 非暴力のために戦う女性 腐敗した独裁政権や内戦が続く中、貧困は蔓延し人間としての人権はおろか命の補償さえ確保出来ない国がまだ数多くあるアフリカ。リベリアは1989年から14年間に渡った内戦で27万人が死亡し80万人が難民となった背景の国で弾圧の中独裁政権を批判し続けて大統領となったサーリーフさんはノーベル賞を受けて「この賞は全てのリベリアの女性に贈られるものです。 潜在能力があるのに女性はずっと無視されて来た。世界中全ての女性が不正義に立ち向かう力となる」と語りました。イエメンの人権活動家カルマンさんは「この賞を『アラブの春』全ての活動家に捧げたい」と首都サヌアの抗議デモ会場で語ったそうです。サヌアの大学構内で学生らを率いて始まったデモは若者を中心に日に日に膨れ上がり民主的で近代的なイエメンを実現するまで平和運動は続きます。日本の若者が情熱を取り戻し、日本の悪政はおろか世界の国で苦しむ人々にまで情熱を降り注ぐような風潮にならないかなとため息まじりに思いますが、拝金主義と自分だけよかったらいいと言う戦後日本の流れは人間を劣化させて来ましたし、それはそのまま日本全体の劣化に繋がっています。間違った流れに対してまず1人1人が「ノー」と言う一言を発しなければ何も変わらないでしょう。 オーストリアの心 原発の持つリスクの大きさを当時どれだけ分かっていたのだろうか?と今の日本の現状を見ていると思ってしまいます。どんな原発にも地震などの自然災害以外に人為的なミスやテロ、軍事攻撃のような防ぎきれない危険がつきまとっていて、いったん破綻すると福島原発事故が証明しているように広範囲の被害と半永久的に立ち入れない地域が出来てしまうと言うリスクはあまりにも高すぎてまともな神経なら反原発を唱えるのは当然の事ではありますが、日本のように官民一体で安全神話なるものを信じ込まされて来た場合は事が起こってから意識が目覚めるのはいたしかたない部分があります。 日本が1970年代にオーストリアのような選択をしていたなら、今頃は原発に変わるエネルギーを開発し、世界のエネルギーモデル国になっていただろうと思うと残念な気がします。日本の技術力、経済力、そしてオーストリアやドイツにはない自然エネルギーに有利な国土を持ってすれば可能性はかなり高かったはずです。中央、地方に大小のエネルギー産業が出来、雇用の面でも地域の活性化の面でも不安と隣り合わせの原発などとは比較にならないメリットが出ていたのはちょっと想像すれば分かります。かなりの遅れをとってしまったけれど、今から脱原発を実現し、新たなエネルギー開発に官民連携で乗り出せば、まだこれから原発を作ろうとしている後進国に対して手本となるに違いありません。危険な原発技術ではなく自然エネルギーの技術を輸出するのなら世界中誰もが賛成することなのですから。 1人1人の感受性 「広島に原爆が落ちて66年目。震災とは全くの別物だけれど同じ国の惨事なの」「今も新しい原発が建設されている。これでは地球が疲弊してしまうわ」「私は感じるの。私たちを見つめる死者たちの問いかけを・・・」映画についてエリセ監督は語ります。「地球の隅々にまでメッセージを届けるには、私のこれまでの映画と違って、シンプルで直接的な発信をしなければいけないと思ったんです」と。 そして「1960年代、映画が社会を変革出来ると信じた人が大勢いた。でも結局社会は変わらなかった。ただし『1人1人の感受性を高める事はできる』『映画に限らず、芸術の持つ意味はやはり大きい』と語っています」まさにその通りで社会全体にかかわる事は結局1人1人の感受性を高める事がもっとも基本的で効果的な事なのではないかと思うからです。ヒューマニズムとは感受性のゆたかさから湧き起こる必然的な感情であると思うからです。映画に限らずあらゆる芸術が1人1人の感受性を高める可能性を持つものなら、その存在意義は確かに大きいですし、逆に言えば芸術の衰退はそのまま社会の危機にかかわる事ではないでしょうか。 フランスの心 フランスやドイツに比べ自然エネルギーを応用出来る地理的環境が揃っている日本が、先陣を切って脱原発をやり遂げ、同時に自然エネルギー開発の最先端国になって、その技術を各国に伝導するような国になった時が日本が本当にゆたかで、誇れる国になった証ではないかと思います。 間違ったエネルギー政策のおかげで科学技術があるにもかかわらず、大きく出遅れてしまった自然エネルギー開発の現状ですが、原発にかかる巨大なコストを自然エネルギーの分野に向ければ、開発の遅れは一気に取り戻せるはずです。科学者が夢を取り戻し、技術者が生き生きと力を発揮し、地域住民は危険におびえる事無く仕事を得る事が出来れば、地方の活性化はおろか日本全体が活性化するのは目に見えています。 多岐にわたる自然エネルギーの開発によって大小幅広い産業が生まれる事は間違いないですし、何よりも原発のような「負の部分」がないエネルギーは必ず国の気風を明るくします。フランスの原子力大手のアレバ社は原子力関連の雇用の大きさを訴えて原発の意義を認めさせようとしていますが、それだけ脱原発の流れに危機感を抱いているからでしょう。雇用の問題は原発が無くなっても他のエネルギー分野が活性化すれば完全にカバー出来る事ははっきりと数字で出せるでしょうし、前述した負の部分がどれだけ経済を失速させて来たかも明らかになるでしょう。 原子力は過去のエネルギー 原発がスタートした時点では科学技術がまだ太陽光など自然エネルギーを操作出来るレベルでなかった事もあります。しかし実際は20年ぐらい前には日本の科学技術は世界でもトップクラスのレベルに達していて、もし自然エネルギー利用にシフトを切っていたなら、現在のエネルギー世界の風景は随分違っていたはずです。「核」と言う戦略的な政治背景と「利権」と言う経済と権力を絡める巨悪が自然エネルギーの開発を押さえ込んで来たのも事実です。現在、原発が建っている場所に自然エネルギーの基地が出来ていたら、現地の雇用や活性化はもちろん産業界全体が原子力とは比較にならないぐらい活気と安定感を持っていた事も確実です。 本当に馬鹿な政策を続けて来たものだと呆れ果てますが、長きに渡りほとんど真実を知らされず、洗脳とも言える施策をとって来た政府や電力会社の傲慢な姿勢はいくら反省しても償えるものではありません。科学レベルが上がり自然エネルギーの可能性は大きく広がっている今、もう原子力は「過去の誤った火」であったと認識すべき時ではないかと思うのです。 尽きない悪事 読んでいてうんざりするような内容ですが、これはどう考えても買収です。政治資金規正法などの裏をかいて表面化しないようにやって来たのでしょうが、こんな議員がどれだけいるのか実態を公表するべきだと思います。先般のやらせメールと言い人間としての最低限のモラルすら消え失せたような体質で、安全も人命もあったものではありません。 東電から資金をもらっている政治家も情けないけれど、こんな事が平然と許されるような国はどうかしています。道徳的に考えれば完全に犯罪的行為だと思われるような出来事が次々に明るみに出ても、反省も内省もしない腐りきった人たち。彼らの悪事を訴追する力がこれだけ弱ければ、民主国家そのものも名ばかりになっているのではないかと不安になります。 実際、福島の地震、津波の恐ろしい天災にかぶさるように起きた原発事故と言う人災。被災者の置かれた現状に対する国や東電の言動を見ていると、国として、事故責任企業としてまず被災者の救済ありきでやっているようにはとても思えません。現状においても未来においても多くの被災者が経済的にも健康被害に対しても泣き寝入りになってしまうのではないかと思えるような事の運びです。国民1人1人が国や東電の動きを監視しなければ彼らはまた大きな災厄を作り出してしまうのは情けない事ですが、腐った体質が直らない限り必然的にそうなってしまうのも事実です。 グリーンシティー 電力の独占や原発にまつわるがんじがらめの利権構造で、地方に犠牲をしいてかつ地方の産業や文化まで衰退させてしまった日本のあり方はここに来て福島原発事故と言う最悪の形で露呈しました。恐ろしい放射能汚染のみならず経済に対しても環境に対しても人間の心に対しても悪影響を与え続けて来た原発からの離脱は日本国としての責務でもありますし、将来に向けて日本を生き生きとした国にするためには絶対必要な条件でもあります。 太陽光や風力以外にも無数の可能性が広がる再生可能エネルギーへのシフトは地方や小企業の独立性と発展を促す強力な手段になり得るのはエネルギー先進国の実例を見ても、多角的なシュミレーションに照らしても明らかな事です。「グリーンシティー」や「ブルーシティー」のような美しい代名詞のつく地方都市が生まれ、東京や大阪に集中する企業や人が「ブルーシティーに住みたい」と思わしめるようにならなければ、日本の再生も発展もないのではないかと思うのです。
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今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。