料理は人のためならず でも料理と笑顔はデザインの原点であるとは今も思っています。材料が揃っている時も揃わない時も、時間がたっぷりある時もない時も、調理の仕方とアイデアでカバーする。それに相手の人の笑顔を想像出来なければ力は入りません。体の弱ったおじいさんおばあさんに元気づけようと昆布を煮込みます。黒砂糖少々に山椒と減塩醤油でことことことこと。 昆布は安物だけどおばあさんが「市販のどんな高価な塩昆布より美味しいよ」と笑ってくれたら料理は生きます。先日とあるレストランで300円のガーリックトーストと400円のその店で一番安いグラスワインを注文したら、ボーイにそれだけですか?と言うような顔をされて嫌な思いをしたけれど焼きたての小さなフランスパンをニコニコしながら運んで来たウエイトレスの笑顔に救われました。笑顔もまた人のためならず。安い赤ワインとフランスパンそして笑顔が加わればどんな高級料理より美味しいのは本当です。
誕生日と寿命 5年の間に4人。4人とも僕と同世代。1人は病気も怪我も恐れない無茶な生き方で事故死、後の3人は煙草も吸わないしお酒も控えめだったけど癌や肺炎などの病気で死んでしまいました。生きていれば「お互いもう誕生日を喜ぶ歳ではないね」といいながら楽しいお酒を飲んでいたに違いない友人達。 寿命って一体なんだろうと思います。あの世の友人と交信出来たならきっと彼らは生きているうちにもっとこうしろああしろとアドバイスをくれるだろうけどそれがままならないのがこの世でもあります。それでも少しは彼らが言うであろう言葉を想像して生きなければならないなと思うこのごろです。 古の都 駅前や観光名所には人があふれていますがちょっと外れれば観光客のいない静かな場所に出会えるのは京都も奈良も同じです。ガイドブックには載っていないけれどほとんど人のいない素敵な場所は結構あってそんな空間にたたずむ時こそ古都の魅力を実感出来る時です。 人気のない古墳の側道。時たま通るのは近所の民家の人達だけ。古墳の堀には水鳥が浮かび亀と鯉がのんびりと泳いでいます。人と車。 体の不自由な人は別として京都や奈良ぐらい電車で来てのんびり歩けばいいものを市街地も観光名所も車であふれて情緒どころではありません。自宅の駐車場から車に乗せられて若草山の駐車場で降りて鹿を見たって何になるでしょう。そんな神経の親を持った子供達は可哀想です。 歩いてこそ目に入るもの、香るもの。途中の駅や電車内での出来事、何事もストーリーがなければ感じないものです。などと考えながら周りを見るとここは別世界。てくてく歩いた甲斐があります。
自律と自立 同じ教室でそれぞれが違う課目を勝手にやっている光景は日本では考えられない事ですが日本では考えられない事がヨーロッパでは当たり前だと言う事は多々あります。いかにして個性ある人間を育てるか、いかにして心正しい人間を育てるか、いかにして想像力のある人間を育てるかは教育の三位一体で不動の概念です。 知識や教養はその3つを育てるための一つの方法で目的ではありません。そう考えると近年の日本の教育がいかに間違って来たかが分かります。間違った教育概念を持たされた子供が親になり教師になり疑問も持たないまままた間違った教育を子供に押付ける。恐ろしい悪循環ですがその間違いに気づいている親や教育者も少なからずいて少しでも是正されて行く事を期待します。 同じく自立とは「他に従属せず自主の地位に立つ事」とありますが「自律」と言う子供時代からの育て方がなければ「自立」もなかなか生まれるものではありません。大人になっていい先輩に出会うとか、たまたま読んだ本に影響されるとか映画とか音楽とか友人とか恋人とか意識の変革はいつでも可能だけれど「自律」と言う基本が培われていなければ果たしてそれはどうだろうかと考えてしまいます。 大人と子供 もちろん子供の中にも青年の中にも早くにそれを感じ理解する人もいるでしょうがその人達はその時点で大人だと言えるでしょう。逆にいつまでたっても自分の事しか考えられない人間は体だけ大きくなった子供ではないでしょうか。子供から大人へ至る経緯を年齢だけで考えるのは危険です。 それこそいい歳をして何の客観性もなく自分の殻から出れない子供としかいいようのない大人がいっぱいいます。まして恐ろしいのはそのような精神構造でも社会的な仕事はできると言う事です。 政治家でも遊び人でも医者でも教授でも学者でも社長でもサラリーマンでも絵描きでも音楽家でもジャンルは関係なく自分のために事をなしてよしとしている偏狭としか言いようのない人間がいます。命に対する尊厳どころか人へのいたわり、善悪のみきわめすらおぼつかない人間を大人とは呼べません。 しかも本当の子供は子供を作れないけど大人のような子供は子供を作れます。子供の規範となれない子供のような大人が子供を作ることはとても恐ろしい事だと僕には思えますし、実際身の周りでもニュースででもそれが大きな原因だと見られる不幸な事例が多々あってやりきれない気分になります。それでも自分自身子供ではないけれどまだ大人に至っていないのは確かで死ぬまでに大人になれるのだろうかと思うぐらい遠い事ではあります。
自己と他者 そして数限りない出会い。母の愛、父の愛。友人の言葉、恋人の想い。本との出会い、音楽との出会い、映画との出会い、旅先での見ず知らずの人からの厚意。愛らしい動物の仕草や美しい景色に救われた事も幾度もあります。 自分はいろいろなものに生かされているんだとその時々に気がつくのだけれどついつい自分で生きているのだと横柄に考えてしまう事もあります。多くの他者に教えられ助けられ励まされて生きてこられた自分。 空気や水や食べ物の恩恵を除外しても他者から受けた恩恵はあまりにも大きく広く、それに比べれば自分が他者に向けて来た愛情やそこから生まれる行為などは不安になるぐらい僅かなものです。人はみなそれぞれ他者によって生かされている。そう考えれば人は誰だって謙虚にしかなれないはずではないでしょうか。 オバマとブッシュ 爆弾の破片ややけどを全身に負った子供達の泣き声と顔をニュースでかいま見ただけで胸がつまります。核廃絶を訴えブッシュ政権に比べればオバマ政権は随分スマートで平和指向を感じますが今この時もイラクやアフガンで理不尽な死をとげている人達の事を思うとやりきれません。 それでも少しでも世界がいい方向へ向かうならばよしとするしかありません。日本の政治も戦後長く続いた自民党政権によるなれ合い政治と小泉政権がもたらした弱肉強食の殺伐とした社会風潮が民主党政権になって是正される兆候があるのはいい事です。人体の病気に例えれば末期症状のような日本を回復させるのは至難の事ですが今の民主党の気概が長く続く事を祈るような気持ちになります。 世界の中で日本はやっぱり違うぞと言うような独自の世界観、価値観を取り戻さなければ日本と言う国の存在意義すら怪しくなります。長い歴史と文化のある国。価値ある伝統や伝承がそこここにある国だから一人一人がちょっと意識を変えて過去の日本人、日本文化のいい部分に目を向けるだけでも日本人の価値観は大きく変わるに違いありません。
暖かい日が続くけれど 極地の氷が融け、氷河が後退し高山の万年雪が消えつつある現状。洋上の島々の水没も恐ろしいけど空から見れば日本列島だって人が住む大半は沿岸部の薄っぺらい部分で水位が少し上がればどうなることか。 エネルギーを使い放題で来た先進諸国には大きな責任があります。ここに来て環境問題に意識の低かったアメリカも重い腰を上げつつありますが消費大国日本も北欧やドイツ、フランスぐらいの意識は持たないと無責任と言うものです。Co2削減や森林などの環境保護を考える事は温暖化防止のためだけではなく価値観の回復にもなります。 人間にとって何が一番大切なのか。命とか生きるとか言う事はどう言う事なのか。愛があって笑顔があって信頼がなければ、生きていても面白くないと僕は思います。心はいくら使っても環境汚染にはならないけど物質の消費はそのまま環境汚染です。考えれば行き過ぎた金銭欲や物質欲は心の汚染と言えるでしょうし心の汚染こそ一番危険な環境問題だとも言えます。
11年連続年間3万人をこえる自殺者 自殺は極めて個人的な問題であると同時に極めて社会的な問題でもあります。健康問題を考えると医療体制の不備と矛盾が浮かび上がりますし、経済は弱肉強食、家庭は核家族、物質主義に偏った絆の稀薄、介護などの福祉環境の不備も大きな問題です。 経済大国日本の経済力は一体どこに消え失せているのでしょうか。今公開で行われている事業仕分けの結果を見てもあまりにも巨額の税金が天下りを始め理不尽な組織に流れています。それでも氷山の一角。ダムをはじめとする無駄な公共事業の巨費と破壊された環境。国政にたずさわる人間のモラルの低下とそれに伴う官民癒着。 一個数千億のダム建設の費用を困窮する医療や福祉の現場にまわせば多くの人が助かります。空調が行き届きネオン輝く街の路上で暮らさなければならない人々のための宿舎建設、老人介護で身も心も疲れ果てている人達のための福祉施設建設、人間が最低限守られなければならない基本的人権への投資は急務ですしそれらにまつわる事業はもっとも有効な経済効果、雇用対策にもなります。 エコカー減税やエコポイントなどの目先の施策で自動車や家電メーカーなどの機嫌を取ってる場合ではありません。本当に大切なものは何かを考えられない時代。自殺者が増え続ける最大の原因はそこにあると思うのです。 原始人と野蛮人と言うより野蛮性 文明が規則や礼儀、思いやりや調和、正義やものの道理などもろもろの概念の上に構築されて来たものだとしたらそのうちの幾つかは原始人にも備わっていたでしょう。逆に飛行機に乗り自動車を乗り回しゴルフクラブを振り回す現代の人間の中にも野蛮人はいます。何故なら野蛮人とは自分以外の人に対して心を向けない人間の事だと思うからです。 他人に対して精神的にせよ肉体的にせよ暴力と無感心は野蛮性のバロメーターです。苦労して手にした魚や木の実を他人にあたりまえのように分ける人間は原始社会でも中世でも現代でも少数かも知れませんがそれが本来の文明人です。 もしかしたらその時々の社会の質はその時代に属する文明人と野蛮人の比で決定されるのではないかと思うぐらいです。時代は変遷し変化し推移するけれどそれは進歩や進化とは別物です。 ある側面からすると現代はかなり後退した時代かも知れません。高級車からチンパンジーが降りて来ても驚かないけど野蛮人が降りて来たら情けなくなります。現代人は物質的な豊かさを手に入れたけどそれを享受するに値するような精神的背景があるのだろうかと考えてしまいます。いつの時代も野蛮人はあきません。
夜空の星と街の灯 代わりに地上の光は増え続けてまるで天地が逆転したような気にもなるけどそれは星でもなく永遠の光でもありません。点滅する現実を直視しすぎるとロマンチックな心が稀薄になりがちだけどそれは違って本当はいかなる現実をもロマンチックで包まなくては現代は精神的な意味においてますます砂漠化して行きます。 いかなる科学も芸術もロマンチックな心から発明が生まれ進歩して来たのは事実です。リンドバーグが見た宝石のようなパリの灯は天上の星そのものであったのだと僕には思えます。 事業仕分けと復興 ダムの工事用道路が10億とか橋が30億とか生徒数50人の小学校が10億とか今行われている事業仕分けの概念からすれば言語道断の事業です。もちろんこれは廃止になるでしょうが他にも恐るべき巨額の無駄が幾つも潜んでいるような気がします。 天下りやハコもの、怪しい団体や組織を一掃するのは当然ですが、教育や医療、福祉などに関連する事業はじっくり精査して必要なものは逆に予算を増やすぐらいの配慮がないと行けないと思います。以前入った喫茶店の90才近いけど元気なおばあさんの言葉「同じ敗戦国なのに戦後ドイツは復興の柱に教育を立てたけど日本は経済ばかり優先させてこのざまだよ」まさに事業仕分けはその時と同じ意味合いを持っています。 科学や芸術などの教育をちゃんとして人間らしい人間を育てる事を優先しなければ本当の経済効果など絶対に生まれない事をこの60年間が証明しています。
学生と煙草 もしかしたら彼らはいつもこのベンチで学校帰りに話し込むのを常としているのかな、と思いました。そうであるなら早々に退散しようと思って本を閉じてふと見ると2人が見当たりません。妙だなと思って立ち上がって見渡すと砂場の奥でしゃがみ込んで煙草を吸っています。 なるほどこっちをちらちら見ていたのは後ろめたいからだなと合点しました。彼らの方へ歩いて行くとちょっと体を固くしましたが笑いながら「ベンチが空いたよ」と言うと「ありがとうございます」と爽やかな笑顔が返って来ました。「煙草はいいけど吸い殻は捨てるなよ」「心根がよかったら煙草ぐらいいいよ」と言うと「はいっ!」と気持ちのいい返答。 思い出せば高校のトイレで隠れて煙草を吸っていた級友が数人いました。みんな情があって正義感もあっていい奴でその後の人生でも変わらず人間的な生き方を通しています。形式と本質。人間として何が悪くて何がいいのかの本質的な事を教えずに形式だけでくくってしまうと自己判断の出来ない人間になってしまいます。 思いやり、やさしさ、エチケット、マナー、大切なのは人としての本質、人としての考え方です。人に言われるのでもなく合わせるのでもなく「自律」の心を育てる事。今の日本の教育に一番欠けている事だと僕は思います。 寒暖の差と貧富の差 日雇いの仕事をしながら、空き缶を集めながら、何とかその日その日をしのぎながら暮らしていた人達。中にはダンボールとベニヤ板でこしらえた小屋で詩を書いたり彫刻を作ったりする人もいて季節のいい夜には仲間に入れてもらってとりとめのない話をしました。あれから何年経ったでしょう。 寒空の下みんなどうしているのか心残りです。追い出すんなら簡素でもいいから代わりの住まいぐらい用意すればいいのに非情です。過去に幾度も書いているけど浮浪者や路上生活者と言ってもいろいろな人がいて、心やさしい人も酷い人もいます。絵に描いたような不運の連続で疲弊してしまった人。気の弱さが災いして行き詰まった人。 横着な人や心ない人も混じっているけれどそれは普通一般の職業や社会でも同じ事です。地球温暖化の影響で世界中で気象異状が起こっていますが、エゴイズムでヒートアップした社会も精神の温暖化と呼びたくなります。自身の酸欠でいらいらして世の事、人の事など見ざる言わざる聞かざるがごとく。人を避けてひっそりと生きる社会的弱者を助けるどころか殴ったりののしったりして自らのストレスを発散するサラリーマン。浮浪者を面白半分で襲う学生グループ。狂っているのは気象だけではありません。
便利さの功罪 固定電話しかない時代、友人との待ち合わせとか仕事の段取りとかどうやっていたのだろうと不思議な気がするほどの変わりようだけど思い出せば今と比べてもそんなに不便を感じなかったのは事実です。 それより例えば待ち合わせの場所に相手が時間通りにこなくて公衆電話から連絡すると大抵お父さんかお母さんが出て来て「10分ぐらい前に慌てて出て行ったよ」とか「あの子はよく遅れるんです。着いたらきつく言ってやって下さい」とか相手の家族とのコミュニケーションが生まれるきっかけにもなりました。 お前のお母さんは面白い人だねとかお前の親父さんは愛想がないね、とかお前の弟はちょっと頭がおかしいのではないかなどとジョークも込めてお互いの家族も話題に上ります。 相手を待たさないようにする気持ち、待ち合わせ場所を間違わないようにとの慎重さ、安易に連絡が取れないから約束の重みは今よりずっと大きいものでした。そう言う不便さは信頼や思いやりなどお互いの絆を強める働きがあったような気がします。便利さから得るものと失うもの。 一体どっちが大事なんだろう?と思うけれど僕を含めて知人友人で携帯を持っていないのはたった一人だけ。それでも彼はしょっちゅう中国やアメリカへ出かけて何の不自由も感じていないようだから、これは案外心の持ち方、生活スタイルに対する考え方だけの問題かも知れません。
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今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。