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2009

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すずめとかえる
2009/06/01  公園のベンチで本を読んでいると一羽の小すずめがぴょこぴょことすぐ近くまでやって来ます。親すずめほど人間に警戒心がないのでしょうか。人間はすずめの天敵でもないし、もしひどいことをする人間がいなければ親すずめだって頭や肩にとまるかも知れません。愛らしいすずめも随分減少していると言います。かえる、こおろぎ、ばった、ちょうちょ、とんぼ、かなぶん、ざりがに。子供の頃、町中で普通に見かけた小動物は田舎でさえどんどん減少しています。人間以外が存在し得ないような無機質な街は結局人間をも疎外してしまうのに。

と思うけど無数の生き物に対する配慮は置き去りにされ環境破壊はあらゆる場所で行われつづけています。あのユニークでちょっと不思議な生き物「かえる」の代わりなんてどこにもありません。ひらひらと舞う美しいちょうちょの代わりだってありません。あらゆる小動物は子供達の好奇心をさそい、感受性を学ぶ尊い存在です。環境破壊と言えばまず森林の消失や河川や海の汚染を連想するけれどそれは同時に無数の生き物の命を奪っていることでもあります。先日食事をしている時友人が「僕たちは偉そうに牛や豚を食べるだけの値打ちがあるんだろうか?」と言ったので思わず「そんな事言ったら何も食べれなくなるじゃないか」と答えたけど人間は時にそれぐらいの自問をしてもいいのではないかと思いました。どんな命も地球と言う器の中の共同体である事は間違いないのですから。

 

本質と形式
2009/06/02  一般常識や社会通念にとらわれすぎると形式がそのまま本質だと勘違いしてしまいます。紙切れ一枚の婚姻届はお互いの愛情を保証するものではありませんし、青信号は命を保証するものでもありません。結婚と言う形式がなくても終生愛し合う2人もいます。打算や諦観で形式だけを維持した結果の悔恨の思いに何とも言えないやるせなさを感じた事が幾度かあります。人間関係、病気や経済等の理由でどうしようもない場合もあるでしょうが、本質的に考えると決断出来る場合もあるように思えます。人間を躊躇させるのは形式的な事が多いからです。

ある時居酒屋でいろいろなお客さんを眺めながら「話したり一緒にいて面白い人間とそうでない人間の差はどこにあるのだろう」と考えた事がありますが、その一つの要因にはその人が本質的な考えをもとに話しているか形式的に話しているかの差があるような気がします。その人が本当に感じた事や考えた事を話すのを聞いていると面白いですし、立て前や常識的な話に終始する人は面白くありません。本質的な会話なら深く話し込めるのも事実だし笑える事も多々あります。

友人知人を見渡しても本質的な考え方の人間は確かに面白いし人間としての公平感、正しさを感じますし、常識や社会通念を主体に話す人には面白さを感じません。個人が硬化しているような気もしますし、個性が消失しているようでもあるからです。何事に関しても本質があってこそ形式が生きるのであって、形式だけならばそれは形骸と言うべきではないでしょうか。


優先順位
2009/06/03  何が大事で何が大事でないかなどと考えすぎると姑息になってしまうし実際見えないもの、意識しないものの中にこそ大事なものが隠れていると直感的に思って探し求めるけどそれはいつも混乱と疲弊。やっぱり生きて行く上で優先順位は必要だと思う。でもちゃんと生きていれば自分が大切だと思うものの中に大事なものはほとんど含まれていると思うし、アイデアだって教示だって大切に思うものを見つめればそこにあると思う。話がめちゃくちゃだけどやっぱり優先順位などは要らないと思う。優先座席等と書かれていなくても老人や弱っている人に席を譲るのは当たり前だし、迷っている人に道を教えるのも当たり前の事。結局優先されなければいけないものは「おもいやり」であったり「やさしさ」であるわけだからそれだけを意識すればいいと思う。

 

静かなるもの
2009/06/06  土曜日の午後、観光地京都は人がいっぱい。それでも有名でない路地やお寺は静かなものです。ここは三條からバスで数駅の知らないお寺。広い境内にはいくつかの建物とたくさんの木々が気持ちのいい影を落としています。数人の人と2匹の猫がのんびりと寝そべっています。お寺には住職のような猫がたいていいるものです。1人の若者が携帯を猫の顔に触れるほど近づけて写真を撮っていまが猫は伸びをしたりあくびをしたり警戒心ゼロです。

2匹の猫としゃがんだ若者の構図がユーモラスです。大きな鐘があります。つり下げた梁がへし折れないかと思うほど重量を感じる大きな鐘です。三重塔があります。精巧な木組みと全体の造形バランスに言葉を失います。まさに建築です。木陰に腰を下ろして近所のパン屋さんで買ったサンドウィッチを食べます。どんなお店で食べる料理より美味しく感じます。風があって光があって影があって猫がいて。水もあります。目を凝らせば蟻や名も知らない小さな虫達がせっせと動いています。ここは静かなるものでにぎわう場所です。

 

考える事をやめた時
2009/06/07  一枚の映画ポスターのコピーに思わず立ち止まりました。「考える事をやめた時、人間は怪物になる」と書かれていました。戦争や飢餓などの極限状態でも思考停止にならず考える事をやめない人もいます。表面上にせよ平和があり何とか生きて行ける日本において社会や環境そして自分の生き方について考え続けるのは当然だと思うけれど現実はそうではないようです。

友人達とボクシングの話や野球の話、音楽や映画の話で盛り上がるけどいつもお互いどう生きるかは常のテーマです。肉体の存続に空気や水や食物が不可欠なように精神にもいくつかの要素は不可欠です。生き方や人間を考える事はいわば水と空気のようなもので人として絶対要素ではないでしょうか。生き方と言う原点がなければ仕事も友情も恋愛も味気ないものです。政治家や資本家の詐欺まがいの行為、頻発する凶悪事件。人間は考える事をやめると恐ろしい怪物になります。乱暴な運転、ゴミの放置、煙草の投げ捨て、日常の中に考えるべきことはいっぱいあります。エチケットもセンスも思いやりも考え続ける事から派生する癖のようなものになればいいなと思います。

多くの人が「人間はいかに生きるべきか」を考える事をやめたとき社会はあらぬ方向へ流れます。考える事をやめる事はエゴイズムに染まる事です。エゴイズムから生まれるものは恐ろしいものばかりです。環境破壊、ほとんどの犯罪、そして忌まわしい戦争、殺戮。以前村上ファンドの村上氏が記者に責任を問われて「お金を儲けて何が悪いのですか?」と逆質問していましたがあっけにとられます。お金の儲け方が悪いのです。子供だって分かるでしょう。人間は考えなければなりません。


 

人生の始まり
2009/06/09  歴史的な科学者であるパスカルはこう書いています。「人はその一生を人がこの世に生まれて来た最初の年から数える。私なら理性が誕生して理性によって人がゆり動かされはじめた時からしか数えたくない。そう言う事は普通二十歳前には起らないものである。この時期以前には人は子供である。子供は人間ではない」18歳当時この文章を読んだ時には反発を感じましたがそれは当然の事、子供であったからです。最近つくづく思います。

仮に40歳であり、学歴も社会的地位も家庭もあって子供のような人(純粋とか冒険心があるとかいい意味ではなく)がどうして存在するのだろうと。子供と大人と言う対比で考えるとこの謎は解けません。遺伝、家庭環境、教養の偏り、経験のなさ・・・どう考えても分からないけれど前述のパスカルの言葉を読みなおして分かりました。「人間は理性が誕生して理性によって心が揺り動かされた時から始まる」とすれば理性によって心が揺り動かされない人はいつまでたっても子供だと言う事です。大人なのに子供だと言うのは矛盾ではないのです。理性とは道徳とか社会通念とか法規とかに従っていればいいと言うものではありません。

どちらかと言えばあらゆる事象に疑いを持ち真実を追究するのが理性です。もっと言えば理性とは自己保身や安定を常にぐらつかせるものであるでしょう。数年前に惜しくも他界した知人、路上生活を続けていた哲学者が言いました。「バースさん僕は人生と言うのは全てを失った時から始まると思うのです」含蓄の極みです。

 

戦争と日常
2009/06/11  恐ろしい夢を見ました。学生時代の友人達とどこかの村でものづくりをしていると村が急に戦争に巻き込まれどこの国か分からない軍服をきた兵隊がなだれ込んで来たのです。恐ろしさのあまり固まってしまった友人達を兵隊達は次々と射殺して行きます。両手を上げて無抵抗を示してもおかまいなしです。みんな殺されました。兵隊達がこっちに近づいて来てどうせ殺されるのなら無駄でも「なんでこんな残酷な事をするんだ」と糾弾してやろうと思ったところで目が覚めました。

起きてからも体のどこかに弾が穴をあけていないかとまさぐったほどリアルで嫌な夢でした。戦争に関する書物やドキュメンタリーフィルムを見て何度も吐きそうになって最後まで読む事も見る事も出来なくなった事が幾度かあります。実際に戦争に行ったおじいさんの話を聞いてそのおぞましさにしばらくご飯が食べれなくなった事もあります。こんな非人間的な戦争という行為が歴史上何度も繰り返され、今この時でさえ戦争が日常と言う国もあります。人間であるならば誰だって戦争は嫌です。

いかなる理由があれ戦争をもくろむような人間がいるとすればそれは人間の形をした違う生物です。この日本、一見平和に見えるけれど自殺や殺人や孤独死が日常的に起こっています。悲しい事です。他人に対する無関心、社会に対する無関心、生き方についての無関心。無関心は無知につながり無知は無慈悲につながります。先日神戸の新開地で見た演劇。鬱病から立ち直れない友人にかっての仲間達がそれぞれの思いをぶつけていくストーリーでしたが、人は人の事を心から思う時に自分の事も思えるんだと分かりました。励ましてもいけない、同調してもいけない、見放してもいけない、じゃあどうすればいいんだと考え悩んだあげくのアドバイスなら少しは伝わるものではないでしょうか。日常の中にはそれぞれにとっての小さな戦争がいくつかあって心あるなら無視出来ない事も多々あると思います。



2006/06/13  友っていいなと最初に思ったのは5歳の時でした。フランスから帰った父の友人と父の会話を聞いたときです。バスの事故で右手を失ったその人は左手で器用に箱マッチをすり、さっと煙草に火を点けながら「やあ、元気だったか」と満面の笑み。「お前こそ右手無くして大変じゃないか」と父。アルセーヌルパンのような風貌の友人に人見知りを隠せなかった僕も2人の忌憚の無い会話にうれしくなりました。友っていいなと思いました。

僕がいまだにライターより箱マッチが好きなのはそのおじさんの印象が素敵だったからです。14歳の時、父が山から転落して急逝。悲報を聞いてまっ先に駆けつけたのはもう1人の父の友人でした。今と違い不便な岡山の山奥からどうやって来たのか分からないけど茫然自失する母を勇気づけていたのを思い出します。「後の事は心配しなくても大丈夫だから」友っていいなと思いました。その後出会った小説、三銃士やシャーロックホームズがこの上なく好きなのも物語の主体が友情にあるからです。

先日、何十年ぶりに岡山のおじさんを訪ねました。今でも不便なところです。病床に横たわるおじさん。僕を見てにこっと笑うその顔はあの時母を励ましてくれた顔そのままです。父が生き返ってここにいればこう言うでしょう「おい、起きろ、一緒に絵を描きに行こう」片腕の画家も言うでしょう「お前はまだ両手があるじゃないか、起きて一緒に絵を描きに行こう」


マスコミの表裏と曖昧
2009/06/15  テレビや新聞で人やお店の紹介がありますが、今までに幾度か「えっ」と思う事もありました。自分が実際に知ってる人や店が出ていた時で僕の印象とあまりに違いがあるからです。利権と見栄に奔走している坊さんがまるで病んだ社会の救世主のように紹介されたり、友人とこの店は値段が高い他は何もないねとあきれかえったレストランが数日後のテレビで「通をうならせる味」とかで紹介されるのを見るとマスコミの他の報道に関しても疑いの目を持ってしまいます。取材側の知識と五感の問題もあるでしょうが真実を報道するとなると話題に事欠く事情もあるのだとは察します。

本当に人間的な生き様をしている人やうなるほど美味しい店は多くはないと思うからです。でもしかし限られた番組枠、記事枠の中で埋もれた大問題は五万とあるはずです。個人やお店の取材ならともかく政治や教育、医療などの社会の根幹をなす問題には出来る限りの公平さと真摯な目を持って伝えて欲しいと思います。何事も一事が万事です。些細な事だからと言って吟味しない報道姿勢は重要な問題をも曖昧に流してしまいます。聴視者や読者に自ら考えて判断出来る要素を与えるような報道でないとそれは報道と言うより洗脳に近いものではないでしょうか。

 

回遊
2009/06/16  数センチほどの浅瀬を何の稚魚かは分からないけれど数百匹が群れて泳いでいます。半透明な小さな魚群の動きは滑らかで早くてきれいです。先頭がいるのでしょうか、右へ左へ完璧な統率です。しばらく目で後を追うと魚群が回りだしました。先頭と後尾が交わるほどの小さな岩の周りをぐるぐると回るのです。遊んでいるのでしょうか。ぐるぐると何回も回ります。

水流が丸い波紋を起こしています。目が回らないかと心配するほどのスピードです。しばらくするとまた右へ左へ行進して適当な岩が見つかるとまた回りだします。やっぱり遊んでいるのでしょう。人間だってメリーゴーランドやコーヒーカップなどの回る遊具は大好きです。娘を喜ばそうと懸命にコーヒーカップのハンドルを回し自分が目をまわして「お父さんはあほやね」とたしなめられた事を思い出します。身じろぎもせず魚達を見ている自分はあの時とひとつも変わっていないなと思って横を見ると知らぬ間にそばにいた鳩が「何か持ってないの」と言うので帰って食べようと思っていたサンドウィッチを少しちぎってあげました。するとどうでしょう、パタパタと鳩が寄って来ます。

横の鳩はおねだり係だったのでしょうか。すずめもやって来ます。不公平にならないように小さくちぎって配っていると大好きなハムカツサンドはあっと言う間に無くなりました。食べ損なった鳩が「おじさんはあほやね」と言ったような気がしたので、「打算や計算はないけど理性はちゃんとあります」と言い返して、再度コンビニでハムカツを買いたい心を抑えて帰りました。


たこフェリー
2009/06/19  子供の頃なじみの寿司屋さんで注文するのは決まって同じ、たこと鉄火巻。飽きもせずたこ鉄火たこ鉄火の繰りかえしで小さな寿司皿が積み上がって行くのがちょっと自慢でした。寿司屋の大将が間合いを見て次々と握りながら父に「お子さんは本当にたこが好きですね」とウィンク。父は「経済的でいいですよ」と笑っています。昔からたこと鉄火は安いのです。帰りに大将はたこの足を一本くれます。片手を引かれ片手にたこを持ってしゃぶりながら家路へ。

たこはいつも良き友でした。そんな思い出が強いからでしょうか、たこで有名な明石は好きな町です。たこ焼きもおいしいし寿司は本場、海へ出ると巨大なたこが描かれたフェリーが明石と淡路島を行き来しています。船は情緒があっていい乗り物です。聞けば年々過剰な架け橋と道路料金の値下げでフェリーの経営は苦しいと言います。好きな建築、好きなお店、好きな公園、好きな映画館、好きな劇場。本質的な価値を吟味せずに経済効率だけで好きなものが次々と消え失せる今の日本は絶対間違ってると思うのだけど現実は現実。この愛らしいたこフェリーも今度来た時には廃業しているかも知れません。

情緒はお金では買えないし演出も出来ません。そう言えばこの町には古くて小さな映画館もあります。観客はまばらで存続出来るのか心配です。車でさっさと海を渡るのもいいけれどたこに揺られて渡る方が僕は好きです。ピカピカの映画館より古い匂いがする劇場が僕は好きです。短絡的な価値観は物ををピカピカにするけれど、心と頭は荒廃します。


 

100円ハイキング
2009/06/21  大きな家です。どこをどう回ってどう入るのだろうと要らぬ心配をするほど大きな家です。100人は裕に住めそうな家だけど実際は数人の人が住んでいるだけのようです。小学生の頃大阪の下町の悪友と100円ハイキングによく出かけました。

阪急電車で梅田から芦屋川まで往復100円と言う企画があって六甲山に登るのです。気持ちのいい川沿いの道をしばらく歩くと登山口に着きます。途中、下町生まれの僕たちには縁のない豪邸が点在していて友が「これはなんだね?」と門や塀の隙間をさがして中をうかがい知ろうとおもっても庭の木々がじゃまして家の全貌は見えません。図書館や美術館ならともかく僕たちにはこれが個人の家だとは信じられませんでした。当時大阪の下町は長屋が主体で門扉のある家を見かける事すらなかったのです。

どころか入口に施錠している家すらまれでした。盗まれる物がないからか治安がよかったからか定かではありませんが呑気でした。「大きすぎるね」口々にそう言って「さすが芦屋だ」と妙な納得。山頂を目指します。巨石の名所ロックガーデンではふざけて危ない目にも遭いましたがそれぞれ「思いで傷」ぐらいですんだのは幸運でした。数十年後集まったとき1人が「これはあの時六甲の切り株でついた傷だよ」とズボンの裾をまくってすねを見せれば「俺のこの傷はお前に押されて怪我したんだ」と袖をまくります。

おにぎりと水筒と100円硬貨で六甲山へ登って帰って来れるのだからまさに最高。それにしても大人の同伴者なしの小学生が山や海へ自由に出かけられる社会でなくては行けないと思うけれど、昨今の世相を考えると危なくてとてもとても。悲しい事です。

 

芸術家とは何だろう?
2009/06/25  おそらくは自らの精神性を高め自らの苦悩の中で人の痛みと自然の声が理解出来る人、そして自らの命を削ってでも他者への愛を模索しそれを表現しようとする人の総称だと僕は思います。絵画、音楽、文学、科学、哲学、医学、法学、ありとあらゆる道の中に芸術の芽は息吹いているけれど共に成長するには厳しすぎる選択であるしほとんどは遠望どころか気づいても気づかなくても踏みつぶしてしまいます。すぐれた技巧を習得した画家や音楽家、文筆家であっても、頭脳明晰、手練手管、いかにすぐれた医者であっても、学者であっても心底に流れる愛がなければ芸術家とはほど遠い存在だと思うのです。

技術や知識や想像力とともに感性と人間性が共鳴しなければ到達しえないものが「芸術」ではないでしょうか。あまたのジャンルに数えきれないほどの作家がいるけれど歴史的に見ても「芸術家」と呼べる人は一握りです。友人たちと何十年来語り合って来たテーマの中で一番多いのが「人間とはなんだ」と「芸術家とはなんだ」の二つです。職業も生き方もばらばらだけどお互い常に気になるテーマには違いありません。

公園で缶ビールをちびりと飲みながら、ビアホールで大ジョッキをぐいと飲みながら友の「僕たちは芸術家とは銀河系の端と端より遠い存在だけど、はたして人間にはなれているのだろうか」との恐るべき質問にビールの苦みが増した事がたびたびあるけれど「まずは人間を目指そう」そして銀河系の距離を縮めるためにも「なるだけ保身主義はやめよう」「だって保身的な芸術家なんて絶対に存在し得ないのだから」とのもう1人の友の回答に「やっぱり僕たちはどうころんでも芸術家が好きなんだね」

 

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