あきないものの尊さ 何回読み返しても飽きない本。何回見ても飽きない映画。何回聞いても飽きない曲。飽きがこないってことは生きようと思う事です。一緒にいても飽きない人。いくらしゃべっても、いくら笑っても、いくら見つめ合っても飽きない人。人と人のいい関係はそれが全てではないだろうか、と考えたりします。
おぼろげな記憶と想像力を駆使して 去年の今日は何をしていたんだろう、と2007年のノートをめくると空白のページがあって何も思い出せません。思いどうりのこと、思っても見ないことが次々と起こり1年ぐらいはあっと言う間に過ぎ去ります。 楽しいと思っても悲しいと思ってもそれは一瞬、切れ目無く続く道は振り返ればおぼろげで先を見てもおぼろげです。ならば今はどうかと言えばそれもまた不確実。でも確定しないからこそ大切に思ったり努力が続くのかも知れません。
狂気はすぐそばにも ナイフを持った人間からとっさの判断で身を守るなど不可能だとあらためて思いました。夏の炎天下に見るからに苛立を募らせた顔をして歩いている人がそこここにいます。さっきのように肩でも当たれば切れてしまう人間もいるかも知れません。早く買い物を済ませてここから脱出しなければと大げさでなく思う土曜日の午後です。
アメリカ型の資本主義に歯止めをかけなければ 超大国アメリカの環境に対する配慮の無さは驚くべきものがありますが地球の危機が目に見えるところ迄来ている今、いかなる金の亡者も意識を切り替えなくてはなりません。地球が汚染、疲弊すれば人間もそのダメージから逃げる事はできないのですから。 先日イタリアのデザイナー、ブルーノ・ムナーリ展「あの手この手」を見て来ましたが人生にはお金では買えない楽しい世界がいっぱいあります。むろん今の世はお金が圧倒的力を持っていますがあの手この手で経済を抑える事、それはそのまま環境汚染を抑える事になります。
まさに芸術的な月の満ち欠けと光 学生の頃北海道や四国の山中で闇夜を照らす月の明るさに驚いて以来、その存在に感動しつづけてもう40年が流れました。あらゆる場所でいかなる心境の時も月は変わらない光で包んでくれます。調和の光とでも呼びたいような芸術的な光。優しいけど凛々しい月に今日も乾杯です。
叡智とは? 快適な暮らしに必要な物を求めて科学は発達して来たけれど現代人は生きる上での指針をなくしてしまって必要な物ではなく「不必要な物」に拘泥しているのではないか。それはそのまま環境破壊の根源だし「本当に必要な物」を国レベル、個人レベルで見直すだけでも随分変わるだろうな・・・と思ってるうちに雨が止みました。 豪雨に傘が役に立たずシャツもカバンもびしょぬれになったけど温暖化がこのまま進めば近い将来水没してしまう街や村があります。雨に濡れるぐらいは乾けば終わりだけど島や都市の水没は取り返しのつかない恐ろしい出来事です。防ぎようのない天災。 でも戦争を始め暗黒の過去を作ってきたのはほとんどが人災ですしある意味進化しない人類が制御不能とも言える恐ろしい科学力を持った今、未曾有の人災である「環境破壊」は果たして止められるのだろうか?と恐怖を覚えます。洞爺湖サミットののんびり感を目の当たりにして不安は増大するばかりです。
2008/07/10 アブラゼミ→ジージリジリジリ 環境が壊されると人間の心も荒む 路地に水を打つ音、風鈴の音色、新聞紙に乗せたかき氷を持って子供達が走って行きます。風情ある建築、家屋が次々と破壊され醜いマンションがところ構わず出現する昨今の事情。古い家屋を維持出来ない日本の施策に問題があるようですが建てる側は金儲け主義以外の理由は見えません。 そんな馬鹿げたマンションを喜んで購入する人の気持ちが理解できませんが、売れるから建てるのでしょう。美しい風景をぶち壊すマンションや商業ビルを何故もっと厳密に規制しないのでしょうか。補修保護されながら昔の美しい景観を保つヨーロッパの街並を見る度にため息が出ます。日本は京都だって酷い有様です。環境が壊されると人間の心も壊れて行くのが何故わからないのでしょうか。
かえるやせみがいなくなった時 数えきれない生物全体の大切な地球なのに人間と言うただ1つの種がエゴイスティックな破壊を続けています。必要を越えて不必要な消費を煽らなければ成り立たないような資本主義はあまりにも馬鹿げてます。うんざりするような偽装問題もしかり。 金拝主義によって人間のモラルが急速に失われつつあるように思われます。自由主義、自由社会、それは人間としてのモラルがちゃんとある世界で自分だけよかったらいいと言う今とはほど遠い世界です。ツクツクボーシの鳴き声が懐かしいこのごろです。 |
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。