笑顔に勝る妙薬はなし 薬局へ行くとたくさんの薬があって、スーパーへ行くと栄養のある食べ物がいっぱいあるけど、元気のために一つ選ぶとしたら、それはアリナミンでもサロンパスでもうなぎの蒲焼きでもキャベツでもなく好きな人の笑顔です。可愛い猫を見た時の気持ち、いるかの賢い仕種を見た時の気持ち、美しい風景や素敵な芸術に接した時と同じようなものでしょうか。いや、好きな人の笑顔は僕にとっては最上級です。 空き地の重要性 僕の子供時代には大阪市内にも空き地があちこちにあって、「今日はあそこで野球、明日は別の空き地で陣地合戦」などと遊ぶ目的によって空き地を選択していたほど。空き地のがらくたを積み上げて秘密基地を作ったり、空き地に住んでる犬や猫に家を作ってあげたり、「空き地」はある意味学校にもまして勉強やコミュニケーションの場でした。 それにしても今の子供達がコンピューターゲームばかりしても仕方ないなと思います。外で遊ぶと言っても自由にはね回る空間がありません。都市空間の中にも、それから人間の心の中にも無目的な「空き地」のような空間が必要だと思うのです。
感性があれば分かる事 政治家と言う職業につく人の不思議なほどの質の悪さ。これほど魅力的な人が少ない職業は他に類を見ません。前の小泉さんのあの形相。僕には背筋が凍るほど嫌な人間に見えるけど、それを男前だとか男らしいだとかびっくりするような賛辞で応援する人達がこの日本にはいっぱいいるのだと思うと、荒廃するモラルや教育の不毛などが進行しても不思議ではありません。 もっと普通の感性を持った人を育てる国にしないと、芸術の香りがまったくしない国になります。日本ハムの野球。素敵でした。森本、新庄、稲葉の3人の選手が外野でグラブを頭に乗せひざまづいて談笑する光景は大好きな「三銃士」に見えました。 いつも愛していたい
切り取りたいような空
誕生日と命日 この地球と言う営みの中では限りなく小さな一つの命だけれど、人によってはその一つの命はとてつもなく大きく、重いものでもあります。夕方携帯にメールが入りました「お父さん、私も夕方からお祖母ちゃんに会いに行って来るよ」何故だか分からないけど短いメールの文字を見て目頭が熱くなりました。
たまの暴投は許すけど でも、自分の構えたミットにピシッと返球してくれるような人との会話は楽しいものです。そんな人と共にする食事は全てが美味しく感じられます。大切な時間と空間を共有する人と人の関係。ボールはお互い気持ちよく受けたり投げたりしたいものです。まあたまの暴投ぐらいはお互い許し合いましょう。
土台から壊してもそれは同じ1からではない その場その場のちょっとしたニュアンスの違いが積み重なって、今あるものが出来上がっています。絶対に取り戻せない過去もあるけど、再構築できるものもあります。それはごく限られた事ですが、あることはあると思いますし、少なくともものづくりに関しては、勇気を持って壊してしまわなければ、前に進まない時があるのではないでしょうか。 迷走的な日々 めざしている「夢と調和」に近づいているのか遠ざかっているのかすらも分からない今、この時。とにかく自分をもっと追いつめて絞り込んでいかなくてはいけない。淡々と遊々とそれができたならいい感じなんだけど、それはまだまだ先になりそう。
世界はとてつもなく広く深い 君は夕陽を追いかける。黒猫とカラスがほほえみをかわす。信じられないだろうけど世界は不思議でいっぱいになる。そう、ひとたび気を入れれば世界はとてつもなく広い。見えないのは見ようとしないから、感じないのは感じようとしないだけのこと。
こそこそ、せかせかは平和な国には似合わない 今現在でも、紛争が絶えず難民と飢餓に苦しむアフリカの国々、パレスチナやイラクの現実を見るたびに「もし自分があそこにいたらどうしてるだろう」と考えます。どうしてるも何もただ命を守るために必死でそれ以外は考えられないでしょう。そしてこの日本。何か変だなあと思います。多くの人が食べるにはことかかないはずなのに、命の危険にもさらされてはいないのに、なんかこそこそしています。 なんか面白くなさそうな顔をしています。一回きりの人生だと分かっているのになんで躊躇ばかりするのだろう?と思わせるような人が多すぎます。「我が人生に悔いはなし」と思えるかどうか分かりませんが、そう思えるように生きたいし、そのための勇気と夢、なるだけ努力もしていきます。
本当に解決する気があるのだろうか? 核は重大な問題だけれど、それよりずっと前に国際社会が拉致の問題を深刻な人道問題だと受け止めてくれていたらよかったのに。日本外交の弱さと拉致問題に対する薄情さをずっと見続けてきた拉致家族の方々の気持ち。政府に対して歯ぎしりするほどの思いがあるのにじっと我慢して地道な活動を続けておられる家族の方々。高齢なお父さんお母さんが元気なうちに解決するのでしょうか。 バイオリズムの神秘
昨夜札幌から全国を感動させたファイターズの野球は素晴らしかったけど、スポーツの世界以外で素敵な事が起こるような世界になんでならないのでしょうか。正念場、土壇場、崖っぷち。10年に一度のバースの惑星直列バイオリズムは周期を重ねるごとに大きくなるような気がします。
ただの弱いものいじめとしか思えない 「ああ、これではもう無理」ここにはいられないなと実感しました。数年前から1人去り2人去りの連続でとうとう最後。公金の無駄使いに汚職、談合などを繰り返してきた大阪市政に彼らを追い払う権利があるだろうか?彼らに嫌がらせや暴行を加えた人間はいるけど、彼らが何か乱暴を働いたと言うような事は聞いたことがありませんし、彼らが生きるために懸命に働いていたことも僕は知ってます。僕には小屋の撤去そのものが、ただただ弱いものいじめにしか思えないのです。<グランブルーに続きを書いています>
時はまさに命なり 延びたり縮んだり、消えたりのしかかってきたり、変幻自在の「時」に翻弄されながら生きているのだけれど、人はあたかも時計と言う簡単な道具で時を制御しているかのような錯覚に陥ります。バイオリズムの海とも言える自然界は均一な時を刻まず、それぞれオリジナルに流れています。そして無数の時と時との交点がこの地球上のあらゆるドラマを生み出していると思うのです。「時は金なり」ではなく「時は命」なのです。
どうすれば隣国の独裁国家と向き合えるのか 北朝鮮が地下核実験を行ったらしい、と言うニュースです。前々から話題に上っていて北朝鮮ならやりかねないと思っていたから驚きはありませんが、何ともきな臭い隣国の動向にやりきれない気持ちがつのります。 明らかに非人間的な独裁国家が存在していて、国際世界はそれをどうしようもないと言う現実。経済制裁やエネルギー封鎖をしても苦しむのは罪もない人達ですからほんとに悔しい。 長い苦しみが続く拉致被害者の問題にしても、果たしてもっと決定的な外交手段、必死でねばり強い交渉はできないものなんでしょうか。
セノーテが消えないうちに なんかとてもラッキーな感じがします。昔から自然現象の不思議を見つけてはラッキーの印とする僕には極めつけの現象。この幸運の効力が消えないうちに停滞してる壁を破って前進しなければ行けません。
感性の一致は何よりもうれしいもの 成人してからもお互い仕事も生き方もかなり違って疎遠の時期も長くありました。「兄弟やけど考え方も感性もかなり違うな」と長い間思っていたのです。でも最近会って話し込むことが時々ありそれは間違いだと確信しました。スポーツのこと、映画のこと、音楽のこと、社会のこと・・・話すテーマのほとんどのことが示し合わせたように一致、同感します。 「なあ、全然違う道を生きて来たのにこれだけ意見や好みが一致するってこれはやっぱり遺伝か?」と聞くと「案外似た道を歩いて来てるのかもわかれへんしな」「ただお父ちゃんのことはほとんど記憶にないしその差はあるような気がする」「それはあるやろな」サッカーの話題にしても好きな選手、嫌いな選手の好みがぴたっと一致するとうれしいもの。 「サッカーは釜本や杉山がいた頃が世界に一番近かったね」と言うと「サッカーは精神的な土壌とイマジネーションのスポーツだから、日本がこれだけ精神的に荒廃してしまったら無理だよ、兄ちゃん」「そうやな」「でも日本にも素敵な人もいっぱいいるしまだ可能性はあるよ」 「うん、それは僕も認めるけど、かなり少数派だからな〜」弟の言う少数派がそれぞれもう少し意見を言いもう少し行動的に生きだしたら、案外早くフランスやドイツに追いつくかも知れない。アメリカと違って日本にはもともと古き良き土壌がありますから。 野良人間!! 「君は野良犬かい?」と訊ねると「ううん、違うよ、おじさんは野良人間かい?」と逆に訊ねられて「違うよ、海を見に来たんだ。それと夕陽をね」「おじさん変わってるね」「なんで?」「だってこんな季節にここに来る人なんていないから」確かに誰もいない浜辺。「君がいるじゃないか」「僕はこの近くに住んでるから、毎日来るんだ」「ねえ、ここに来て一緒に夕陽を見ないかい」野良犬じゃない犬は横へ来てちょこんと座ります。肩に手をまわせないから頭をなでながら「こうやって2人で見る海は素敵だね」想像は続きます。
水は命をつなぐだけではなく心を浄化するもの ピンポン玉のようなまん丸で可愛い卵に命の不思議を感じました。海、つながってるのに様々な色や顔を持つ海。山口、広島、岡山、愛媛、香川・・いろんな場所から見た穏やかな瀬戸内。見るたびに神秘な気持ちになる島根、鳥取の海。沖縄やシンガポールのエメラルドグリーンの透明に驚いたこともありました。海、湖、そして川。人は美しい水辺に立つと気持ちが浄化されて想像の羽が生えるのかも知れません。
何かにしがみつかないと流されそう
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今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。