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霜月/11/November


 

bluedot

 

人間と社会
2010/11/01  新聞の広告欄に「いま、日本では社会的に力を持っている人の多くに、恐ろしいほど倫理観が欠如しています」と言う見出しの書かれた本がありました。仏教に関する本のようですが、その言葉には感を同じくします。そう言う人はもともと倫理観が薄いのか、それとも社会的力を得る中で倫理観を無くして行ったのかは分からないけれど戦後日本の社会背景を考えると社会的力を得るために倫理観をねじ曲げたり、捨て去ってしまった人間が多いように見受けられます。

広告デザインと言う仕事柄、様々なジャンルの経営者や学識者と呼ばれる人に会って来ましたが、あっと驚くほど、倫理観に欠如した人は少なからずです。そこそこ地位のある宗教家にもそのような人はいて唖然とした事もありましたが、その原因を深く考える必要があります。反対に社会的弱者の中には倫理観を持つ人が少なからずいてますます考える必要があります。数年前に撤去されてしまいましたが大阪の天王寺美術館に続く歩道橋の上に路上生活者のテントや小屋が並んでいて、ひょんな事から時々話す関係になったのですが、穏やかでやさしい人達でした。あの過酷な状況ですから厭世観や皮肉っぽい人もいたけれど少なくとも倫理観はあると感じました。人間と社会、この切り離せない2つの関係、人間が社会をつくり、社会が人間をつくる。まるでニワトリとタマゴのような関係ですが、僕には人間「個人」が先にありきと思われるのです。

 

考えてみる
2010/11/02  なぜ空が青いのか?なぜ青い色を見ると気分がいいのか?物理的に無機質な月がなぜロマンチックな象徴の一つとして昔も今も例えられるのか?なぜ戦争や殺人が繰り返し起こるのか?なぜ人間は不幸そうな顔をした人が多いのか?無神経な人間はどうやって出来るのか?イラク戦争を起こした真の理由、動機は何なのか?なぜラーメン店を何百店舗にも拡大しなくてはいけないのか?なぜ暴力団が無くならないのか?一体人間は進化しているのか退化しているのか?賢さとは?宗教の存在理由?芸術とは何なのか?幸せとは?寿命とは?愛とは?等々ちょっと意識を傾ければいくつもの疑問が浮かびます。物理的、心理的メカニズムが分かっても釈然としない問題。

分かるようで分からない問題は、身近にもたくさんあります。「考えても仕方ない」「自分には関係ない」「時間の無駄」などと思わずに時には「考えてみる」事は必要です。考えれば少しは何かが変わるかも知れないし、全ては自分に関係ある事だし、時間はもっと無駄に使っている事もあるはずだからです。


 

歩くということ
2010/11/04  空気爽やかな季節、歩く幸せ、歩ける幸運をつくづく感じる季節でもあります。病気や事故で自由な歩行を奪われた人、老齢で引きずるように歩く人を見ると、何事もなく早歩きできるのが申し訳ないような気がします。歩くと言う事。歩いている時は周囲をじっくり観察する事もできますし、無心にもなれます。創造的な事を考えるにはもっとも適した状態ではないかと思えます。飛行機、自動車、電車、自転車、歩行。移動手段による心理状態の違いは確かにあって歩行とは逆に自動車を運転している時がもっとも短絡的になるのは経験上分かります。車が必需品になってしまった地方の現状はよく分かるけど、交通網が整備された都会で必要もないのに車を乗り回す人間は考えものです。

もともと短絡的だから何も考えずに車に乗るのか、車に頼りすぎるから短絡的になるのか分からないけど、運搬車等の仕事に不可欠な車以外は規制がいるのではないかと思う時があります。歩くと言う事。車はいつでも運転出来るけど、歩けると言う事は幸運な事です。学生時代のように「あの地平線まで歩こう」とか「夕陽に向かって歩こう」とか、そんな壮大な歩き方は無理だけど、時に数時間、せめて日常バス停2つぐらいのスーパーへは歩こうと思うのです。

 

透明ということ
2010/11/07  上流から下流へ、白川の流れにそって歩くだけで京都を満喫できます。通りと川べりに建つ家屋を結ぶ小さな橋が形も間隔も不規則に架かって、橋の下では鴨が休息。京都に来るたびに古い建物は姿を消して行くけれど、味のある木造の家屋が川沿いにぽつんぽつんと残っていてちょっと想像力を働かせば往年の面影がよみがえります。浅い川底をすべるように流れる小さな川。小気味いい勢いがあって透明、きらきらと輝く波紋がきれいです。透明であるということ。澱まないということ。取り巻く環境は随分変わってしまったけれど、変わらない流れがあります。栄枯盛衰の祇園の街を何事もないかのように流れる白川。透明であるということ。流れの中に誤解も曲解もしえない透明な意志のようなものを感じた午後のひとときでした。

 

自然と人工物
2010/11/10  街を歩いていると奈良や京都に限らず古いものの再発見、再認識、再感動が多々あります。家屋、看板、橋、路地、お地蔵さん、昔ながらのお店など「やっぱりよく出来ているな」「やっぱりこの空間はいいな」としばし立ち止まって眺めてしまいます。新しいものが悪いとは言わないけれど、視覚的、精神的な配慮の欠けた建造物や計画が目に余るのも事実です。

心なごむ料理が幾つもの配慮、素材や調理やもてなしの心から成り立っているように、どんな分野にもそれぞれの配慮があってしかるべしだと思うのです。ジオデシック・ドームの考案で有名なバックミンスター・フラーが「人工的」ということばに対して「私にいわせれば[人工的]ということばには何の意味もない。人間は自然が許した範囲でのみ行為できるものだ。

人間は何も発見したりはしない。人は自然界に作用する原則を見いだし、その原則を一般化したり、思いがけない方向に応用したりする方法を見つけるのである。これがいわゆる発見である。・・・しかし、かれらは人工的なことは何もしない。まず自然がそれを許さなければならないのであり、許したならそれは自然なことなのだ。非自然的なことは一切存在しない」といっているけれど、これは現代の専門家とされる人々には耳が痛い言葉ではないかと思います。


小さな木馬

草食系と言うけれど
2010/11/16  ちょっと込み入った話もあって友人と空いてそうな居酒屋へ。店内は予想通りガラガラでこれならゆっくり話が出来るなと思ってまずはビールを乾杯。「空いててよかったね」などと言いながらメニューを見ていると大学生らしき若者が1人、また1人。結局10人前後のグループとなって近くの席に陣取りました。何となく大人しそうな面々だけれど、お酒が入れば大声を出すものが1人や2人いるものです。今のうちに離れた席に移ろうかとの考えもよぎったけれどそのままに。時は流れ会話とお酒も随分進んだころあまりの静かさに「あれっ?」と思ってグループの方を見ると、お酒も料理も進んでいない様子。最初のビールや飲み物が半分ぐらい残っているものもいて妙に静かな雰囲気です。

そう言えばこの数ヶ月何度かこんなグループに遭遇しました。熱気がないと言うかしれっとしていると言うか、変です。おかげでこっちはじっくり話が出来るけどちょっと心配になります。周囲に全く配慮せず絶叫と言いたいような大声を連発する馬鹿者は最悪だけれど、せっかくの会食、もう少し和気あいあいは必要です。日本の若者の覇気のなさに、中国のぎらぎらした若者を採用する企業が増えて来たと新聞に書かれていたけど、それはそれで嫌な話。巷で草食系と言うけれど家畜と野生では大いに違いがあります。静けさの中にも熱意があって、やさしさの中にも野生が宿っているような若者が増えて欲しいものです。結局、若者グループが静かであってくれたおかげで友人との会話は気持ちよく進んで、杯も2人でグループ10人分はこえてしまった夜でした。

 

専門家と言うけれど
2010/11/19  過度な競争社会、時代の流れもあって職業や生き方も細分化、専門化の傾向は止まりません。犬も歩けば専門家に当たると言ってもいいような時代。町に徘徊する犬も猫も電信柱も減ってしまって、「犬も歩けば」の例えも臨場感がないけど、あらゆる事が専門家されて行きます。日々新たな蓄積が加速される現代において個人が情報、技術に対して総括的な対処など出来ないのは当然ですが、専門化が個人の魅力を細らせてしまうのも事実です。

単なる計算機にすぎなかったコンピューターがどんどん汎用化され、逆に人間はどんどん細分化されると言うのも皮肉過ぎる経過ですが、本来人間は誰しも無限の汎用性があって、あらゆる可能性を秘めた生き物です。それゆえの悩み苦しみ迷いもあります。それでもそれゆえに、閃きや発見、他者の苦しみや悲しみ、もちろん喜びにも同調する事ができます。すぐれた芸術家や科学者が専門的な知識、技法、技術だけではなく「人間に対する」「社会に対する」「自然に対する」幅広い感受性によって創造し存在しうるように、全ての人間の存在理由は汎用性の拡大、「偏狭」や「無知」に対しての限りない戦いにあるのではないのだろうかと思ったりします。と同時に専門的な事以外あまりにも無知であったり未経験であったりする人間、特に教育や政治に携わる人間、科学や芸術に邁進する人間には「専門家」だけにはなって欲しくありません。その弊害が恐ろし過ぎるからです。

 

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