果てしない物語
無縁社会 「以前ならご近所の事はたいてい耳に入って来たもんですがもう誰がどうしているのかさっぱり分かりません」薬屋さん、駄菓子屋さん、文房具屋さん、金物屋さん、果物屋さん、みんな消えてしまいました。地域のコミュニケーションの中心だった公設市場や個人商店はモノを買うだけではなくて情報を仕入れたり悩み事の相談にさえ乗ってくれる場所でした。新しく町に移り住んだ人もまず懇意になった八百屋さんなどに生活のアドバイスなど受けながら町に馴染んだものです。 人情濃かった大阪の下町もすっかり無機質になってしまったけど、都会から始まった人間関係の希薄さが地方にまで広がってまさに「無縁社会」はどんどん進行中です。地方の巨大ショッピングモールは地域の商店を壊滅させるだけではなく、人と人との会話、他者への関心もすっかり奪い取ってしまったのは事実です。 車社会の弊害、弱肉強食の罪は深いと思います。「おばあさん、そのたくあん一本下さい、それからなすの浅漬けも」「はいはい、これもおまけで入れとくよ」とキュウリの浅漬けを包むおばあさんを見て、利便や利益の為に無くしてはいけないもの、守らなければいけないものがあるということをあらためて痛感です。
対岸の火事 身近な事であっても遠く離れた事であっても知った以上は心と体が反応するような人間が増えないと社会は劣化してしまいます。と言っても個人が出来る事は限りなく小さいけれど、一人一人の反応が集積した力はどんな意図や計画より大きいのも事実です。人間は木彫りの猿ではないのですから火事が起こったら足元であろうが対岸であろうが消さねばなりません。見た事に感じて動き、聞いた事に思いを馳せ、自分の考えをちゃんと伝える事。現代に必要なのはそんな三猿ではないでしょうか。 猫と犬と子供たち 空き地や路地で出会う野良犬と子供は同じ目線で不思議な対等感があった時代です。当時可愛がっていた猫が車に轢かれたショックでしばらく立ち直れなかった事もあったけど僕が立ち直るまで家族のみならず近所の人も同じように悲しんでくれた事を思い出します。猫もまた人でした。大阪でも東京でも、地方の様々な町でも訪れるたびに猫や犬の姿を見かける事が少なくなって寂しい思いがしますが、同時に外で遊ぶ子供たちも随分少なくなりました。 公園や空き地があっても子供の姿を見かけない、一体みんなどこで何をしてるのだろう?と瞬間思う事がありますが、塾だとかコンピューターゲームとかが原因なのでしょう。情緒ある風景には不可欠な猫と犬と子供たち。風と光と土の匂いの中で育まれる感性が子供にとってどれだけ大きいか、と僕は思うけれど猫も犬も子供たちも風景からどんどん消えて行きます。
やっとやっと秋の気配 グリーンランドでは地球温暖化でマンハッタン島の数倍もある氷塊が氷河から崩落し海を南下していると言うし、2100万人に及ぶ被災者が出ているパキスタンの大洪水やモスクワの記録的猛暑など温暖化の影響は大きな暗雲です。自然災害の原因は複雑で人智の及ばないところもあるけれど、今進行しつつある温暖化現象は人的災害です。 地球と言う巨大なメカニズムの小さな構成要素でしかない人類があまりにも力を持ち過ぎた歪み。科学万能の錯覚と驕り、経済に偏り過ぎた科学の乱用を修正して地球を癒すための科学にしないと近い将来、秋がやってこない夏になるかも知れません。
古代ポリネシアの海の歌 Only to be alone,Only to be afraid、ビートルズのREAL LOVEと言う曲の中のフレーズも同時に浮かんできます。知らなければならないものはいつも遥か彼方にあって、知らなければならないものはいつもすぐそばにあって、遠ざかっても近づいても孤独と恐怖はつきまといます。
2つのコップ 自分の悩みや状態でいっぱいになってる時に他者の心を理解出来ないのは当たり前の事だけど、他者の事を考える気があるならばコップにたまった水を減らしておかなければいけません。コップの大小はそれぞれ違うでしょうが、満タンにしたり空っぽにしたり、それは急がしすぎるので2つのコップがいつもあればいいなと思うのです。
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今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。