やさしさは外から 社会的関心や感情はそのままその人の性格や行動に反映されると思うからです。自然、動物、他人を思いやるのは当たり前の事だけどそれが教えられていない人間がいるから陰惨な事件が起こります。本当に家族を思う心があるなら他者をも思うはずですし、本当に自分の事を大事に考えるなら他者を大事にするはずです。
運命の横顔 自分はこうあらねばならない、こうありたいと望む姿勢が真摯なものなら「したくないことをしなければならない」事への葛藤は避けられないでしょうし逃げる事は自己否定に等しい事かも知れません。自分自身まだまだ自覚が足りないけれどその「厳しい横顔」をしっかりと見つめる訓練を続けなければいけない。再自覚です。
親友というもの そんな嘘のような偶然がその後何度もあって自分に何かあるとあいつも同じ事が起こっているのではないかと思うようになったけどさすがに近年はまちまち。2人でよく「自由とはなんだ?」「結婚とはなんだ?」「子供とはなんだ?」「愛するとはなんだ?」などと議論してお互い離婚してしまったけれどそれぞれの子供はもうすっかり大人で僕たちはずっと子供のまま。僕の娘が「おとうさん、ちょっとは大人にならんとあかんよ」と言えば彼の息子は「親父、ちょっとは現実的になれよ」と説教されるしまつ。 それでも僕たちは何も変わらない。不変の信念などと言えばかっこいいけど20才から成長していないだけ。でも同じ土俵でずっと生きている友がいるから自分を変えずに生きて来れたのかも知れません。そんな、そんな、大切な友が死んでしまいました。癌です。ひと月前にちょっと体調がましになったら美味しいもの食べに行こうと約束していたのに。小さな時から彼をよく知る娘に悲しい知らせを告げると「おとうさん、悲しみはよく分かるけど、きっとお父さんが悲しむ事なんか望んでないよ」娘に言われてやっぱり僕は子供なんだと涙します。 大人と子供 こんな人が部下や学生をよい方向に指導出来るとは到底思えないような人が社会の上層部にけっこういるのが不思議です。人間性を高めるための原点となるやさしさがなければ体験や経験は何ももたらさないのではないだろうか。大人なら当然であるべき事。子供を守りいたわる心。 後輩を指導する心。年齢は一律に経て行くけれど精神年齢は平行しないからやっかいです。子供を虐待する親、子供の心に鈍感な親や教師。幼い子供を放置してパチンコする親が一体大人でしょうか。子供が子供をつくるのは恐るべき事です。
雲の上と下 重力をコントロール出来る方法が早く発明されないかなと期待するのも落ちる事への恐怖故の事。ピーターパンやスーパーマンに憧れるのも当然の事です。曇天の日でも雨の日でも雲の上はいつも青空、超高層ビルも巨大なタンカーも高空からは小さなおもちゃのよう。そんな小さな世界を支配する人間が山を削り海を埋め立て環境を破壊し続けている現実。雲の下、高度を下げた飛行機の小窓から見える風景には疑問符が幾つも浮かびます。
孤立と絶望 それでも話せる人がいるだけでも救いになります。脳裏に話せる人すら浮かばないような状況におかれたなら多くの人は絶望するでしょう。問題の解決策は見いだせなくとも親身になって話を聞いてくれるだけで、ただそれだけで救われる事もあります。「人は1人では生きいけない」。当たり前の事だけどそれは人間としての根源的な真実であって、だからこそ人は出来る限り他者を理解し愛する努力をしつづけないといけないのだと思うのです。
頭と心と感情と行為 これは極端だけど信じられないような人間は少なからずいます。思うだけで何もしない人間、短絡的な感情で人を傷つける人間。どちらも今の社会の風潮、心の孤立にその一因があるのは間違いないけど社会は人間が集まって作っているもの。不気味な川の流れを一人一人が意識して方向を変えて行かないとやばいことになるとは多くの人が「思っている」はずです。
球春 速球派ではないピッチャーが三振を奪うのは痛快そのものでその球筋が今でも脳裏に残っています。彼は小中時代の友人で僕たちが草野球をやってた小学時代から1人黙々と安治川の堤防上をランニングしていた努力家でした。中学の野球部ではフォームに悩んで2番手投手だったけど高校でのあの快刀乱麻。僕と同級生で当時から野球好きの人ならたいてい今でも覚えているほどの快投です。スポーツにまつわる思い出はいつになっても鮮明なものです。
|
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。