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グランブルーなひとたちへ

 

2002年

 

2002/12/16 古きよきもの

何でも新しいものがいいとは限らない。古いものには味があったり真実が秘められていたり、優れていることが多いものです。昔からあるもの・・・風車や水車は今輝きを取り戻し、雪だって最近になってそのエネルギーの利用法が実用化されつつあります。いつもそこにずっとあるもの。人はそれを観察して理解すれば無限の利用法があるはず。空気と水と光だけのクリーンなエネルギーだけで文明が成り立った時、人もまた自然の一員になれる時です。その時は人の感性やもの造りの本当の喜びや意義が見直される時。そしてそれこそが真の科学だと思うのです。

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2002/12/13 好奇心を忘れないで!

人は好奇心を失うと冷たい人間になってしまう。

この海は何故こんなにも青い色をしてるのだろう?あの人はなんであんなに悲しそうな顔をしてるのだろう?世界遺産はアジアにはどれだけあるのだろう?アトランティスやムーやレムリアは本当に存在したのだろうか?これだけ科学が発達をして何故餓死するような国を救えないのだろう、そして何故悲しい戦争を繰り返すの?雪の結晶は何故六角形構造をしてるんだろう?

この料理のスパイスは一体何?石油はまだまだ埋蔵されているのだろうか?水を電気分解して走る無公害の車はもっと昔から出来てるのじゃないだろうか?イルカやあざらしは何故あんなに可愛いのだろう?サッカラの階段ピラミッドはギザの太ピラミッドより新しいのでは?残酷な地雷を、レーザーや超音波でもっと効率的に撤去するテクノロジーがあるのでは?路上生活者や失業者の数は発表されているより実際は何倍もあるのでは?

世の中には疑問や感動する要素が満ちています。それなのに仕事と家族のこと、ともすれば自分以外興味も関心もなく、社会の出来事や他人に無関心でいることは心がどんどん冷たくなっている証拠です。人が生き生きとするためにはエネルギーがいります。そしてエネルギーは自らだけでなく他者からも得ることが出来るのです。あなたが何かを想い見つめれば、相手からの反射があります。それは人であっても動物であっても、物であってもあると思うのです。

人間はもしかして一人で生きていけるかもしれないですが、決して生き生きとは出来ないでしょう。何故なら自ら湧きいずるエネルギーなんてしれているからです。自分の小さな意識の照射を反射してくれるものがあってこそ、人は十分なエネルギーを得ることが出来るのです。世の中に無視していいことなんかないですし、無駄なこともありません。全ての存在には価値がありそしてエネルギーがあるのです。

人のやさしさと好奇心はとても密接な関係にあります。色々なことに興味や好奇心がある人は、身の回りの出来事や人に対しても寛大であることが出来ます。それは色々な事が起こり得る、そしてあり得る事を知っているからです。そして逆に無関心は人の冷たさそしてエゴイストな心を作ってしまうと思うのです。

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2002/12/03 崇高な生き物

今、ジェーン・グドール博士と言う女性が講演のために来日されています。彼女は幼いときにターザンにあこがれアフリカの自然や動物に興味を抱いて、生涯をその研究に捧げている人です。特に野生のチンパンジーの研究では第一人者で、その未知なる生態の数々の秘密を解きあかしています。彼女のジャングルの自然やチンパンジーに対する感覚はとても細やかで、また細やかでなければ彼らとはコミュニケーションが取れないとおっしゃっていました。人はチンパンジーより数段優れた生き物だと自負してる事が大きな勘違いだと彼女は言っています。

チンパンジーの方が少なくとも現代人より優れた所は多々あると・・・。例えばチンパンジーの母親はその子供を5才ぐらいまで決して離さずきめ細かな愛情で育てること、そして時に彼らは喧嘩をしても仲直りがとても上手であること、それらはまさに今の人間がもっとも下手と言うか喪失している事ではないでしょうか?もともとDNA配列の95パーセントが人と一緒のチンパンジーはそれぐらい出来るのが当然なのでしょうが、もしかしたら違いのある5パーセントが決定的に人間の配列の方が劣っているのかも知れません。イルカやチンパンジーにあって人間にかけているもの、これからの科学はそれを探さなければならないような気がします。

でもジェーン・グドール博士の崇高な顔を見てその心やさしい考え方を聞いていると人間もまた素晴らしい生き物だとあらためて実感します。

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2002/11/29 月と亀

ニュースで見たお話です。中南米のコスタリカの海岸には毎年信じられないようなウミガメが産卵に訪れます。新月の夜の浜辺はそれこそ足の踏み場もないほどに亀が上陸するのです。バースの故郷の四国徳島の大浜海岸もウミガメで有名な所なんですが、コスタリカの亀の多さは大浜とは比較にならないほどの数です。コスタリカの海岸沿いの村の人達は亀が産み落とした玉子を掘り返して食料としています。大浜なら大問題になります。ところがその村の人の話を聞くと納得がいくのです。あまりにもウミガメの数が多く玉子を取らないと、最初に上陸したウミガメの玉子を後から上陸するカメが踏みつぶしてしまうのだそうです。ですから自然のままに放置すると、壊れた玉子が腐敗して大変な事になるのだそうです。

村人達は最初に上陸したカメの玉子を掘り返して貴重な食料としています。卵焼きやお酒のおつまみで生卵を食べていました。(一体どんな味がするのだろう?)その恩恵の代わりに村の人達は玉子からかえった小さな子ガメを鳥などの天敵からちゃんと守って海に帰してやります。村の子供達のウミガメに対する愛着にはほのぼのとしたものを感じました。四国の大浜なら玉子を取ったり食べたりすると環境保護や動物愛護の問題になりますが、ここまで数が多いと逆に環境を守るためにも玉子を取らなければならないこともあるんだなと、理解しました。動物や自然と密接に暮らしている人達はただ動物や環境を守ればいいという単純な事ではないと言うことがかいま見れたような気がします。

それから、村の人が言っていましたがウミガメの産卵は必ず新月の暗い夜に行われていたのですが今年に限って満月の日に上陸したそうです。村の長老はこんな事はかってなかったと言っていました。今、世界中で起こっている生態系の異変は思いやりのない現代文明への警告なのだと思います。本当に考えあらためなければ人間が地球を壊してしまう、そんな現実はすぐそこまで迫っています。

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2002/11/28 心と風景

大好きだった日本海の景色が、少し変わってしまった。25年前、何も知らない僕は新潟や能登半島、鳥取や山口県の沿岸を一人歩いていた。何処かさびしそうな日本海は僕にとってはやさしい海だった。海岸にはきびしい顔をした漁師さんが網をつぐみ、近づくと手を止めてにこっと笑ってくれた。くったくなく知らない僕にご馳走してくれたおばさん達。きれいな海岸と人々の笑顔は忘れられない思い出です。あれから何度も日本海を見て、いつも同じ思いに駆られるのが自分でとても嬉しかった。そう、ほんの数カ月までは・・・

今年、恐ろしくて悲しい拉致の問題が明るみに出るまでは、ずっとそう感じていた。あの頃ぼんやりと一人で日本海沿岸を歩いていた僕は、拉致されていたかも知れない。人のいない海岸ばかり選んで歩いていたのだから・・・。ちょうど同じ頃沿岸の各地で拉致が行われていたなんて。大阪に住む僕がぞっとするぐらいだから、沿岸部に暮らす人達は今も心の何処かに不安を抱えて暮らしているのだろうなと思う。きれいでやさしくて神秘的な日本海の風景は何も変わっていないのだけれど、人間の心無い行為で風景は変わってしまう。

自然は大気汚染やタンカーの重油流出のような物理的なものだけが破壊するわけではない。少なくても人と自然の心の通い合いは、人間の起こす出来事そのものによっても汚染されてしまう。沖縄の海岸を見ただけで涙を流す人達がいる。残虐な殲滅戦を目のあたりにした人達にとってその記憶は美しい海と海岸の中に永遠に閉じ込められている。自然に何の罪もない、馬鹿げた人間の行為が自然の美しさとあまりにもかけ離れているだけ。大好きな日本海を以前のように何の曇りもなく眺められるようになるためにも、拉致問題は早く解決して欲しい、そんな気持ちでいっぱいです。

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2002/11/16 川と心

ふと気になって大阪の川ウォッチングをしました。淀川、木津川、堂島川、安治川。子供の頃の記憶をたどって、川の回りの風景や水の色など思い出しながら、ぼんやり眺めていました。この川ではボート遊びをしたな、ここではフナ釣り、この川は大人の人が泳いでたな・・。目の前の川を見て、とても考えられない風景が次々と蘇ってきました。この川この環境では出来ない子供達の遊びと思いで・・・大阪の子供達はもう決してその思いでの中には川は存在しないんだろうな・・・街中を縦横に走っていた小さな川は全部埋め立てられて道路になっているし、そこはもう僕ですら思い出す事も出来なくなっています。

残っている川も水は汚れ、かろうじて生きている感じがして、可哀想になってきます。環境汚染が叫ばれ、少しは水がきれいになった川もありますが、それでもまだまだ。いまだに汚染されつづけている川の方が多い現実。川の汚れはそのまま人の心の汚れではないのかな?そんな疑問が湧いてきます。都会の川どころか、今では田舎の川までもどんどん汚されつづけています。「ここは最後の清流です。」テレビなどでそんな言葉を聞くと悲しいより恐ろしくなってきます。川が汚れ、海が汚れ、地球が汚れれば、結局それは人間に降りかかってくるし、その前に自然に生きてる生物達は全滅です。汚染に強い新種の昆虫やウィルスなんかがうようよしてる・・・そんな地球なんてまっぴらです。

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2002/11/15 大切な物

物心つく頃の小さな子供に、最初に教えなければならないのは、自分より弱いものへのいたわりと物を大切にする心だと思います。金魚や小さな緑亀も一生懸命生きていて、あなたはそれを守らなくてはならないこと。そして食べ物はもちろん物を包む包装紙やビニールの袋でも大事にすること・・・そんな身近なことがいちばん大切だと思うのです。それは人間が人間としてあるためになくてはならない情緒だからです。

現代のような圧倒的な消費社会において、物を大切にしない心が物ではないもの、命や心までも軽んじてしまう傾向を作り出しているのではないかと考えます。確かに小さな子供に命の尊さを説くのは難しいことです。でも物を大事にすることなら教えることが出来ます。紙一枚、鉛筆一本でもどれだけ大切で、それがあれば色々な事が出来るし、もしなければどれだけ不便かということを常々教え続けることは、結局人を始めとする生き物全体に対してやさしさの心を植え付けるための第一歩になるのではないでしょうか?物のない時代、新聞紙を包装紙やトイレットペーパーの代わりに使い、習字の練習でも上手にかけるまでは新聞紙に書いていた時の心。

物を大切にする心はそのまま人を大切にする心へとつながっていたはずです。小学校から大学まで、教育の中で真っ先に見直さなければならないし、やろうと思えばすぐにでも出来ることだと思うのです。そして、親や教師が現実の暮らしの中でその心を実践して生きることが、不可欠なのです。さもないと子供達にとって、実践されていない教えは机上の空論になってしまいます。全ての親は教師であるし、全ての教師は親なのですから。

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2002/11/15 幸せって?

幸せって何だろう?人間が永遠に問い続けるこの疑問は時代によって変わるものでしょうか?それとも不変のものでしょうか?身近な動物である猫や犬を見て僕はよく考えます。飼い主の愛情をいっぱい受けて、でも束縛されて紐につながれた犬達。マンションの一室でまるでかごの鳥のように暮らす猫達。そこには生命の保証はあるけれど、自由は束縛されています。かといって今では都会に暮らす野良猫達は、生命の危機と戦いながら、なおかつ自由も束縛されています。素早くて小さな猫達はまだ都会の隙間を見つけて生きていけますが、体の大きな犬にはもう野良犬としても生きていく余地はありません。

僕が子供の頃どこを歩いていても野良犬がいました。適当にエサをもらったり拾ったりして生きていました。小さな僕でも彼らが恐いと思ったことはありません。原っぱに居座ってる野良犬なんか、僕たちが野球をするために来るのを待っていました。もちろん給食のパンやコロッケなどは忘れず持って行きました。ちゃんと犬とのコミュニケーションが取れていたんだと思います。大人でも子供でも期待して待たれているというのは嬉しいものです。きっとパンやコロッケよりも僕たちと一緒に遊びたかったのだと思います。飼い犬じゃなくて他人、いや他犬なんだけど、お互い心が通っていました。

本当に幸せって何だろう?生きること、自由であること、愛する人がいること・・・人によって価値観が違って、幸せも色々あるのだろうけど、現代のようにお金が幸せへの唯一のパスポートのようにすり替えられているのを見ると、それは違うと言いたくなります。物質的な自由を確保するにはお金が必要だと言うことは僕にだって分かっていますが、よく考えたらお金で買えるものは限られていると言うことも分かります。人の心はもちろんですが、才能にしても感受性にしても、人が幸せだなって思えることはお金で買えないものも多くあります。むしろお金と引き替えに失ってしまうものも多いと思うのです。

資本主義社会だからお金の必要性は言うまでもありませんが、あくまでもお金は貨幣です。それは生きるための道具だと思うのです。決して生きるための目的でもなく、絶対的なものでもありません。道具であるならばもっと美しく使いこなさねばならないはずです。幸せは難しい問いですが、お金は一つの要素、その人の生きる目的によっては食べるため以外、入らない場合もあるような要素だと思うのです。

幸せと不幸、少なくとも不幸はお金と言う魔物のような道具が作り出している事が多いのではないでしょうか?今、世界中で起こっている争いや心の歪みを見ていると、そう思わずにはいられません。

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2002/11/09 こんな時代だからこそ

この宇宙は真実で満たされています。でもその殆どはまだ人間が見出すことが出来ないものです。数千年の間あらゆる学問を通して人間はそれを探し続けています。そしてその一端はかいま見える時代になってきたのかも知れません。「現在まで人間が知り得た真実は一体どのくらいあるのだろう?」「そして未知は一体どのくらいあるのだろう?」そんな疑問が心をよぎります。

今の科学で認識できる宇宙の距離でさえ、実際には移動不可能な距離です。この小さな太陽系さえ自由に行き来出来ない現実。それでも何億光年の彼方の話を平気でする学者の不思議。今住んでいる地球の陸地でさえ多くの未知があり、海底に至ってはその殆どが未知の世界だと言う事実。肝炎ウィルスの撃退も水虫の特効薬すら出来ない今の科学。そしてビッグバンやブラックホールの事を臆面もなく語る科学。

未開の文化の中で綿々と続いてきた戦争を止められない現代文化。何故?歴史を振り返り現実を見つめれば誰でも何故?と言う疑問が湧いてくるはずです。もともと過去の争いの多くは貧困や科学的知識のなさが原因だと言っていたはずです。世界は今、偏りはあるものの全体的にはかってない豊かさに恵まれています。100年前には夢物語だったことが現実になっていることもたくさんあります。

人は物質的な豊かさの代償としてもっとも大切な心をなくしてしまったのでしょうか。世界中で常にどこかで起こっている戦争や餓死の話、テロに凶悪犯罪、事故死、環境破壊や動物虐待など、これは一体どう言うことなのでしょうか?疑問が湧きます。このまま進めば中途半端に科学が進んだ分、危険度は増します。戦争にしても環境にしても、もう地域の時代ではないのです。

ガラパゴスでタンカーが座礁してオイルが流出しても、アフガニスタンで子供が死んでもそれはもう他人事の時代ではないのです。と言って個人に何が出来るか?それを一人一人が考えることこそ僕には一番大切で効果的な事のように思えるのです。なるべくゴミを出さないようにするだけでも、そして老人の荷物を持ってあげるだけでも、そして個人レベルのリサイクルを考えることだけでも、もし一人一人がそれぞれの考えで何かをすれば、その力が一番大きいと思うのです。

こんな地球規模の科学の時代だからこそ、一人一人が地球とこれからの子供達を守る抑止力にならなければいけないのではないでしょうか?

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2002/11/08 気候と心

地球上には様々な気候風土があります。日本のような比較的温暖な風土でも春夏秋冬、季節によって心は変化します。寒い冬は少し心がいじけますし、春はのびやかな気持ちになります。夏には開放感が生まれ、秋にはロマンチックな気持ちになります。

温暖な日本でさえ心の動きにこんなに温度差があるんだったら、極寒の場所と常夏の場所とではそこに暮らす人の心は全く違うのだろうなと考えてしまいます。

気候は暖かく、毎日青い海を見て、魚や果物が苦労せずに手に入るような常夏の島に住む人と、冷たい氷の世界で、暖をとったり食べるものを確保する事さえままならない場所に暮らす人とでは、心の持ち方(人生観)に大きな差が出るはずです。人間としてどちらが素晴らしいかは分かりませんが、少なくとも南国の島に暮らす人の方が楽だろうなと察します。

人と人の無理解は国や人種、民族や宗教など様々な要因がありますが、気候の違いもまた要因の一つではないでしょうか。気候風土によって考え方のかなりの部分が影響されると思うのです。

また日本列島のような限定された地域でも海辺と山中、川の畔と湖の畔、そして同じ海でも日本海と太平洋など微妙な風土の違いが心やものの考え方に影響を与えているのかも知れません。風土が作る独特の気質を理解する事も人と人のコミュニケーションの上で大切な気がします。

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2002/11/06 相対的なもの

日向があって陰があります。同じように生と死、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、希望と失望、出会いと別れ等のように対になった感情や現象があります。それらはまるで絶対的なシンメトリーであるかのようです。確かに生がなければ死はありません。出会いがなければ別れもありません。でも愛がなければ憎しみは生まれないのでしょうか?

これはむしろ愛がないから憎しみが生まれるのではないでしょうか?喜びと悲しみもそうです。何に喜ぶかは別として喜びがないから悲しみが生まれる、そして希望がないから失望が生まれる・・・。喜びも希望も自分の意識と努力で見つけだすことが出来るものです。それは決して絶対的なものではありません。それらの関係を生と死のように絶対的なものと思ってしまうと、逆にこの宇宙のシンメトリーが崩れてしまうのではないでしょうか。

似たように配置された事柄も本当は全く違う次元の事があります。

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2002/11/05 心の引き出し

どんなに用心深く穏やかに生きている人でも、予期せぬことに遭遇したり、予想どうりの結果に喜んだり悲しんだり、いろいろな事があると思います。でも、多くの人はそんな出来事を乗り越えて生きていきます。怪我や病気で「ああ、もうだめだ」と、その時思っても時間が過ぎ、体が回復に向かうとまた生きる勇気が湧いてきます。

つらい出来事に出会って、呆然として何も手につかず、生きる希望さえ失ってしまったような時でも、何日、何ヶ月、何年と日が経つうちに、心の傷は癒されてきます。それは記憶自体が薄れる場合もありますし、新たな出来事によってかき消される場合もあります。もともと人間には自己防御本能があって、自分にダメージを与える出来事をなるだけ早くに消し去ろうとします。痛みや、悲しみや、苦しみを持ちづづけると、体がもたないので、忘れるように仕向けてくれるのです。反面、喜びや楽しみは、いつまでも覚えていようとします。

でも、それもまた記憶の彼方に消えてしまいます。もし忘れないようにしようとしたら、意識的に覚えているしかありません。よく紙にメモをして、メモ自体を失ってしまって、大切な事を思い出せない人がいますが、(僕自身がよくやります)本当に大切な事だったら、心の黒板にしっかりと書いておかねばなりません。そして時々読み返すぐらいでないと、人間の記憶はすぐに曖昧なものになってしまいます。

もちろん強烈な出来事は、普段忘れていても、思わぬ時にふっと蘇る時もあります。記憶とは消えるものではなく、引き出しにしまわれているものだからです。忘れられないと言う事は、自分がその出来事が入った引出しを覚えていると言う事かも知れません。突然思い出すと言うのは、何かの拍子に自分の意思ではなく、勝手に引き出しが開くことです。楽しい記憶も悲しい記憶も、自分の意思で、起こってしまった出来事は、ちゃんと引き出しの場所を覚えておく方が、未来の道しるべのためにも大切な事ではないでしょうか。

「のどもと過ぎたら熱さ忘れる」と言う言葉は、その場の自己防御にはなりますが、未来のためにも、「のどもと過ぎたらちゃんと引き出しにしまっておく」心構えも大事だと思うのです。

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2002/11/02 やさしすぎていい

人は圧倒的にやさしく生きようと努めなければなりません。何故ならこの宇宙の摂理があまりにも力学的だからです。人はやさしさにおいて自然にあらがっていいと思うのです。弱肉強食でもなく、食物連鎖でもない世界。人はこの一点においてわがままであっていいのではないでしょうか。

理不尽なこと、不条理なことに耐える力だけが、人が人として、自然の一員になれる要素のような気がするのです。

 

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