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グランブルーなひとたちへ

 

2003年

 

2003/04/02 ある町のスケッチ1

ここはとある労働者の町。空腹に絶えきれず食堂とも喫茶店ともおぼつかない店に飛び込む。カレーライスを注文してがつがつと食べる。しばらくすると作業服を着たやさしそうなお父さんが二人の娘を連れて隣のテーブルに座る。6才と8才ぐらいだろうか。お父さんは親子丼を、娘達はオムライスを頼んで座っている。二人向かい合わせに座って静かに目と目をあわせてにこにこ笑っている。感じがいい。しばらくしてオムライスが先に来た。お父さんが「お食べ」と言っても二人は食べない。親子丼が来た。二人は合掌してスプーンを走らせる。気高い娘達だなと思った。感謝もせずに食べた自分が恥ずかしくなる。店を出るとき心の中で素敵な姉妹に手を合わせた。ありがとう。

人に対する尊敬や思いやりから出た行為は気高さに満ちています。心が洗われると言うのでしょうか、見ているだけで自分の中の品性に刺激が走ります。それが幼い子供の行為ならなおさらです。この子達は素敵な親、それとも素敵な大人達と出会って生きてきたんだなと想像します。子供は大人達の背中を見て育ち、大人は子供達の無限の可能性からまた人生を学び直します。

人類だけが持つ魅力的な循環システムです。人類の素晴らしさは、子供達の笑顔と子供達の何気ない振る舞いの中に全て凝縮されているような気さえします。成長した人類(大人)がともすれば忘れがちになるものの中に、人が人として存在する理由が全てあります。

やさしさ、思いやり、好奇心。ちゃんと育った子供達が必然的に身につけている習性。それはとても気高いものです。そしてとても美しいものです。昔見た「わんぱくフリッパー」と言う映画の中で、少年とイルカが出会った瞬間に心を通わすシーンがありましたが、それこそがまぎれもなく命の気高さだと思うのです。

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2003/03/27 フセインとブッシュ

とうとう始まってしまったイラクへの攻撃。連日のように報道されるニュースを見てるだけで、心がすっかり疲れてしまいます。アメリカにとって都合の悪い部分はあまり報道されていないように思いますが、それでも正視出来ないようなシーンが撮し出されています。まるで爆弾の見本市のように新型爆弾が投下され、その性能の優秀ぶりをモニターで説明するアメリカの報道官を見ていると、この人達の心は一体どうなってるんだろう?と思わずにはいられません。昨日もバクダットの民家にミサイルが撃ち込まれました。軍人だけでなくもうかなりの民間人が亡くなっています。あんな爆弾の直撃を受けたら遺体すら見つからないだろうと思います。まつげの長いくりくりした目を持つ子供達の表情が、あまりに可愛く、そして悲哀に満ちて見えます。どんな理由があっても戦争はいけない。戦争とは結局無差別な殺戮でしかありません。

そして、もっとも忌まわしい環境破壊でもあります。アラーを悪用するフセインと正義を悪用するブッシュ。残忍な行為に神も正義もあるはずがないと言うことを多くの人は分かっています。国際的な圧力と査察でイラクの武装解除とフセイン政権の修正は確実に出来ていたのに、こんな事になるなんて残念でなりません。アメリカの言い方で世界を見るなら、大量破壊兵器を持って危険な国は他にもあるはずです。イラク戦争のこの現実を見て、世界中がアメリカを引き留めないと、アメリカはこれからも軍事介入と攻撃を仕掛けて行くのではないかと、恐ろしい不安がよぎります。世界中が疑心暗鬼になり、アメリカのように先制攻撃を仕掛けるようになったら、それはもう世界戦争になります。

日本人としてはそれぞれが反戦への意識と、それぞれのレベルでのささやかな行動しか出来ませんが、一番大切なのはこの戦争、この現実から目をそらさない事だと思います。恐ろしい爆撃が行われ、その下にはイラクの人がいること。激しい銃撃戦の双方には若いイラクやアメリカの青年が悲惨にも横たわっていること。そして、戦争を仕掛けている張本人達はフセインにしろブッシュにしろラムズフェルト長官にせよ安全な所にいること、それを忘れてはいけないと思います。アメリカがいくら友好国でも、もし小泉首相や自民党幹部が戦場に行かなければならないのだったら、彼らはこの戦争を絶対に阻止しようとするはずです。アメリカ支援何てとんでもないと言うに違いありません。僕にはアメリカの若い兵隊にせよフセインの軍隊にせよ、騙されているとしか見えないのです。偏った愛国心や正義感を植え付けられ、そのためだったら敵を殺してもそれは正しいことだとする考え方。一体敵って何?そう問いただしたいです。

 

大量破壊兵器の排除を目的に始められたこの戦争。今アメリカがしていることは大量破壊そのものではないでしょうか?とても許せない矛盾です。精密誘導爆弾だから一般市民を傷つけない?とんでもない嘘です。現にもう市場へ落ちてるじゃないですか。戦争は無差別殺戮です。テロとなんの変わりもありません。だから結局また憎しみを生むのです。憎しみの連鎖が長く続いてきた人類の歴史を見ればそれははっきりしています。今の時代に求められているのはその過去の連鎖をいかにしてやわらげ、そして少しずつ消していくかを考えることです。新たな憎しみを増やしてどうするんですか。

第二世界大戦後やっと出来た世界平和への組織、国際連合での決議をちゃんと守って進めるしか平和への方法はないのに、こんな形で破ってしまうなんて、アメリカの犯した間違いは大きいと思います。そしてオウム返しのような日本政府の行動も一国の代表である組織の反応としては、とても恥ずかしいものです。自分の意見が言えないこと、それは個人レベルでも国家レベルでも、もうそこには自由がないと言うことです。意志がないと言うことです。今からでも遅くないから、一日でも早い戦争の中止を求めて欲しい。戦争が終わってからの事ではなく、今そこにある現実に反応して欲しいと思うのです。あの可愛いイラクの子供達を一人でも死なせたり悲しませたりしたくない、人間ならだれでもそう思うはずです。

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2003/03/19 戦争?

明日の朝にはブッシュ大統領が宣戦布告の演説をするという切迫した夜です。昨年からテレビで報道されるイラク関連のニュースや番組はたくさん見てきました。各国での平和運動の盛り上がりや、フランスやドイツなどの国連での武力行使反対の意志が鮮明に現れてきて、もしかしたら査察の継続で平和的解決が出来るのではないかという期待が僕自身の中でも高まっていました。しかし土壇場に来てのアメリカの単独行動。数カ国が追随してるもののそれはアメリカの圧力によるものです。我が日本も残念ながらその中の一国です。もし、このまま戦争に突入したなら、アメリカは最初から武力行使を決めていた事になります。国連はまったく意味をなさない組織として形骸化してしまいます。

アメリカは攻撃するための名目と、タイミングを計るためだけに国連を利用していただけに見えてしまうのです。誰が考えても現在のイラクが世界の脅威になるとは思えません。大量破壊兵器やテロとの関連の確固たる証拠もなく、やみくもにフセイン政権打倒を唱え続けるアメリカの本音は、とんでもないところにあるのかも知れません。ある報道によると1998年以来、フセインは影武者を使って表面上には出ていないとの話もあります。もしフセインを倒すためだったら、大規模な軍事作戦は果たして意味があるでしょうか?本物のフセインはもうイラクにいないかも知れない。

代わりに罪もない多くの子供達が真っ先に犠牲になります。湾岸戦争での劣化ウラン弾の後遺症や経済制裁ですでにかなりの子供達が日々、幼い命を落としていると報道されています。このままアメリカの一国主義を放置しておけば世界は必ず悪い方向へと流れます。アメリカの強力な軍事力に対抗するには、悲惨なテロしかありません。アメリカの一時の勝利は世界に混乱と不安をまき散らす結果となります。暴力による民主化なんてあり得ないことです。暴力は憎しみの連鎖を必ず作ります。

戦争を目前に控えて、イラクやクウェートから戦火を逃れるために国外に脱出する人がいます。その中には戦後復興を睨んで株をたくさん買い占めてる人もいるそうです。でも、貧しい人達は避難する事も出来ません。爆弾が落ちてくるかも知れない場所に祈りながらじっとしてるしかないのです。いつでも貧しい人達や子供達が真っ先に犠牲になる戦争。それが戦争の真実です。アメリカではもう戦後のビジネスが活発に動いています。ひどい話です。利益のためにかけがえのない命を軽視する人達。

戦争はそんな人間がいる限りなくなりません。そして人の命をも軽視するような人達に、この地球の自然環境を守る事などに意識が向かうはずがありません。彼らは心をなくした人達なのです。戦争は人命を奪います。人の心に恐怖と憎しみの種を植え付けます。そしてどんな戦争でもそれは、環境破壊へそのままつながっています。平和を愛するこことはそのまま地球を愛する心です。そしてその心を持つことが人類が生き続るための唯一無二の義務でもあり、人類の存在理由だと思うのです。

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2003/03/14 イルカのように

青い海を気持ちよさそうにイルカが泳ぐビデオを見ていると、生き物って何て美しいんだろと雑念を忘れて見入ってしまいます。しなやかな姿態と豊かな表情が生命の尊さを無言のうちに伝わってくるようで、心が洗われます。その姿からは人間より遥か昔から自分たちの営みを変えずに生きてきた誇りのようなものさえ感じます。この地球の生態系のリズムに合わせて、自由にそして自然に生きてきた種族なんだと直感します。

ふと僕は思うのです。人類もひょっとしたらヨーロッパ諸国が、マヤやインカの人々やネイティブアメリカンの人々を侵略しなかったら彼らもこのイルカと同じように崇高に生きていたんではないだろうか?スペインやイギリス、フランスの強国がアフリカを侵略しなかったら彼らはもっと平和に暮らしていたのではないか?疑問は次々湧いてきます。現在の先進国は自分たちを正当化するために侵略や植民地政策についてあらゆる弁明をします。先住民が未開であったからとか、キリスト教の布教のためだとか、歴史を常に歪曲してきました。

でもどんなに正当化しても、事実を隠す事は出来ません。時代がたつにつれて彼らが野蛮だとか未開だとか言っていた民族の歴史が明らかになるにつれて、彼らが現在の文化にも匹敵するほど優れた技術や芸術性を持っていたことが徐々に分かってきました。野蛮で未開だったのは当時のヨーロッパの強国だったのです。彼らはその低次元な欲望とエゴを満たすために暴力を用いてかけがえのない幾つもの文明を滅ぼして来たのです。そして今、またしても現代の強国であるアメリカが同じ過ちを繰り返そうとしています。8000年の歴史を持つイラクに、あの千夜一夜の舞台になったバクダッドに爆弾を落とそうとしています。

もし攻撃が始まれば、かけがえのない罪のない人の命と貴重な文化遺産がどれだけ失われるか分かりません。それは人類が繰り返し行ってきた取り返しのつかない暴挙です。もう一度、あの青い海に泳ぐイルカの姿を見て欲しい。彼らからのメッセージに耳を傾けて欲しい。戦争は自然の生態系の中での食物連鎖とはまったく意味の違うものです。肉食のライオンやサメでもきっとこう言います。「あなた達が行っているのはそれは単なる殺戮です」「今すぐやめなさい」と。ましてや大人しく海草を食べるマナティーならきっとこう言うはずです。「あなた達には心があるのですか?」と・・・同じ地球の住人として恥ずかしい行為はもう止めなくてはいけません。それが地球に暮らす生命の義務だと思うからです。

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2003/03/13 人生の宝物

誰にでもある、そしてあった宝物。子供の頃ビー玉遊びに夢中になったことがあります。最初のビー玉は緑色をしたガラス玉でした。球形の半透明のビー玉は子供を惹きつける力がありました。ある時、空き缶にいっぱいたまったビー玉を眺めていたときの事です。それまで全部同じ色だと思っていたビー玉に、よく見たら色合いの違うものがあるのです。一つ一つ手にとって太陽の光に透かして見ると、濃い緑のものや薄いもの、そして中には青みがかったものもあるのです。空き缶にたまったビー玉を一つ一つ取り出しては陽にかざしてみる。

それはビー玉の中にそれぞれの宇宙を見るような思いでした。最初にきれいな青色をしたビー玉を見つけたとき、まるで宝石を見つけたように嬉しくなりました。その一個だけが明らかに他の色とは違っていたのです。それは僕の宝物でした。友達とビー玉を賭けた遊びをしても、その青いビー玉だけは賭けません。一度手放したら二度と巡り会えないような気がしたからです。その後、透明なビー玉の中に鮮やかな色のガラスを、色々な形で閉じこめたビー玉や、ミルキー玉と僕らは呼んでいた乳白色のビー玉など、子供にとっては魅力いっぱいのビー玉が出来て来ました。

最初の緑のビー玉は人気がなくなってしまいましたが、僕はあの青いビー玉を一番大切にしていました。その時は何故そのビー玉がそんなに好きなのか分からなかったのですが、それはたぶん人工的に作られた色ではなく、たまたま偶然に出来たような、大げさに言うと奇跡のように思っていたからでしょう。他にない唯一のものと、思いこんでいたのです。それは自分だけの価値観でした。友達に「どうだい、きれいだろう」と言ってポケットから大事そうにそのビー玉を出しても、「そんなのどこにでもあるじゃないか」と一蹴されるようなものでした。でも僕にはその青みがかったビー玉が大切な宝物だったのです。

他にも貝殻や、べったん、コマ等の中にもこれは特別と言うような宝物がありました。そういえば、その頃集めていたビンの王冠や牛乳ビンの紙の蓋の中にも宝物がありました。夢と遊び心がいっぱいの子供には、捨ててしまうゴミの中にも宝物がいっぱいあるのです。それは人間本来の純粋で、それこそ「価値のある価値観」のような気がするのです。ビンの王冠にも色々な色やデザインがあって、その中から自分なりに「これはいい」と思ったものを選んでいたのです。僕の記憶では、友達もそれぞれ自分なりの宝物を見つけていたような記憶があります。

その大切にしていた宝物もいつのまにかなくなってしまいました。中学までは持っていたような気がしますが、思い出せません。ただ、今はもうないけれど、その青いビー玉の事は鮮明に覚えているのです。見つけたときの気持ち、ポケットの中で握りしめていた事を覚えているのです。きっと誰でも思い出せる宝物があるのではないでしょうか?そして人間にとって、その時の気持ちこそが「人生の宝」に違いありません。

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2003/03/12 平和のための団結

同時多発テロの時、もっともアメリカに同情していたドイツの人達が、今回のイラクへの攻撃には激しく反対しています。日本と同じく戦争の悲惨さを嫌と言うほど体験したドイツの人達は、あらゆる暴力に対して心の底からのアレルギーがあるんだと思います。最初ドイツ国民が賛同したナチが暴力をもって人間性を蹂躙する様を嫌と言うほど見せつけられ、戦後も東西に分断された国の悲哀を見続けてきた国民として、暴力への恐怖と嫌悪には深い深いものがあるのでしょう。日本もその思いは同じはずです。世界で唯一の大量破壊兵器による悲惨さ、まるで地獄絵図のような体験を唯一持つ国家です。ドイツと並んで世界のどの国よりも暴力(戦争)による紛争解決の凄惨さを国民全体が唱えなければならない国です。

アメリカがどんな大義をかざそうが、暴力による問題の解決には最後まで反対しなければならない国なのです。確かに北朝鮮の暴発を恐れる日本としては同盟国アメリカとの強い絆を保つことはゆるがせに出来ないことかも知れません。しかし、だからといって不本意にアメリカの意図に組みするのは間違っています。イラク問題も北朝鮮の問題も世界の国が一致団結して圧力をかけ、話し合いを維持すれば、必ず平和的に解決出来るはずです。どんな独裁者も世界全部の国の反対や世界の意志を無視することなど出来るはずもありません。今回のイラク問題の流れを見ていると、アメリカは最初から平和的解決を望んでいないような印象を受けます。フセインが速やかな完全武装解除などするはずがないと最初から読んで攻撃へのシナリオを作っているように思われるのです。

国連安保理で無条件査察への満場一致の採決がおりた以上、例え時間がかかってもイラクは大量破壊兵器の廃絶を選択しなければならなくなるはずです。世界が一致して圧力をかけるわけですからそうせざるを得ないはずです。ところが武力攻撃と言う異なった選択肢をアメリカが強行に進めようとする中で、世界の国々の足並みは揃わなくなってしまいました。フランスやロシア、ドイツ、中国とアメリカ、イギリス、スペインなどの国が、真っ向から対立してしまえば、本来の査察さえ遂行することが出来なくなります。

もしアメリカが国連決議なしで戦争を始めれば、イラク国民にとっても悲劇ですし、アメリカにとっても悲劇だと思うのです。世界中の世論が反戦を唱えている中での暴走は、この先、大きな世界不安を作り上げるに違いありません。これを書いている今、まだ平和的解決への望みは残されています。アメリカが抜いた刀を鞘に収め、そのかわり武力攻撃に反対していた国々がアメリカと力を合わせてイラクへの圧力をもっと強めること、武力だけでなくイラクへの世界の世論をもっと増大させれば必ず戦争を起こさずに大量破壊兵器の撤廃は実現出来ると思うのです。

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2003/02/24 不思議なシナリオ

人との出会い、様々な命との出会い、喜びや悲しみとの出会い、人生は生きるに値するよう、そして生きることに飽きないように多くの出会いを用意してくれています。「こんなすてきな人がいるんだ」とか「こんな場所があったんだ」とか「こんな食べ物があったんだ」とか幾つになっても新鮮な出会いは無限に現れてくれます。始めて出会う美しい景色に接したとき、「生きていてよかった」と思います。

食べたことのない美味しい料理に出会ったときも幸せを感じます。ましてや自分が経験したことのない魅力的な人間に出会って、会話が出来たり、気持ちが通じたりした時は、それはもう歓喜です。人生という超ロングランの興業で、人は舞台の上に立ったり、客席に座ったりしながら新たなシーンに胸をときめかせながら、ストーリーのない芝居を演じ続け見続けているのだと思います。

たとえ予期せぬ悲しいシーンを演じなくてはいけないときも、客席からそんなシーンを目撃しなくてはならなかったとしても、それは次のシーンへのプロローグにすぎません。次はどんな楽しいシーンが用意されているか分からないからです。逃げることもキャンセルする事も出来るかも知れませんが、たとえ逃げたとしても、逃げるシーンを演じただけです。

たとえ客席にいて目と耳を塞いでも、それはそんな観客を演じただけだと思うのです。誰が脚本を書いてるのかは知らないけど、この予測できない、でも生きている限りシナリオが用意されている人生の場で、僕は出来るだけ自然体で役にはまろうと思うのです。だってこの演劇だけは「全ての人が主役」と言う摩訶不思議なシナリオなんですから。

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2003/02/22 こんな言葉

こんな言葉を聞いたことがありませんか?「人生はやり直しがきかないんだから」「後悔しないように」・・僕は過去にこの言葉を何度か聞いたことがあります。高校の受験の時、先生からこの言葉を幾度となく聞かされました。まだ子供だった僕にはこの言葉は脅迫めいた力がありました。放任主義の母が「好きにしたらいいよ」と言ってくれたのにも関わらず、当時の僕には学校で言われる「後悔しないように」とか「人生やり直しきかないんだから」の言葉の方が強く、それなりに勉強して志望校に入ることが出来ました。

高校に入ると学校の授業にあまり魅力を感じなくなり、授業をさぼって映画や街をぶらぶらする、今で言うと落ちこぼれの学生生活を続けました。そんな生活をしているとまたもや先輩や教師から前述の二つの言葉を聞かされました。そして同じようにでもちょっとニュアンスを違えて母は僕にこう言いました。「人生は一回きりしかないんだから、自分の好きに生きたらいいんだよ」この言葉を聞いて僕ははっとしました。学校へ行くのは義務でもないし、さぼることも権利でもない。自分の中で勝手に自由や不自由を作り出していたのかも知れない。そう思ったのです。それから僕は少し変わりました。好きな時に、好きな科目の授業には出るようにしたのです。

そしていざ自分の意志で関わって授業を聞いていると、興味も湧くし面白いのです。まるで授業が自分一人のために用意されたように錯覚したこともあります。それでも嫌な授業は受けずに街をぶらぶら・・・そんな流れで立派な劣等生として卒業して社会へ出ました。

この事について今の僕なりの考え方を書きますと「人生は何度でもやり直しがきくから」「後悔を恐れるのではなく」「本当に好きなことをする」と言うことです。一度失敗したらもうダメだと言う考え方はナンセンスです。例えば学校のことなら一度社会に出て、それで何かを学ぶためにどうしても学校へ行くことが必要なら年いってからでも学校には入れます。

最近の目的を失ったように見える若い人達を見ていると(あくまで僕が見聞する一部の事ですが)最初に書いた「人生はやり直しがきかないから」とか「後悔しないように」とかの呪文を家庭や学校で植え付けられて、「失敗した自分を」才能がないと思ったり「後悔してる自分を」もういいや見たいな諦めにも似た感情が支配しているのではないでしょうか?

「失敗は成功の母」ですし、「後悔は成長の父」だと僕は思うんです。50、60才になっても「もう一度やり直し」と考えて新たなる事にチャレンジされてる人もいるぐらいですから、20代30代の人なら、いつでもニュートラルに戻して一からやり直せるはずです。もちろん40代50代の人もです。ですから「本当にやり直しのきかない」こと、「死を選ぶ事」は、ちょっと待って欲しいのです。最近の自殺者のニュースを見る度に思う事です。

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