ヒューマニスト11
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>


<斉藤征二>

 

 

ピープルズニュース
下請け被曝労働者の組合を!全日本運輸一般・元原子力発電所分会長 斉藤征二さん

3月10〜11日にわたって、郡山で開催された「原発いらない地球(いのち)のつどい」。参加企画として、3月10日に行われた「原発労働者の労働運動─経験と課題」を取材した。原発下請労組「全日本運輸一般・原子力発電所分会」分会長・斎藤征二さんの講演と、講演後のインタビューを基に報告する。斉藤さんは、「どこにでも話をしに行く」とのことで、頭が下がる思いだ。

福島での事故収束作業では、「緊急事態」を口実に多くの労働者が、被曝労働を強いられている。住民も放射能に苦しめられている。放射能汚染に苦しむすべての人々と、被曝労働者の連帯を目指すために、かつての原発分会、分会長である斉藤さんの話しを聞き、新たな取り組みを構想したい、と主催者は語る。

まず、この日の斎藤征二さんの話を要約する。斎藤さんは玄海原発で、米企業であるウェスティングハウス(当時の国内原発はすべてアメリカ製)の社員が主導する言葉の通じない中での配管作業を経験した。以下は、斉藤さんの発言要旨だ。

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ピンハネ・使い捨て―前近代的労働慣行が横行する原発
斉藤…配管からの汚染水の漏れは、日常的に起きている。それらの配管の穴をハンマーで叩き、漏れを防ぐ。その杜撰な作業に疑問を感じながらも作業を続けたが、それが電気事業法の違反であることが分かった。私自身の作業箇所によってだ。その直後、国、県等関係機関が立ち入り調査に入り、次々に違法工事が発覚し、5月から始まる定期検査が中止になり、その点検に呼ばれていた多くの作業員が一斉にクビとなったため、私は、原発下請け労働者の労働組合を作る決意をした。職場の中で組合運動を展開させることは、不可能。バレればクビになる。暴力団による妨害もあった。仲間とともに作業員の各家庭をまわり、作業員の家族を交えて説得し、1981年に、183名の組合員を集め、組織化することに成功した。

原発に於ける最末端の多くの下請け労働者には、労働契約が交わされていない。当時元請けに支払われた、 3・7〜4万円の賃金が一次、二次、三次という多重構造によりピンハネ(中間搾取)され、末端では1日7000円足らずでの労働者も多くいる。その最末端である彼らの作業には技術はまったく不要で、役割は一言で言えば「被曝すること」だ。ウエスによる拭き取り作業などの単純作業だが、彼らこそが最大の被曝労働者であり、まさに放射能への特攻隊だ。原発内には無数の配管が張り巡らされており、無数のバルブが作業の困難な高所に集中し、そこから蒸気が漏れる。タンクに亀裂が生じたり、ポンプの故障も多発している。それらから撒き散らされる汚染水が、高温・多湿のため床にこびり付き、それを剥がし取る作業―それが、原発内作業の基本だ。「大きな地震に見舞われればどうなるか?」心配だったが、それが今、福島で、起きている。

血を吐き倒れる原発ジプシー
労働者の本当の被曝状況を知っているのは、当局(日本全国全ての発電所)だ。労働者を検査しても、データを本人には教えない。東芝、日立、三菱等、原発メーカーも、ホール・ボディー・カウンターによる内部被曝検査の結果を知っている。それらのデータは色分けされ、「この労働者はもう助からない」などと彼らは評価している、と聞いてている。今後、福島で起こるであろうことも、彼らは予測しているに違いない。1980年当時、年間50ミリSV、3ヶ月30ミリSVが作業基準であり、その数値ですら、かつて組合から引き下げを要求していたにもかかわらず、福島原発事故後、国は年間500ミリSVまで上げた。

私自身、半年間の現場作業によって受けた被曝量は22・6ミリSVに過ぎないが、その後、緑内障で両眼を手術し、甲状腺に2ミリほどの血の塊ができ、摘出。そして心筋梗塞。脊髄、骨髄にも異常が起きるなど、身体を全部壊した。被曝と健康被害の因果関係は認められていない。だが、低レベル内部被曝(チリ、ホコリ等吸いこむ)による健康被害だと、私は確信している。多くの労働者が、原発ジプシーとして全国の原発を転々とし、職場で血を吐き、倒れている。労働契約も交わされない作業員が倒れても、会社は関知しない。自己責任だ。彼らの多くは、「被曝者管理手帳」の存在さえ知らない労働者も多い。教えられてもいないからだ。病気になった時、初めて自分には何の保証もないことに気づく。突然死も多い。命を預けるマスクのフィルターには欠陥品が多く、線量を感知するアラームメーターにも故障が多い。つまり、運が悪ければとてつもない被曝を受ける。《低レベルでも被曝する》ということを立証し、認めさせることが重要だ。

被曝を押しつけられる下層労働者

この国最大の危機を回避するために働く下請け労働者の多くが、命を削りつつ、組合はおろか労働契約も交わされないまま、被曝労働を強いられている。その収束・廃炉のために、今後100万人単位の労働者が必要とさえ言われる。事故収束後も、廃炉でさらに高線量の被曝作業が待ち受け、膨大な作業員を必要とする。廃炉作業に伴うリスクは、いったい誰が背負うのか?

斎藤さん達の労組結成から2年後、1983年1月、石川県羽咋郡志賀町で行われた、地元の広域商工会主催による原発講演会で、当時の高木孝一敦賀市長は、莫大な交付金によるメリットを挙げた後、こう言い放った―「その代わりに、100年経って障がい児が生まれてくるか、わかりませんよ。けど、今の段階では、(敦賀原発を)おやりになった方がよいのではなかろうか。こういうふうに思っております」―敦賀原発は82年に着工され、87年に営業運転を開始した。悪名高い、原発専門の最大手人材派遣会社=アトックスは、首都圏から何も知らない20代の若者を集め、福島にも送り込んでいる。彼らの主な作業は、ウエスによる見えない汚染物質の拭き取りだ。それが原発内作業の基本であり、被曝労働の実態だ。

行き場のない人、訳ありの人、差別される人々が、被曝労働に従事し、原発内でも差別を受け続けている。だが、彼らなしに原発を支えることはできない。そうした環境に労働運動を持ち込むことが極めて困難なことは、容易に想像がつく。反原発運動内でも、分断と対立がある。仙台に住む僕達が「反原発」を叫ぶほどに、福島の人々は硬直してしまい、分断が深まっていく現実がある。だからこそ、反原発運動にはこれまでの労働運動とは違う運動が必要だ。被災地とも原発労働者とも繋がりを持つことの重要性だ。地域再生のためにも、地域や課題を越えて連携することが必要だ。
http://www.jimmin.com/htmldoc/144201.htm


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〈ニッポン人脈記〉石をうがつ:42012年9月5日
埋もれる苦しみを撮る
「なんだ、おれがやってた現場じゃないか」1981年4月、福井県の敦賀原発での事故隠しが報じられた時、斉藤征二(さいとう・せいじ)(71)は思わず口にした。3カ月前の事故当時、斉藤は敦賀原発で働いていた。給水加熱器にひび割れが起こり、冷却水が漏れた。現場では、原子炉を止めないまま水漏れの穴をハンマーでたたき、突貫で補修作業をした。斉藤は岡山県の中学を卒業し、大阪の鉄工所で働いた後、配管工になった。「原発で働けば世界で通用する」と親方に言われ、福井県の美浜を皮切りに、67年から全国の原発を渡り歩いた。事故隠しの敦賀原発はその後、放射能漏れも起こして6カ月の運転停止に。斉藤ら多くの作業員は仕事がなくなり、クビになった。

思えば、ひどい仕事だった。線量計が何度も振り切れ、警報音が鳴り響く中で床に漏れた廃液を拭き取った。放射線管理手帳には受けてもいない検査の名前が書かれ、「異常なし」と指定病院のゴム印が押されていた。突然のたうち回り、血を吐いた作業員もいる。「人の命を踏み台にしている」。その年の7月、183人を集めて原発作業員の労働組合を結成した。その斉藤に「人を紹介してほしい」と頼んできた男がいる。樋口健二(ひぐち・けんじ)(75)。被曝(ひばく)労働の問題をずっと掘り起こしてきた写真家だ。樋口は長野県の農家に生まれた。高校卒業後、川崎市の製鉄所で働いたが、デパートの企画展でロバート・キャパの戦場写真を見て人生が変わった。倒れる兵士、占領から解放された民衆。会社を辞めて写真学校に通った。66年7月、「公害病の患者が自殺」という見出しの小さな記事が新聞に出た。四日市ぜんそくに苦しむ男性が「仏さまになって楽になりたい」と首をつったという。患者の苦しみを伝えたい。そう思い立った樋口はすぐに三重県の四日市市に入ったが、最初はどの患者からも取材を拒まれた。「写真で金もうけをするつもりか」と罵倒されたこともある。妻子を持つ身、郵便局のアルバイトで食いつなぎながら四日市に通った。6年を経て出した写真集は、国連のコンテストで入賞を果たした。

原発の取材は73年にさかのぼる。稼働中の施設で作業員が尻に大やけどを負ったという報告を反原発の勉強会で聞いたのがきっかけだった。「傷つき、追いやられた民衆を撮りたいという思いでやってきた。日本の中心の東京で生まれていたら、こんな考えは持たなかっただろう」樋口が「負けたくない」と思った取材者がいる。ルポライターの鎌田慧(かまた・さとし)(74)。樋口が行く先々に、鎌田の名前が残っていた。鎌田は青森の高校を卒業して上京し、働いていた印刷工場を会社の都合で一方的に解雇された。その体験が、労働者や住民の側の視点で書き続ける原点になっている。「原発は危険だ。でもそれだけじゃない。金の力で地元に言うことをきかせようというのが嫌だった」

鎌田はいま、「さようなら原発」集会と1千万人署名活動の呼びかけ人として、大江健三郎(おおえ・けんざぶろう)(77)、澤地久枝(さわち・ひさえ)(82)、内橋克人(うちはし・かつと)(80)、落合恵子(おちあい・けいこ)(67)、坂本龍一(さかもと・りゅういち)(60)らと、うねりの先頭に立つ。福島の原発事故の後、樋口の仕事は改めて注目され、50を超す内外のメディアから取材を受けた。集会に呼ばれては各地を巡り、下請け労働者の被曝なしでは成り立たない原発の現状を説く。「俺は売れない写真家。売れてる奴を見ると、俺は不幸な道を選んだと思う。でも、俺の被写体は俺よりもっと不幸を背負っている」樋口が取材した原発労働者は150人にのぼる。病に倒れ、支援のないまま亡くなった人も少なくない。ボロ雑巾のように捨てられた人たちへの鎮魂の思いを胸に、伝え続ける。(大久保真紀)

http://digital.asahi.com/articles/TKY201209040318.html


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